【转】原作信件【“ヤマン”への手紙】
#1 - 2019-12-20 00:00
凡付真遠
ヤマン”への手紙
和歌山県 山本 真理子さん
トビ色の瞳、すき通る白い肌。深いえくぼ。栗色のまき毛。
あなたは、シャーリーテンプルみたいだった。
体中がゴムマリのように、はずんでて、健康にはちきれていた。
山下都子さん。四人のお兄ちゃんの末に生まれた、たった一人の姫君は、みんなに可愛がられ、素直で明るく、甘えん坊。おまけにお兄ちゃんに鍛えられ、すごくファイトがあった。
昭和十九年の春、あなたは、林さんや有田さんと比治山高女を卒業して、中国軍管区司令部に勤務。私はそれより四ヶ月おくれて、和歌山から広島へ、父の転勤に従いて行き、司令部であなたと製図板を並べるようになった。
コピー機なんてまだなかった時代。国有財産台帳に添付する図面を、トレースするのが私たちの仕事。
私の初めての仕事は、戸坂(へさか)射撃場の平面図のトレース。
烏口で、九分通り墨を入れ終わり、さいごの仕上げに建物名をペンで書き込んでて、字を間違えちゃった。ギョッとなったわ。
トレーシングペーパーを張り替えて、もう一度はじめっからやり直さねば・・・でも、それには、もう一度トレーシングペーパーをもらいに行かねばならないし、今日中にはとても無理。なんてヘマなことしちゃったのか、となさけなくて、泣きたかった。
あなたは、隣で私の様子、見てたのね。
「どうしたん?」ときいてくれたわ。
「マド、あけんさい」
あなたは私の誤字のまわりに小さい定規をあて、安全カミソリのうすい刃で、小さく切り取ってマドを作り、別の小さなトレーシングペーパー片で、マドにノリシロをつけて裁ち、それは慎重に、慎重にマドのまわりに、うすく、うすくノリをのせ、ピタッとはめ込む大手術。
「成功!」なんてすばらしい。
私はすっかり、尊敬しちゃった。
あなたは、勅任官の岡村属官殿を、「岡村のおじちゃん」とよび。奏任官の石田業務手殿を「石田のおじちゃん」とよび、属員の木村さんを「木村のおじちゃん」とよんでた。
そうして、女子事務員は全部「おばちゃん」。はじめて「おばちゃん」と呼ばれた時、私は(えッ、私のこと?)とびっくりしたわ。
だって私はあなたと同い年の十七才。おばちゃんなんて呼ばれたことなかったもの。
私はあなたの名を省略して「ヤマン」と呼ぶことにした。
軍隊のきびしい階級社会の中で、あなたはそれを無視し、みな平等にしてくれた。それはすごいことだった。
中食後の休み時間は大本営の芝生で、バレーボールの円陣パスをしたわね。
あなたは、体中がバネじかけ。高いボールにとびついたかと思うと、次には私のとりそこなったボールを、すばやくかがんで、地面すれすれですくいあげる。
「おばちゃん。つっ立っとっちゃ、つまらん。腰をおとんじゃ、腰を」
あなたはボールから目をはなさず私をどなる。
「それ、いくぞォ」
ボールがとんでくる。力いっぱい打ち返す。
「いけん。ひざをゆるめるゥ、ひざじゃ。ワカランチン。ひざを折るんじゃ」
あなたは顔をまっかにして叱咤する。
「それいくぞ。クソ!」
工務科との試合を想定して、あなたは私を鍛える。
「負けるもんか。なにくそ!」と。
あなたの立派なお尻を、カマキリみたいな私のお尻へぶつけて、
「ケツダンリョク」なんて、芝生にころがって笑ったわねぇ。
大本営の春は、桜が美しかった。
「小諸なる、古城のほとり・・・」
きまって島崎藤村をうたったわね。
「敬禮!」
誰かが叫ぶ。私たちははじかれたように起き上がって、めくらめっぽう敬礼する。
にこにこと近寄ってこられたのは、軍医部の林中将殿。シャバでは小児科を開業されていて、あなたが生まれた時からの、かかりつけ医。
「あんたらなぁ、歌もええが。
こんなとこにおるこたァありゃせんで。山奥の親戚か、田舎の知り合いさがして、逃げんさいや。」
するとあなたは、目をくるくるさせて、
