2017-4-8 01:56 /
像樱花花瓣般的
剧情和对话都很简单,其余的部分用画面来诉说。整部影片虽说是笼罩在悲伤的氛围中,但像是要表现看过小说对场景的描写的人的心境一样,这部电影全篇对影片中描画的美丽的景色中,在日常中加入了小小的但是确实存在的“希望”的象征。
希望在这里一定要注意到主人公所追求的东西,在火车道口的对面所存在的东西。具体的就是明里,作为一种象征的存在。这部电影的最开始和最后道口的场景,因为是在同一个角度,我认为当然是有意义的。最开始在小田急线的场景却充满了最后的场景的感觉,贵树在道口的回头像是相连的一样。PV也是这样的感觉。
在最后,没有忘记小学时代的恋人,国中,高中,大学一直被束缚着生活的贵树,一直凝视道口对面可能存在的明里的贵树(从小学到大人)……岁月变迁(走过小田急线),成为了大人的眼前还是没有明里的身影……
贵树所追求的当然就是明里。但是,他们的通信中断了,时间在不知不觉中渐渐模糊(第一话,仅仅是想着要有守护她的力量而变强;第二话,在开始的场景中,贵树所看到的就是没有明里的远处的光;第三话,在进入便利店之前的独白:用手去触碰传递不到的东西,那到底会是怎样呢……公司已经辞掉了。
就像这样,对明里的思念渐渐的抽象,最后贵树都说出了不知道到底在追求着什么这种话。这也就是为什么在最后一幕明里消失的原因了吧。故事会变成理由没有详细的说明,我想这种的作品的主要部分也不需要细致的描述吧。
所以贵树最后微笑了,他所追求的东西是从明里这个具体的形象而来,什么是最重要的东西,思念,都因为是从这个身影变化而来。如此重要的思念(重要的人)隐藏在世界的哪里啊,这种想法会让人产生怜爱的心情难道不是吗。
这才是这部电影的根本所有的东西。全篇都散布着美丽的世界的,微小的但是确实存在的希望。剧情只是一个半途而废的恋爱故事却能让人心生动摇的原因就是,这是个把这种主题在无意识中传递的作品吧。
全篇的小细节:
第一话
在道口的场景和最后紧密的联系
写在信上的贵树的思念变成了鸟向明里飞去
在前往岩舟站的途中,,车窗外的飞雪反应了焦急的贵树的思念,甚至一半放弃了。
和明里分别的场景,明里说“要写信哦,电话也是“(这时还没有放弃)
开始有两只猫在一起最后只有一只了。
第二话
开头场景,在梦中的光景,永远的思念存在的地方(实际不存在)
有用弓道认真着瞄准远方的眼睛的贵树(执着)
开头的场景之后,在花苗放飞纸飞机的地方的景色有着同样的构图,特别是一颗有特征的树一样,梦中星体的光成了在现实中风力发电的光,可能是心象风景的起源。
冲浪失败了(花苗的决心受挫)
探查太阳系外的火箭(以往的遥远的思念,追求着深深相信着的重要的思念的贵树)
火箭发射的场景(讲火箭和自己重叠的贵树,知道了贵树和火箭有共通之处的花苗)
火箭的尾烟把天空分成了两边,电线把月亮分成两半(在火箭升空前后花苗心情的变化,放弃了告白)
第三话
飞向宇宙遥远的彼岸的探测机,互相没有寄出的信,在东京上空的两只鸟(两个人的思念)
明里和贵树想起了从前(雪和樱花的花瓣是回忆的象征)
将樱花花瓣紧紧握住的贵树,但是没有特别在意的明里
最终的场面明里的消失
日后加了信的内容。

新海诚的作品有着一种共通的主题,人与人之间的“跨越时间和空间的思念”,举出像这种想要的东西能存在的愿望。
这里的“跨越时间和空间的思念”之类举例说,就是成为了心的根本的存在,而且绝不会被什么事所左右的这种意义,在新海诚的作品中基本每次都看到,我不免产生了这种感觉。
如果说容易理解的例子,应当是【星之声】印象很深的最后一幕。分离又分离了的主人公们的“我在这里哦“的这种台词意味着和时间和地点无关,只是有什么存在的这种东西,也就是永远而绝对的思念,有这种东西就好了,应该会有的这种愿望。也是主题歌through the years and far away传递的简单的讯息。
【云的彼端,约定的地方】是这个题目自己就表示了“跨越时间和空间的思念”这种东西在哪儿不是吗。所以,塔就是这种“跨越时间和空间的思念”的象征,泽渡佐由理不在了,约定无法实现了也就是“跨越时间和空间的思念”的存在的条件。在失去约定的开始,也就获得了一种永恒性。因为这个,主人公想要守护这个约定的一瞬间,那个承诺所包含的思念也就永远不存在了。主人公自己为“跨越时间和空间的思念”打上了休止符,“即使在失去了约定的地方的世界,从现在我们也会开始生存。”在这种下定了决心的地方故事就落下了帷幕。
