#1 - 2019-12-20 00:00
凡付真遠
ヤマン”への手紙
                                                                        和歌山県  山本 真理子さん

トビ色の瞳、すき通る白い肌。深いえくぼ。栗色のまき毛。

あなたは、シャーリーテンプルみたいだった。

体中がゴムマリのように、はずんでて、健康にはちきれていた。

山下都子さん。四人のお兄ちゃんの末に生まれた、たった一人の姫君は、みんなに可愛がられ、素直で明るく、甘えん坊。おまけにお兄ちゃんに鍛えられ、すごくファイトがあった。

昭和十九年の春、あなたは、林さんや有田さんと比治山高女を卒業して、中国軍管区司令部に勤務。私はそれより四ヶ月おくれて、和歌山から広島へ、父の転勤に従いて行き、司令部であなたと製図板を並べるようになった。

コピー機なんてまだなかった時代。国有財産台帳に添付する図面を、トレースするのが私たちの仕事。

私の初めての仕事は、戸坂(へさか)射撃場の平面図のトレース。

烏口で、九分通り墨を入れ終わり、さいごの仕上げに建物名をペンで書き込んでて、字を間違えちゃった。ギョッとなったわ。

トレーシングペーパーを張り替えて、もう一度はじめっからやり直さねば・・・でも、それには、もう一度トレーシングペーパーをもらいに行かねばならないし、今日中にはとても無理。なんてヘマなことしちゃったのか、となさけなくて、泣きたかった。

あなたは、隣で私の様子、見てたのね。

「どうしたん?」ときいてくれたわ。

「マド、あけんさい」

あなたは私の誤字のまわりに小さい定規をあて、安全カミソリのうすい刃で、小さく切り取ってマドを作り、別の小さなトレーシングペーパー片で、マドにノリシロをつけて裁ち、それは慎重に、慎重にマドのまわりに、うすく、うすくノリをのせ、ピタッとはめ込む大手術。

「成功!」なんてすばらしい。

私はすっかり、尊敬しちゃった。

あなたは、勅任官の岡村属官殿を、「岡村のおじちゃん」とよび。奏任官の石田業務手殿を「石田のおじちゃん」とよび、属員の木村さんを「木村のおじちゃん」とよんでた。

そうして、女子事務員は全部「おばちゃん」。はじめて「おばちゃん」と呼ばれた時、私は(えッ、私のこと?)とびっくりしたわ。

だって私はあなたと同い年の十七才。おばちゃんなんて呼ばれたことなかったもの。

私はあなたの名を省略して「ヤマン」と呼ぶことにした。

軍隊のきびしい階級社会の中で、あなたはそれを無視し、みな平等にしてくれた。それはすごいことだった。

中食後の休み時間は大本営の芝生で、バレーボールの円陣パスをしたわね。

あなたは、体中がバネじかけ。高いボールにとびついたかと思うと、次には私のとりそこなったボールを、すばやくかがんで、地面すれすれですくいあげる。

「おばちゃん。つっ立っとっちゃ、つまらん。腰をおとんじゃ、腰を」

あなたはボールから目をはなさず私をどなる。

「それ、いくぞォ」

ボールがとんでくる。力いっぱい打ち返す。

「いけん。ひざをゆるめるゥ、ひざじゃ。ワカランチン。ひざを折るんじゃ」

あなたは顔をまっかにして叱咤する。

「それいくぞ。クソ!」

工務科との試合を想定して、あなたは私を鍛える。

「負けるもんか。なにくそ!」と。

あなたの立派なお尻を、カマキリみたいな私のお尻へぶつけて、

「ケツダンリョク」なんて、芝生にころがって笑ったわねぇ。

大本営の春は、桜が美しかった。

「小諸なる、古城のほとり・・・」

きまって島崎藤村をうたったわね。

「敬禮!」

誰かが叫ぶ。私たちははじかれたように起き上がって、めくらめっぽう敬礼する。

にこにこと近寄ってこられたのは、軍医部の林中将殿。シャバでは小児科を開業されていて、あなたが生まれた時からの、かかりつけ医。

「あんたらなぁ、歌もええが。

こんなとこにおるこたァありゃせんで。山奥の親戚か、田舎の知り合いさがして、逃げんさいや。」

するとあなたは、目をくるくるさせて、

「軍医殿。うちらは、うちらは、戦場へ征きんさった兵隊さんに代わって仕事をしとるんです。逃げたりはせんです」

と、勇ましく答えたわ。私たち、骨の髄まで軍国乙女だった。

「じゃがのう。わしら軍人は仕方ないが、あんたらのいる所じゃ、ありゃせんよ」

軍医殿には、見えていたのね。どんなにここが危険な処か。

二号庁舎の西側に、自分たちの防空壕を作ったわね。

石田のおじちゃんの指揮で、四帖ぐらいの穴を掘って、四方に廃材の柱を立て、廃材の板で壁を張って、天井には垂木だの板だの並べ、カスガイで打ちつけて、その上に土を盛った。なんというやすめな壕。近くに一発落ちたら、生き埋めになっちゃう粗末なもの。