「軍医殿。うちらは、うちらは、戦場へ征きんさった兵隊さんに代わって仕事をしとるんです。逃げたりはせんです」
と、勇ましく答えたわ。私たち、骨の髄まで軍国乙女だった。
「じゃがのう。わしら軍人は仕方ないが、あんたらのいる所じゃ、ありゃせんよ」
軍医殿には、見えていたのね。どんなにここが危険な処か。
二号庁舎の西側に、自分たちの防空壕を作ったわね。
石田のおじちゃんの指揮で、四帖ぐらいの穴を掘って、四方に廃材の柱を立て、廃材の板で壁を張って、天井には垂木だの板だの並べ、カスガイで打ちつけて、その上に土を盛った。なんというやすめな壕。近くに一発落ちたら、生き埋めになっちゃう粗末なもの。
「うちらは、死なばもろともじゃ」
ヒミツ基地を作った童みたいに、そこで息を潜めているのが、たのしくさえあって、とっくに空襲警報は解除されてるのも知らず、おじちゃんに叱られたこともあった。
すぐそばに、コンクリート造りの頑丈な書類壕があって、吾われも大きくて重い国有財産台帳を出し入れしたわ。
そう。司令部は、人より書類の方が、うんと、うんと体大切だったんだ。
私たちだって、夢が見たかった。
退庁時間がくると、あなたや籭さんと、映画「狸御殿」へ走ったわ。
宮城千賀子の美しい若様の目が、ハートの真ん中に、グサっと来たその瞬間。
空襲警報のいやなサイレン。
夢は忽ち消え。吾われは館外へ追い出される。
半券を大切に握って、翌日も狸御殿へ。
でも又、空襲警報。次の日もまた…
とうとう、歌やセリフ覚えちゃって、扇子半開き頬に当て、こわいろ使って、狸の若様やったわね。
あれは「恋」への憧れ、平和への憧れ。
鯉城の北側にあった、陸軍幼年学校の生徒が、山奥へ疎開して開いた校舎へ、私たちが移転したのは、七月に入ってからのことだった。
そのころ私は目を患らい、兎のような赤い目で図面をひいていた。
「仕事を休まないと治らないよ」と眼科医は診断書をくれたが、上司に提出すると、
「本土決戦の最中に、目ぐらいで休ませるわけにゃいかん。敵前逃亡じゃが」
と、オヒゲの少佐科長殿。
その科長殿が、八月五日東京へご出張。
留守をあづかった見習士官殿二人で、休暇願の書類と休暇許可の書類作って、ポンポン印鑑を押し私にくれたの。
棚からボタ餅をありがたく頂いて、八月六日は自宅でのんびり。
(ゴメンネ、ヤマン。本当にゴメンナサイ。)
姉と向き合って、たのしい朝食。
その時、天地を引き裂く閃光。
目も耳も機能を失い、忽ち暗闇の底なしの静寂。私はピカドンのドンを聞いていない。
百パーセントの受身で、放心していた。
(ヤマン、あの閃光は、すごかったね。
あれは、二、三千度もあったげなよ。
鉄を溶かす溶鉱炉の中ですら、千三百度から千五百度だという。それの倍近い熱だったんだ)
やっと視力が回復すると、
家中、土の滝。私は台所の土間に吹きとばされていて、瓦に埋まり身動き一つできない。
バラ、バラと瓦はまだ降りつづけ、私の頭や額を割る。血は吹き出して、瓦の上にしたたる。
土まみれの姉が匐ってきて、瓦の中から血だらけの頭出している私をみつけ、動転したのね、しばらく「どうしよう、どうしよう」と泣くの。その姉を逆に励まして瓦を一枚、一枚はがしてもらった。
ずい分時間をかけて瓦の山から抜け出たんだけど、ほっとした姉は、自分の足にも大きな傷がパクン、とあいているのを見付け、とたんにへなへなと腰をおとして、歩けなくなったの。その傷口はまるでロースハムをスライスしたみたいで、切れた血管から血が流れ出てる。動脈を切られたな、と思ったので、止血を試みたけど、全然止まらない。姉の顔は血の気が引いて口唇もまっ白。救護所へ連れていこう、と姉の腕を首にまきつけてかつぎ、ゆがんだ窓から外へ。
ご近所の家々はつぶれ、空地に播いた陸稲が焼け枯れ、地面はガラスの破片に覆われてた。
首に巻きついた姉の腕で、息が苦しい。
(なにくそ。負けるもんか、負けるもんか!)