在秒速5厘米中,正是持续的描写了这种心情。
这部作品,它把“跨越时间和空间的思念”用“深深的相信这种重要的思念”表现了出来。
在第二话的开头的异世界,贵树所追求的思念存在的地方,就像前作云的彼端中约定的地方一样。但是,以在空中没有目的地彷徨一样的鸟和继续向宇宙的遥远处飞去的探测机为象征的,在现实世界的贵树找不到这种“跨越时间和空间的思念”了。决定性的台词在第一话的最后,“像是理解了永远这种东西和灵魂这种东西的存在一样,我好像突然明白了我们是不能一直在一起的。”即使到了和明里约定的场所,“跨越时间和空间的思念”也不存在了。但是,在这里写出了思念的两个人的信还在。随着时间而变化的人际关系和自己的感情中也会有着不变的东西,那就是对初恋的回忆,在时光的流转中没有失去的东西也只有信罢了。互相都没有收到的信,一份被风吹走了,一份被放进了壁橱的深处,在某种意义上说,获得了永恒性和绝对性。而且,明里写下“你一定没问题的。”这样话语的信深深束缚了贵树的心的根本,也不会有这之上的了吧。如果说清楚的话,就是有着互相都没有收到对方的信这种设定成为了这部作品中“跨越时间和空间的思念”的体现。另外,“到底以怎样的速度生活,才能和你相遇。“的意义其实就是到底怎样才能再见你一面,能说出你一定没问题的这种话,找到绝对的心的根本存在的地方到底在哪里,不是吗?
但是,因为信没有互相传到,从这里找到的“跨越时间和空间的思念”在故事表面上不存在。尽管如此,思念的碎片依然存在,随处可见。第二话中没有收件人的邮件是其最了吧。而且在第一话中贵树在信中的思念化成了小鸟向明里飞去,有这种表现;在第三话中,在大雪降落的东京上空,两只鸟像是犹豫一样的继续着飞翔。在这些之中全篇都没有变的就只有樱花的花瓣和雪,成为了大人的贵树想到“虽然不知道是什么但是重要的东西。”
淡淡的,简直就像是人在对星空许愿时模糊不定的心情一样的希望,在这个故事的底部缓缓的流淌着。
与此相比,在我们收看者的角度来讲,把“跨越时间和空间的思念”这种没有实质的东西通过樱花和雪来表现了出来,把所能看到的绝对性和神圣感提到了极限。另外,在第三话里就只有明里的信还是实质性的存在了。但是,“不管是我,还是他,都只是小孩子罢了。”因为有这样的台词,我认为信的存在价值也只不过是回忆了。现在看信的意义,不论是对明里还是贵树都和当时不同了,已经失去了意义,就像“现在看到的星光也不过是过去的东西,实际说不定是已经衰败的了星体曾发出的光。”这种思考一样。人会向星空许愿的原因大概是因为那种绝对性和神圣感吧(把黑暗的夜空美丽的照亮了的神圣,希望的象征一样,太远了怎么也办不到的绝对性,现在看到的星星的光也是很久之前的星体发出的了,不能确定现在还存在与否)。当星体还在的话,感觉两个人的信和它很相似。
新海诚在这之前的作品,将“跨越时间和空间的思念”存在的地方具体的描写了出来。《云之彼端,约定的地方》中是去塔的那个约束,或者说是塔,《星の声》中用邮件来充当。然后那个“地方”每次也确实的将“跨越时间和空间的思念”传递到了。《云之彼端,约定的地方》里的主人公们实际飞到了塔上,《星の声》则是用了八年时间传到的邮件。
这部作品用把信丢了来比作“地方”,表示“跨越时间和空间的思念”没有传递到。因为在那里有的只是一次几乎忘记的遥远的过去的回忆。“想这么简单的拯救自己是做不到的”在第三话说到。在那样的世界中贵树经过了漫长的漫长的旅行所找到的,是与昔日一样的美丽的舞蹈着散落的樱花花瓣。虽然实际上已经过了10年,但那对他来说也没有感觉到时间的流逝。然后,紧接着,连贵树也不知道是什么的但还是一直在寻找的“某种东西”,突然在眼前掠过了非常具体的而且强烈的记忆。这样的和明里的一瞬的邂逅,也让贵树感觉到了在这个世上有着或曾经有过“跨越时间和空间的思念”存在的地方。“明明不会存在这样的地方啊”,他对这件事最清楚地明白,所以他没有在明里的后面追上去。在最后,他不知在何处的悲伤消失的表情,告诉了我们他的心情。这部作品就是这样的淡淡的救赎的故事。