「うちらは、死なばもろともじゃ」

ヒミツ基地を作った童みたいに、そこで息を潜めているのが、たのしくさえあって、とっくに空襲警報は解除されてるのも知らず、おじちゃんに叱られたこともあった。

すぐそばに、コンクリート造りの頑丈な書類壕があって、吾われも大きくて重い国有財産台帳を出し入れしたわ。

そう。司令部は、人より書類の方が、うんと、うんと体大切だったんだ。

私たちだって、夢が見たかった。

退庁時間がくると、あなたや籭さんと、映画「狸御殿」へ走ったわ。

宮城千賀子の美しい若様の目が、ハートの真ん中に、グサっと来たその瞬間。

空襲警報のいやなサイレン。

夢は忽ち消え。吾われは館外へ追い出される。

半券を大切に握って、翌日も狸御殿へ。

でも又、空襲警報。次の日もまた…

とうとう、歌やセリフ覚えちゃって、扇子半開き頬に当て、こわいろ使って、狸の若様やったわね。

あれは「恋」への憧れ、平和への憧れ。

鯉城の北側にあった、陸軍幼年学校の生徒が、山奥へ疎開して開いた校舎へ、私たちが移転したのは、七月に入ってからのことだった。

そのころ私は目を患らい、兎のような赤い目で図面をひいていた。

「仕事を休まないと治らないよ」と眼科医は診断書をくれたが、上司に提出すると、

「本土決戦の最中に、目ぐらいで休ませるわけにゃいかん。敵前逃亡じゃが」

と、オヒゲの少佐科長殿。

その科長殿が、八月五日東京へご出張。

留守をあづかった見習士官殿二人で、休暇願の書類と休暇許可の書類作って、ポンポン印鑑を押し私にくれたの。

棚からボタ餅をありがたく頂いて、八月六日は自宅でのんびり。

(ゴメンネ、ヤマン。本当にゴメンナサイ。)

姉と向き合って、たのしい朝食。

その時、天地を引き裂く閃光。

目も耳も機能を失い、忽ち暗闇の底なしの静寂。私はピカドンのドンを聞いていない。

百パーセントの受身で、放心していた。

(ヤマン、あの閃光は、すごかったね。

あれは、二、三千度もあったげなよ。

鉄を溶かす溶鉱炉の中ですら、千三百度から千五百度だという。それの倍近い熱だったんだ)

やっと視力が回復すると、

家中、土の滝。私は台所の土間に吹きとばされていて、瓦に埋まり身動き一つできない。

バラ、バラと瓦はまだ降りつづけ、私の頭や額を割る。血は吹き出して、瓦の上にしたたる。

土まみれの姉が匐ってきて、瓦の中から血だらけの頭出している私をみつけ、動転したのね、しばらく「どうしよう、どうしよう」と泣くの。その姉を逆に励まして瓦を一枚、一枚はがしてもらった。

ずい分時間をかけて瓦の山から抜け出たんだけど、ほっとした姉は、自分の足にも大きな傷がパクン、とあいているのを見付け、とたんにへなへなと腰をおとして、歩けなくなったの。その傷口はまるでロースハムをスライスしたみたいで、切れた血管から血が流れ出てる。動脈を切られたな、と思ったので、止血を試みたけど、全然止まらない。姉の顔は血の気が引いて口唇もまっ白。救護所へ連れていこう、と姉の腕を首にまきつけてかつぎ、ゆがんだ窓から外へ。

ご近所の家々はつぶれ、空地に播いた陸稲が焼け枯れ、地面はガラスの破片に覆われてた。

首に巻きついた姉の腕で、息が苦しい。

(なにくそ。負けるもんか、負けるもんか!)

あなたの口癖を思わず唱える。「アッ!」

はがれ落ちていた板の釘を、はだしの足が踏みぬいた!姉をそこへほり出すようにして、かがんで板を抜いて、足をもんだわ。そのまましばらく休んだけど、そのうち辺りは火がまわってきて、太田川の土手に逃げ、竜巻におびえ、黒い雨にずぶぬれ。

その夜大勢の人が亡くなった。

四日目。母と弟の疎開していた田舎へ。

傷は化膿し、下痢と発熱。手も足もぬけ落ちそうな怠惰感。

村では、広島市へ救護に行った人々が、血を吐いて、体に斑点が出て、髪が抜けて次々に亡くなっていくのよね。私ももうだめだ、と思ったわ。

そして終戦。いや、敗戦。

俄かに自分が軍属だったこと、敵前逃亡者だった、と気づく。ヤマンは、林さんは、籭さんは、みんな、どうしているだろう?