あなたの口癖を思わず唱える。「アッ!」
はがれ落ちていた板の釘を、はだしの足が踏みぬいた!姉をそこへほり出すようにして、かがんで板を抜いて、足をもんだわ。そのまましばらく休んだけど、そのうち辺りは火がまわってきて、太田川の土手に逃げ、竜巻におびえ、黒い雨にずぶぬれ。
その夜大勢の人が亡くなった。
四日目。母と弟の疎開していた田舎へ。
傷は化膿し、下痢と発熱。手も足もぬけ落ちそうな怠惰感。
村では、広島市へ救護に行った人々が、血を吐いて、体に斑点が出て、髪が抜けて次々に亡くなっていくのよね。私ももうだめだ、と思ったわ。
そして終戦。いや、敗戦。
俄かに自分が軍属だったこと、敵前逃亡者だった、と気づく。ヤマンは、林さんは、籭さんは、みんな、どうしているだろう?
ほうたいだらけで司令部へ。
焼けた石垣の中のテントで、あの日、出張だった科長殿にお会いしたら、
「おう。君。生きとったんか」
私は死亡者名簿にのってたの。
「浮田見習士官は、軍刀が出てきたんじゃが遺骨はわからん。
金田見習士官は、頭蓋骨を打ち割られて、脳味噌が見えとるほどの重症じゃ。
林君は、幼年学校の焼跡から白骨で出てきたよ」
「山下都子さんは?」
「ありゃァね、大火傷で、八月九日、福屋に収容されて、亡くなった」
「ええッ!」ヤマンが死んだ。
(ゴメンよ、ゴメン。一緒に死なないで。ゴメン。)
やっぱり私は敵前逃亡してたんだ。
原爆後遺症に苦しまれ、自家輸血を繰返えしていた石田のおじちゃんから、あなたの被曝当日のようすをお聞きできたのは、何年も後のことだった。
「わしゃ。幼年学校の校舎から、手探りで匐い出たんじゃが、校庭の方へ歩きよったら、
『石田のおじちゃん』て呼ぶもんが居る。誰じゃろうと見ると、白いブラスがズタズタで裸同然。顔から両腕がずるむけ。よう見たら、ヤマンじゃ。見るも無残な姿じゃった。
正門を入ったところで、真っ正面からやられたらしい。
後頭部の髪が、まだジリジリ燃えよるけ、わしが手でもみ消してやった。
わしも体の左側の露出部を焼いとる。左手の動脈も切っとるけ、陸軍病院へ行こう、辺り見廻すと、なんと城の天守閣が見えん。
二部隊も兵器倉庫も、軍隊の建物、何ひとつ見当たらん。
そのうち籭さんや木村さんが、わしら見付けて寄って来た。二人とも建物のかげにおったらしゅうて、ひどうは焼いとらん。
校舎がぼんぼん燃えよるけ、酸素不足になるんじゃの。息が苦しい。なにより熱うてたまらん。火傷がひりひりする。城東橋渡って大本営の倒れた木の中へ逃げたんじゃが、途中、軍医部の建物もつぶれとって、軍医が下敷きになっとるゆうて、何人かが懸命に救出作業をしとったが、あとできくと、林中尉はダメじゃったげな。
大本営の杉の大木が燃えとって、その下くぐる時、裸足の籭さんはひどう火傷した。
三角兵舎で、下士官の白い体操服みつけて、裸のヤマンに着せてやった。
ヤマンは水を欲しがってのう。わしゃ炊事班へ行って、もろうてきちゃったが、ありゃあ、アオソとボウフラのわいとる防火用水、汲んできとったげな。なにも知らんけ、ヤマンはうまいうまいて、喜んで飲みよった。
一晩経つと、火傷はひどうふくれ上がって、もうヤマンの顔はしとらん。
船越のわしの家からは、オヤジが探しに来てくれ、ひるから家内が食うもん持ってきたりしたが、ヤマンとこは誰もこん。
「お母ちゃん、どうしとってじゃろう。
お父ちゃん、やられたんじゃろうか」
そればっかり、さいごまで言うとった。
幼年学校の校庭に仮収容所ができて、移ったんじゃが、肩でも腕でも、さわると皮膚がずるずるむけて、赤むけじゃ。げに、痛しゅうあった。
家内の持ってきたトマト、食わそう思うてかがんだら、耳の傷口に白いもんがいっぱいモゾモゾしよる。ウジ虫じゃ。
ウジ虫じゃ、ヤマンを噛りよる。もう、口もきけんほど衰弱しとった。
そいでも、『おかぁさ』繰返しよる。