我们一定也会有与“时间与空间的思念”而相似的东西。比方说,那是在街上怎么也不会有的景色,正是在等待快车通过的道口的附近才能突然想起吧。
在这部作品中,不断地描写像是在哪里见过的日常的风景,时间和场所又在多少有些改变的程度上,无法分辨。像这样,我们的心怎么也不会被束缚。
正因为如此,我们看了这部作品才会很感动吧。

桜の花びらみたい
会話やストーリーは簡潔で、その分映像で全て語っています。全体的には悲しげな雰囲気ですが、小説などで景色の描写がそれを見る人の心境を表すように、この映画全編を通して描かれる美しい景色は、日常のささやかな、けれども確かな『希望』の象徴なのではないでしょうか。
    そこで是非とも気づいてほしいのが主人公が追い求めていたもの。踏み切りの向こう側にあったもの。具体的には明里ですが彼女は象徴的な存在です。この映画の一番最初と最後の踏み切りのシーン、わざわざ同じアングルにしてあるのだから当然意味があると思います。最初に小田急が画面いっぱいになったシーンは、ラストの貴樹が踏み切りで振り返ったシーンにつながっているのではないでしょうか。PVでもそうでしたしね。
    最终、小学生時代の初恋の人を忘れられず、中学、高校、大学と過去に縛られて生きてきた貴樹(ずっと小田急の向こうにいるはずの明里を見つめる貴樹〔小学生から大人へ〕)・・・年月が過ぎ(小田急が通り過ぎ)大人になった貴樹の目の前に明里の姿はなかった。
    貴樹が追い求めていたのはもちろん明里です。しかし、文通が途切れ、時が経つうちにいつの間にかそれが具体性を失っていきます。(第一話、彼女を守れるだけの力がほしいと強く思った;第二話、最初のシーンで貴樹が見ているのは明里ではなく遠くの光;第三話、コンビニに入る前の独白「届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何なのか・・・会社を辞めた」)
    このように明里への想いは徐々に抽象的になり最後には貴樹ですら何を追い求めていたのか分からないと言っています。これがラストシーンで明里が姿を消した理由ではないでしょうか。ストーリー上で納得いく理由というのは明確に説明されていませんが、それはそもそもこの作品のメインの部分に細かいストーリーが必要ないからだと思います。
    そして最後に貴樹が微笑んでいたのは、彼が追い求めていたものが明里という具体的な存在から、なにか大切なもの、想い、に姿は変われど存在していたから。そんな大切な想い(大切な人)をどこかに隠している世界、そのものを愛おしく思えるよな気持ちがあったからではないでしょうか。
    それこそがこの映画の根底にあるもの、全編に散りばめられた美しい世界の、微かな、けれども確かな希望なのだと思いました。 ストーリーだけなら中途半端な恋愛物語がこれほど心を揺さぶる理由は、こういったテーマが無意識のうちに伝わってくる作品だからなのではないでしょうか。
    小ネタ一覧
    第一話
    踏み切りのシーンのラストとの繋がり
    手紙を書いている貴樹の思いは鳥になって明里の元へ
と明里别れシーン,対する貴樹「手紙書くよ。電話も。」(諦めきれない)
始まりの2匹猫は1匹になっていました
第二話
冒頭シーン、夢の中の光景が時間と空間を越えている想いが存在する場所のイメージ(実在しない)
  弓道で遠くの的を真剣な瞳で狙う貴樹(執着心の比喩)
  冒頭シーンの景色と後に花苗が紙飛行機を飛ばした場所の景色の構図が同じ、特徴的な木が一本あり、夢の中での太陽?の光は現実には風力発電のライトになっている。心象風景の元。
サーフィンが失敗した(花苗の決心が折れる)                
太陽系外探査のロケット(遠く昔の思い出、深遠にあると信じる大切な思いを追い求         
める貴樹)
打ち上げシーン(ロケットと自分を重ねる貴樹、貴樹はロケットと同じだと思い知っ                  た花苗)
ロケットの煙で真っ二つに分けられた空、電線で真っ二つの月(ロケット打ち上げ前と後の花苗の心境の変化、告白をあきらめる)