ほうたいだらけで司令部へ。

焼けた石垣の中のテントで、あの日、出張だった科長殿にお会いしたら、

「おう。君。生きとったんか」

私は死亡者名簿にのってたの。

「浮田見習士官は、軍刀が出てきたんじゃが遺骨はわからん。

金田見習士官は、頭蓋骨を打ち割られて、脳味噌が見えとるほどの重症じゃ。

林君は、幼年学校の焼跡から白骨で出てきたよ」

「山下都子さんは?」

「ありゃァね、大火傷で、八月九日、福屋に収容されて、亡くなった」

「ええッ!」ヤマンが死んだ。

(ゴメンよ、ゴメン。一緒に死なないで。ゴメン。)

やっぱり私は敵前逃亡してたんだ。

原爆後遺症に苦しまれ、自家輸血を繰返えしていた石田のおじちゃんから、あなたの被曝当日のようすをお聞きできたのは、何年も後のことだった。

「わしゃ。幼年学校の校舎から、手探りで匐い出たんじゃが、校庭の方へ歩きよったら、

『石田のおじちゃん』て呼ぶもんが居る。誰じゃろうと見ると、白いブラスがズタズタで裸同然。顔から両腕がずるむけ。よう見たら、ヤマンじゃ。見るも無残な姿じゃった。

正門を入ったところで、真っ正面からやられたらしい。

後頭部の髪が、まだジリジリ燃えよるけ、わしが手でもみ消してやった。

わしも体の左側の露出部を焼いとる。左手の動脈も切っとるけ、陸軍病院へ行こう、辺り見廻すと、なんと城の天守閣が見えん。

二部隊も兵器倉庫も、軍隊の建物、何ひとつ見当たらん。

そのうち籭さんや木村さんが、わしら見付けて寄って来た。二人とも建物のかげにおったらしゅうて、ひどうは焼いとらん。

校舎がぼんぼん燃えよるけ、酸素不足になるんじゃの。息が苦しい。なにより熱うてたまらん。火傷がひりひりする。城東橋渡って大本営の倒れた木の中へ逃げたんじゃが、途中、軍医部の建物もつぶれとって、軍医が下敷きになっとるゆうて、何人かが懸命に救出作業をしとったが、あとできくと、林中尉はダメじゃったげな。

大本営の杉の大木が燃えとって、その下くぐる時、裸足の籭さんはひどう火傷した。

三角兵舎で、下士官の白い体操服みつけて、裸のヤマンに着せてやった。

ヤマンは水を欲しがってのう。わしゃ炊事班へ行って、もろうてきちゃったが、ありゃあ、アオソとボウフラのわいとる防火用水、汲んできとったげな。なにも知らんけ、ヤマンはうまいうまいて、喜んで飲みよった。

一晩経つと、火傷はひどうふくれ上がって、もうヤマンの顔はしとらん。

船越のわしの家からは、オヤジが探しに来てくれ、ひるから家内が食うもん持ってきたりしたが、ヤマンとこは誰もこん。

「お母ちゃん、どうしとってじゃろう。

お父ちゃん、やられたんじゃろうか」

そればっかり、さいごまで言うとった。

幼年学校の校庭に仮収容所ができて、移ったんじゃが、肩でも腕でも、さわると皮膚がずるずるむけて、赤むけじゃ。げに、痛しゅうあった。

家内の持ってきたトマト、食わそう思うてかがんだら、耳の傷口に白いもんがいっぱいモゾモゾしよる。ウジ虫じゃ。

ウジ虫じゃ、ヤマンを噛りよる。もう、口もきけんほど衰弱しとった。

そいでも、『おかぁさ』繰返しよる。

福屋の南口付近で薬局をしとられたけ、おそらく全滅じゃったろう」

ひどい。

なんて極刑を受けたの。

どんなに痛かったろう。悲しく、苦しく、なさけなかったことか。

私はピカの間じゅう、姉と一緒だったことさえ、すまなく思った。

(ヤマン。ごめん。ごめんな)

この世に、戦争ほど極悪非道な犯罪は無い。

勝っても負けても、失うものばかり。何ひとつ建設的なものはないことを、あなたは教えてくれた。

あなた方が、命を捨ててくれたからこそ、核兵器の悪魔性が証明できた。

同じ広島で、同じピカを受けながら、生き残った私は、あなたに負い目を感じるの。

ヤマンが死んだのに、私だけが幸せになっていいのか。幸せに躊躇する。

戦争放棄の憲法ができたとき。これでヤマンの死は無駄にならなんだ。これはヤマンたちが作ってくれた憲法だ、と思った。

けれど、あれから六十余年が経ち、「戦争がかっこいい」なんて、とんでもない子らがいる。テレビゲームで戦争が遊びになっているの。

九条をとりはらって、戦争やりたがっている大人もいる。

そうして、悪魔の核兵器は地球上に大きな顔してまだ存在している。

いや。あの時は、たった二発しかなかったのに、今はその性能も何百倍にもなったものが、二万発も存在し、国と国の争いの原因ともなっているの。

戦争は天災じゃないの。人間が人間を襲っているのよ。

そもそも、人間のためになるはずの科学や技術が、懸命に人間を攻撃するなんて、こんな馬鹿げたことがあるかしら。科学が人間を滅ぼすんだよ。

人は、愛し合い、助け合い、励ましあいあって生きていくもの。

だから、悪魔の核兵器を廃絶するのは、当り前のこと。

生き残った私は、これを訴え続けるわ、あなたに代わって。

十八歳のあなたの声がする、

「負けるもんか!」と。

私は今、八十二歳。生き残ったことを、敵前逃亡させてもらったことを、よろこんでいる。

2008年にお寄せいただいたお手紙です