福屋の南口付近で薬局をしとられたけ、おそらく全滅じゃったろう」
ひどい。
なんて極刑を受けたの。
どんなに痛かったろう。悲しく、苦しく、なさけなかったことか。
私はピカの間じゅう、姉と一緒だったことさえ、すまなく思った。
(ヤマン。ごめん。ごめんな)
この世に、戦争ほど極悪非道な犯罪は無い。
勝っても負けても、失うものばかり。何ひとつ建設的なものはないことを、あなたは教えてくれた。
あなた方が、命を捨ててくれたからこそ、核兵器の悪魔性が証明できた。
同じ広島で、同じピカを受けながら、生き残った私は、あなたに負い目を感じるの。
ヤマンが死んだのに、私だけが幸せになっていいのか。幸せに躊躇する。
戦争放棄の憲法ができたとき。これでヤマンの死は無駄にならなんだ。これはヤマンたちが作ってくれた憲法だ、と思った。
けれど、あれから六十余年が経ち、「戦争がかっこいい」なんて、とんでもない子らがいる。テレビゲームで戦争が遊びになっているの。
九条をとりはらって、戦争やりたがっている大人もいる。
そうして、悪魔の核兵器は地球上に大きな顔してまだ存在している。
いや。あの時は、たった二発しかなかったのに、今はその性能も何百倍にもなったものが、二万発も存在し、国と国の争いの原因ともなっているの。
戦争は天災じゃないの。人間が人間を襲っているのよ。
そもそも、人間のためになるはずの科学や技術が、懸命に人間を攻撃するなんて、こんな馬鹿げたことがあるかしら。科学が人間を滅ぼすんだよ。
人は、愛し合い、助け合い、励ましあいあって生きていくもの。
だから、悪魔の核兵器を廃絶するのは、当り前のこと。
生き残った私は、これを訴え続けるわ、あなたに代わって。
十八歳のあなたの声がする、
「負けるもんか!」と。
私は今、八十二歳。生き残ったことを、敵前逃亡させてもらったことを、よろこんでいる。
2008年にお寄せいただいたお手紙です
和歌山県 山本 真理子さん
トビ色の瞳、すき通る白い肌。深いえくぼ。栗色のまき毛。
あなたは、シャーリーテンプルみたいだった。
体中がゴムマリのように、はずんでて、健康にはちきれていた。
山下都子さん。四人のお兄ちゃんの末に生まれた、たった一人の姫君は、みんなに可愛がられ、素直で明るく、甘えん坊。おまけにお兄ちゃんに鍛えられ、すごくファイトがあった。
昭和十九年の春、あなたは、林さんや有田さんと比治山高女を卒業して、中国軍管区司令部に勤務。私はそれより四ヶ月おくれて、和歌山から広島へ、父の転勤に従いて行き、司令部であなたと製図板を並べるようになった。
コピー機なんてまだなかった時代。国有財産台帳に添付する図面を、トレースするのが私たちの仕事。
私の初めての仕事は、戸坂(へさか)射撃場の平面図のトレース。
烏口で、九分通り墨を入れ終わり、さいごの仕上げに建物名をペンで書き込んでて、字を間違えちゃった。ギョッとなったわ。
トレーシングペーパーを張り替えて、もう一度はじめっからやり直さねば・・・でも、それには、もう一度トレーシングペーパーをもらいに行かねばならないし、今日中にはとても無理。なんてヘマなことしちゃったのか、となさけなくて、泣きたかった。
あなたは、隣で私の様子、見てたのね。
「どうしたん?」ときいてくれたわ。
「マド、あけんさい」
あなたは私の誤字のまわりに小さい定規をあて、安全カミソリのうすい刃で、小さく切り取ってマドを作り、別の小さなトレーシングペーパー片で、マドにノリシロをつけて裁ち、それは慎重に、慎重にマドのまわりに、うすく、うすくノリをのせ、ピタッとはめ込む大手術。
「成功!」なんてすばらしい。
私はすっかり、尊敬しちゃった。
あなたは、勅任官の岡村属官殿を、「岡村のおじちゃん」とよび。奏任官の石田業務手殿を「石田のおじちゃん」とよび、属員の木村さんを「木村のおじちゃん」とよんでた。