  第三話
宇宙の遥かかなたへ飛んでいく探査機・お互い相手に出せなかった手紙・東京の上を飛ぶ二羽の鳥(二人の宛てのない想い)
明里と貴樹が昔を思い出す(雪と桜の花びらは思い出の象徴、)
桜の花びらを握り締める貴樹、特に気にしない明里
ラストシーンで明里が姿を消した
後日付け足し手紙
新海誠監督の作品に共通するテーマのひとつとして、「時間と空間を越えている想い」のようなものが存在してほしいという願いが挙げられると思います。
ここでいう「時間と空間を越えている想い」というのは例えば、心の拠り所になるようなもので、それも、何事にも左右されない絶対的なものという意味なのですが、新海誠作品を見るたびに、私はそういうものを感じずにはいられないのです。
分かりやすい例でいえば「ほしのこえ」での印象深いラストシーンがそれに当たります。
離れ離れの主人公たちの「私は(僕は)ここにいるよ」というセリフが意味するのは時間や場所に関係なくただ何かが存在するということ、つまり永遠・絶対の想いというものがあったらいいな、あるはずだという願いです。主題歌through the years and far awayの通りのシンプルなメッセージです。
「雲の向こう約束の場所」では、その題名自体が「時間と空間を越えている想い」が存在する場所ということでしょう。そして、塔が「時間と空間を越えている想い」のシンボル、沢渡サユリがいなくなり、約束を叶えられなくなったことが「時間と空間を越えている想い」の存在条件。約束は失われたことで初めて、永遠性を獲得したのです。そのため主人公たちがその約束を守った瞬間その約束に込められた想いは永遠ではなくなってしまいます。主人公は自ら「時間と空間を越えている想い」に終止符を打ち、「約束の場所を失くした世界で、それでも、これから僕たちは生き始める」と決心したところで物語りは幕を下ろします。

秒速5センチメートルではまさにその続きが描かれています。
この作品では、ここでいう「時間と空間を越えている想い」は「深遠にあると信じる大切な想い」などと表現されています。
第二話の冒頭の異世界が貴樹が追い求めたその想いが存在する場所、前作でいう約束の場所というわけです。しかし、宛てもなく空を彷徨う鸟・宇宙の遥かかなたへと飛び続ける探査機などに象徴されるように現実世界では貴樹は「時間と空間を越えている想い」を見つけられません。
さらに決定的なセリフが第一話終盤にあります。「永遠というものや魂というものがどこにあるのか分かった気がした〜僕たちはずっと一緒にはいられないとはっきりと分かった。」
明里との「約束の場所」にたどり着いても「時間と空間を越えている想い」は存在しなかったのです。

しかし、ここで思い出してほしいのが第一話で二人が書いた手紙の存在です。
年月とともに刻々と変化していく人間関係や自分の想いの中で変わらずにあったもの。
それは初恋の思い出と、失くしてしまったことで時間の経過から置き去りにされた手紙だけです。相手に届くことのなかった手紙は、風に飛ばされてしまったり、押入れの奥にしまわれてしまい、ある意味で永遠性や絶対性を獲得しているといえます。
それに、明里の手紙に書かれた「あなたはきっと大丈夫」という言葉はその手紙を貴樹にとっての心の拠り所たらしめるのにこれ以上ないもでしょう。
はっきり言ってしまえば”お互いに届けられなかった手紙があるという設定”がこの作品での「時間と空間を越えている想い」ということになります。
また、“どのくらいの速さで生きればまた君に会えるのか”という言葉が意味するのは、どうすればもう一度君に会って「あなたはきっと大丈夫」と言ってもらえるのか、
絶対的な心の拠り所を見つけられるのか、ということなのではないでしょうか。

ただし、あの手紙はお互いの元に届くことはなかったので、ここから見出せる「時間と空間を越えている想い」はあくまでストーリーの表面上にはありません。
それでも想いの残滓がまだ存在していることが随所で表現されています。第二話での出す当てのないメールがその最たるものでしょう。
また、第一話で貴樹の手紙にこめられた想いが鳥になって明里の元へという表現がありますが、第三話においても雪の降る東京上空を二羽の鳥が彷徨うように飛び続けています。
そんな中で全編を通して変わらずにあり続けた桜の花びらと雪だけが、大人になった貴樹に”何かは分からないけど大切なもの”を思い出させます。
淡く微かな、まるで人が夜空の星に願いをかけるときの気持ちのようにあやふやな希望が、物語の底を流れ続けます。
それとは対照に私達、視聴者側には、実際には存在しなかった「時間と空間を越えている想い」の痕跡を桜や雪として表現することで、その絶対性や神聖さが極限まで高められているように見せています。
また、第三話において明里の手紙だけは現物が存在しています。しかし、「私も、彼も、まだ子供だった」というセリフから、その存在価値はもはやただの思い出になってしまっていると考えられます。
現在見ている手紙の持つ意味は、明里にとっても貴樹にとっても、もはや手紙を書いた当時のものとは違ってしまっている、または失われてしまっている、
というと”今見つめている星の光はもっと昔のもので、実はとっくに滅んだ星の光かもしれない”というのに似ていると思いませんか?人が星に願いをかける理由というのが、その絶対性や神聖さ(暗い夜空を美しく照らす神聖さ、希望の象徴、あまりに遠くどうすることもできない絶対性、今見ている星の光は大昔のもので実際にはもうなくなっているかもしれないというような存在の不確かさ、)にあるのだとすると、二人の手紙はそれと似たようなものを感じさせるのです。
新海誠監督の過去作品には、「時間と空間を越えている想い」が存在し得る場所は、かなり具体的に描かれています。[云のむこう、约束の场所]では塔に行くという約束、あるいはと塔そのもの、星の声ではメールがそれに当たります。
そして、その「場所」には毎回確かに「時間と空間を越えている想い」が届けられます。[云のむこう、约束の场所]では主人公達は実際に塔まで飛んでいき、星の声では8年をかかているメールが届きました。
今作では手紙をなくした事により「場所」は用意されましたが、そこに「時間と空間を越えている想い」が届けられることはありませんでした。
そこにあるのは一度はほとんど忘れてしまった遠い昔の思い出だけなのです。「そんな簡単に救いが降ってくるわけない〜。」第三話より。
そんな世界で貴樹が長い長い旅の果てに見つけたものは、昔と同じように美しく舞い散る桜の花びらでした。
実際には10年以上の時が経ってるのですが、それは彼にとって時間の経過を感じさせないものでした。
そして、その直後、貴樹自身にすら何か分からず、それでも探し求め続けていた「何か」が、突然目の前にそれも非常に具体的で強烈な記憶ととも掠めていきました。
そんな明里との一瞬の邂逅は、この世界のどこかには確かに「時間と空間を越えている想い」が存在することを(存在したことを)貴樹に感じさせたのでしょう。
「こんなとこにあるはずもないのに」ということは彼が一番良く分かっているのでしょうが、だからこそ彼は明里の後を追おうとしなかったのでしょう。

私達は時間という絶対的な尺度によって「時間と空間を越えている想い」とは遠く切り離されてしまっている。けれども、この不条理ながらも美しい世界はその淡い希望の存在を僅かに感じさせてくれる。
ラストの彼のどこか悲しげながらもすっりきりした表情は、そんなことを私達に教えてくれた気がしました。この作品はそんな淡い救いの物語です。

きっと私達にも「時間と空間を越えている想い」とまでいかずともそれに似たようなものはあるはずなのです。例えばそれは街中の何でもない景色に、それこそ急行待ちの踏み切りあたりからでもふと思い出されるようなことなのでしょう。
この作品中、常に描かれ続けたどこかで見たことのあるような日常の風景、時間や場所が多少変わったくらいでは分かつことができないほど、そういうものに私達の心はどうしようもなく縛られてしまっている。
だからこそ私達はこの作品を見て感動するのでしょう。


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