そうして、女子事務員は全部「おばちゃん」。はじめて「おばちゃん」と呼ばれた時、私は(えッ、私のこと?)とびっくりしたわ。
だって私はあなたと同い年の十七才。おばちゃんなんて呼ばれたことなかったもの。
私はあなたの名を省略して「ヤマン」と呼ぶことにした。
軍隊のきびしい階級社会の中で、あなたはそれを無視し、みな平等にしてくれた。それはすごいことだった。
中食後の休み時間は大本営の芝生で、バレーボールの円陣パスをしたわね。
あなたは、体中がバネじかけ。高いボールにとびついたかと思うと、次には私のとりそこなったボールを、すばやくかがんで、地面すれすれですくいあげる。
「おばちゃん。つっ立っとっちゃ、つまらん。腰をおとんじゃ、腰を」
あなたはボールから目をはなさず私をどなる。
「それ、いくぞォ」
ボールがとんでくる。力いっぱい打ち返す。
「いけん。ひざをゆるめるゥ、ひざじゃ。ワカランチン。ひざを折るんじゃ」
あなたは顔をまっかにして叱咤する。
「それいくぞ。クソ!」
工務科との試合を想定して、あなたは私を鍛える。
「負けるもんか。なにくそ!」と。
あなたの立派なお尻を、カマキリみたいな私のお尻へぶつけて、
「ケツダンリョク」なんて、芝生にころがって笑ったわねぇ。
大本営の春は、桜が美しかった。
「小諸なる、古城のほとり・・・」
きまって島崎藤村をうたったわね。
「敬禮!」
誰かが叫ぶ。私たちははじかれたように起き上がって、めくらめっぽう敬礼する。
にこにこと近寄ってこられたのは、軍医部の林中将殿。シャバでは小児科を開業されていて、あなたが生まれた時からの、かかりつけ医。
「あんたらなぁ、歌もええが。
こんなとこにおるこたァありゃせんで。山奥の親戚か、田舎の知り合いさがして、逃げんさいや。」
するとあなたは、目をくるくるさせて、
「軍医殿。うちらは、うちらは、戦場へ征きんさった兵隊さんに代わって仕事をしとるんです。逃げたりはせんです」
と、勇ましく答えたわ。私たち、骨の髄まで軍国乙女だった。
「じゃがのう。わしら軍人は仕方ないが、あんたらのいる所じゃ、ありゃせんよ」
軍医殿には、見えていたのね。どんなにここが危険な処か。
二号庁舎の西側に、自分たちの防空壕を作ったわね。
石田のおじちゃんの指揮で、四帖ぐらいの穴を掘って、四方に廃材の柱を立て、廃材の板で壁を張って、天井には垂木だの板だの並べ、カスガイで打ちつけて、その上に土を盛った。なんというやすめな壕。近くに一発落ちたら、生き埋めになっちゃう粗末なもの。
「うちらは、死なばもろともじゃ」
ヒミツ基地を作った童みたいに、そこで息を潜めているのが、たのしくさえあって、とっくに空襲警報は解除されてるのも知らず、おじちゃんに叱られたこともあった。
すぐそばに、コンクリート造りの頑丈な書類壕があって、吾われも大きくて重い国有財産台帳を出し入れしたわ。
そう。司令部は、人より書類の方が、うんと、うんと体大切だったんだ。
私たちだって、夢が見たかった。
退庁時間がくると、あなたや籭さんと、映画「狸御殿」へ走ったわ。
宮城千賀子の美しい若様の目が、ハートの真ん中に、グサっと来たその瞬間。
空襲警報のいやなサイレン。
夢は忽ち消え。吾われは館外へ追い出される。
半券を大切に握って、翌日も狸御殿へ。
でも又、空襲警報。次の日もまた…
とうとう、歌やセリフ覚えちゃって、扇子半開き頬に当て、こわいろ使って、狸の若様やったわね。
あれは「恋」への憧れ、平和への憧れ。
鯉城の北側にあった、陸軍幼年学校の生徒が、山奥へ疎開して開いた校舎へ、私たちが移転したのは、七月に入ってからのことだった。
そのころ私は目を患らい、兎のような赤い目で図面をひいていた。
「仕事を休まないと治らないよ」と眼科医は診断書をくれたが、上司に提出すると、
「本土決戦の最中に、目ぐらいで休ませるわけにゃいかん。敵前逃亡じゃが」
と、オヒゲの少佐科長殿。
その科長殿が、八月五日東京へご出張。
留守をあづかった見習士官殿二人で、休暇願の書類と休暇許可の書類作って、ポンポン印鑑を押し私にくれたの。
棚からボタ餅をありがたく頂いて、八月六日は自宅でのんびり。
(ゴメンネ、ヤマン。本当にゴメンナサイ。)
姉と向き合って、たのしい朝食。
その時、天地を引き裂く閃光。
目も耳も機能を失い、忽ち暗闇の底なしの静寂。私はピカドンのドンを聞いていない。
百パーセントの受身で、放心していた。
(ヤマン、あの閃光は、すごかったね。
あれは、二、三千度もあったげなよ。
鉄を溶かす溶鉱炉の中ですら、千三百度から千五百度だという。それの倍近い熱だったんだ)
やっと視力が回復すると、
家中、土の滝。私は台所の土間に吹きとばされていて、瓦に埋まり身動き一つできない。
バラ、バラと瓦はまだ降りつづけ、私の頭や額を割る。血は吹き出して、瓦の上にしたたる。
土まみれの姉が匐ってきて、瓦の中から血だらけの頭出している私をみつけ、動転したのね、しばらく「どうしよう、どうしよう」と泣くの。その姉を逆に励まして瓦を一枚、一枚はがしてもらった。
ずい分時間をかけて瓦の山から抜け出たんだけど、ほっとした姉は、自分の足にも大きな傷がパクン、とあいているのを見付け、とたんにへなへなと腰をおとして、歩けなくなったの。その傷口はまるでロースハムをスライスしたみたいで、切れた血管から血が流れ出てる。動脈を切られたな、と思ったので、止血を試みたけど、全然止まらない。姉の顔は血の気が引いて口唇もまっ白。救護所へ連れていこう、と姉の腕を首にまきつけてかつぎ、ゆがんだ窓から外へ。
ご近所の家々はつぶれ、空地に播いた陸稲が焼け枯れ、地面はガラスの破片に覆われてた。
首に巻きついた姉の腕で、息が苦しい。
(なにくそ。負けるもんか、負けるもんか!)
あなたの口癖を思わず唱える。「アッ!」
はがれ落ちていた板の釘を、はだしの足が踏みぬいた!姉をそこへほり出すようにして、かがんで板を抜いて、足をもんだわ。そのまましばらく休んだけど、そのうち辺りは火がまわってきて、太田川の土手に逃げ、竜巻におびえ、黒い雨にずぶぬれ。
その夜大勢の人が亡くなった。
四日目。母と弟の疎開していた田舎へ。
傷は化膿し、下痢と発熱。手も足もぬけ落ちそうな怠惰感。
村では、広島市へ救護に行った人々が、血を吐いて、体に斑点が出て、髪が抜けて次々に亡くなっていくのよね。私ももうだめだ、と思ったわ。
そして終戦。いや、敗戦。
俄かに自分が軍属だったこと、敵前逃亡者だった、と気づく。ヤマンは、林さんは、籭さんは、みんな、どうしているだろう?
ほうたいだらけで司令部へ。
焼けた石垣の中のテントで、あの日、出張だった科長殿にお会いしたら、
「おう。君。生きとったんか」
私は死亡者名簿にのってたの。
「浮田見習士官は、軍刀が出てきたんじゃが遺骨はわからん。
金田見習士官は、頭蓋骨を打ち割られて、脳味噌が見えとるほどの重症じゃ。
林君は、幼年学校の焼跡から白骨で出てきたよ」
「山下都子さんは?」
「ありゃァね、大火傷で、八月九日、福屋に収容されて、亡くなった」
「ええッ!」ヤマンが死んだ。
(ゴメンよ、ゴメン。一緒に死なないで。ゴメン。)
やっぱり私は敵前逃亡してたんだ。
原爆後遺症に苦しまれ、自家輸血を繰返えしていた石田のおじちゃんから、あなたの被曝当日のようすをお聞きできたのは、何年も後のことだった。
「わしゃ。幼年学校の校舎から、手探りで匐い出たんじゃが、校庭の方へ歩きよったら、
『石田のおじちゃん』て呼ぶもんが居る。誰じゃろうと見ると、白いブラスがズタズタで裸同然。顔から両腕がずるむけ。よう見たら、ヤマンじゃ。見るも無残な姿じゃった。
正門を入ったところで、真っ正面からやられたらしい。
後頭部の髪が、まだジリジリ燃えよるけ、わしが手でもみ消してやった。
わしも体の左側の露出部を焼いとる。左手の動脈も切っとるけ、陸軍病院へ行こう、辺り見廻すと、なんと城の天守閣が見えん。
二部隊も兵器倉庫も、軍隊の建物、何ひとつ見当たらん。
そのうち籭さんや木村さんが、わしら見付けて寄って来た。二人とも建物のかげにおったらしゅうて、ひどうは焼いとらん。
校舎がぼんぼん燃えよるけ、酸素不足になるんじゃの。息が苦しい。なにより熱うてたまらん。火傷がひりひりする。城東橋渡って大本営の倒れた木の中へ逃げたんじゃが、途中、軍医部の建物もつぶれとって、軍医が下敷きになっとるゆうて、何人かが懸命に救出作業をしとったが、あとできくと、林中尉はダメじゃったげな。
大本営の杉の大木が燃えとって、その下くぐる時、裸足の籭さんはひどう火傷した。
三角兵舎で、下士官の白い体操服みつけて、裸のヤマンに着せてやった。
ヤマンは水を欲しがってのう。わしゃ炊事班へ行って、もろうてきちゃったが、ありゃあ、アオソとボウフラのわいとる防火用水、汲んできとったげな。なにも知らんけ、ヤマンはうまいうまいて、喜んで飲みよった。
一晩経つと、火傷はひどうふくれ上がって、もうヤマンの顔はしとらん。
船越のわしの家からは、オヤジが探しに来てくれ、ひるから家内が食うもん持ってきたりしたが、ヤマンとこは誰もこん。
「お母ちゃん、どうしとってじゃろう。
お父ちゃん、やられたんじゃろうか」
そればっかり、さいごまで言うとった。
幼年学校の校庭に仮収容所ができて、移ったんじゃが、肩でも腕でも、さわると皮膚がずるずるむけて、赤むけじゃ。げに、痛しゅうあった。
家内の持ってきたトマト、食わそう思うてかがんだら、耳の傷口に白いもんがいっぱいモゾモゾしよる。ウジ虫じゃ。
ウジ虫じゃ、ヤマンを噛りよる。もう、口もきけんほど衰弱しとった。
そいでも、『おかぁさ』繰返しよる。
福屋の南口付近で薬局をしとられたけ、おそらく全滅じゃったろう」
ひどい。
なんて極刑を受けたの。
どんなに痛かったろう。悲しく、苦しく、なさけなかったことか。
私はピカの間じゅう、姉と一緒だったことさえ、すまなく思った。
(ヤマン。ごめん。ごめんな)
この世に、戦争ほど極悪非道な犯罪は無い。
勝っても負けても、失うものばかり。何ひとつ建設的なものはないことを、あなたは教えてくれた。
あなた方が、命を捨ててくれたからこそ、核兵器の悪魔性が証明できた。
同じ広島で、同じピカを受けながら、生き残った私は、あなたに負い目を感じるの。
ヤマンが死んだのに、私だけが幸せになっていいのか。幸せに躊躇する。
戦争放棄の憲法ができたとき。これでヤマンの死は無駄にならなんだ。これはヤマンたちが作ってくれた憲法だ、と思った。
けれど、あれから六十余年が経ち、「戦争がかっこいい」なんて、とんでもない子らがいる。テレビゲームで戦争が遊びになっているの。
九条をとりはらって、戦争やりたがっている大人もいる。
そうして、悪魔の核兵器は地球上に大きな顔してまだ存在している。
いや。あの時は、たった二発しかなかったのに、今はその性能も何百倍にもなったものが、二万発も存在し、国と国の争いの原因ともなっているの。
戦争は天災じゃないの。人間が人間を襲っているのよ。
そもそも、人間のためになるはずの科学や技術が、懸命に人間を攻撃するなんて、こんな馬鹿げたことがあるかしら。科学が人間を滅ぼすんだよ。
人は、愛し合い、助け合い、励ましあいあって生きていくもの。
だから、悪魔の核兵器を廃絶するのは、当り前のこと。
生き残った私は、これを訴え続けるわ、あなたに代わって。
十八歳のあなたの声がする、
「負けるもんか!」と。
私は今、八十二歳。生き残ったことを、敵前逃亡させてもらったことを、よろこんでいる。
2008年にお寄せいただいたお手紙です