2021-6-26 01:35 /
最古の記憶は。
日付さえおぼろげな、遠い霞のなか。
貴族的な気品を抱く、豪華な私室。
そこには天蓋つきの寝台も欧羅巴製の椅子もあった。
けど床に座るのが一番好きだった。
こんな日は特に。
窓から見える黒の帳は星月夜。
枠に切り取られた散在する瞬きに目を奪われる。
外界と室内を隔てる窓ガラスに、己の姿が映る。
深窓の令嬢―――
洋風のドレスに身を包む、楚々とした少女。
きみはいったい、だれですか?
[少女]「……太一」
透けて輪郭をぼかす……銀髪。
長くしだれて腰を包む、その先端はゆるやかに波打つ。
顔は小さい。まるで人形の頭身だ。
『浮世離れしたお顔立ちね』
誰だろう、そんなことを言ったのは。
奥様だったか、上の姉君だったか。
あまやかな声が耳にゆかしい。
誕生して十年に満たない頃の記憶は、どこか混濁して夢心地だ。
『こっちにおいでなさい、遊びましょう』
逆らったことはなかった。
少女の服、少女のマナー、少女の言葉遣い。
屋敷に働く者たちとその優雅な主たちの、高尚とも幼稚ともつかないお人形さん遊びは、退屈ではあったが不快ではなかった。
そのような理由だったと思う。
窓枠に映し出される自分の姿が、いつも少女そのものだったのは。
そう、ただ一つ記憶していることがある。明確に。
大勢の年端もいかない少女たちの中、ひとりだけ笑わない子がいた。
彼女だけは、ぼくで遊ぶことはなかった。
少女の格好で茶の相手をつとめる『ぼく』の姿は、いつも赤裸々に飾られていて。
広い庭をひとりで散策する彼女は、ちらと軽蔑するかのような仕草で目線をよこすのだった。
視線を向けられると、いつも心はパニックになった。
歓喜か、羞恥か。
あるいは両方か。
おおよそ動じた経験のないぼくにとって、制御できない情動の暴走は希有だ。
それでも表向きは、平然とご婦人たちに笑顔をふりまく。
わきまえるべきは自分の役目だ。
役目……人形に徹すること。
生きるために。
その人形時代、彼女と会話することはなかった。
ただの一度も。
へだてた場所に超然と立つ少女の姿だけは、つよく印象に残った。
後に知った。
彼女もまた金にあかせて買い取られた、人形だったのだと。
ひやり、と空気が渦巻く。
冷えた廊下の外気だ。
振り返ると、音もなく開いた扉の横。
彼女が立っていた。
孤高の君―――
だけどどうしたことか。
目の前に立つ少女は、薄汚れていた。
違う。
汚されていた。悪辣な手段で。
裂けた衣服。白い肌を走る擦過傷。
唇の端には黒ずんだ血の筋。
ぐらり
視界が波打つ。
滑稽ではあったが幸福だった人形時代。
ぼくと彼女が、同居したことはない。
記憶が混乱している。
そう……つまり……彼女がここにいるということは……。
かしましい奥様とご令嬢。うら若い使用人たち。
砂糖菓子のように甘い日々は、記憶の中で早回しに過ぎ去る。
すべての景色は色彩を失い、くすんだ灰色へと劣化していく。
彼女が扉をあけて部屋にやってくる時代。
それは人形時代ではない。
もっと後……。
ぼくらふたりに、たった一部屋しかあてがわれない時代。
舞台は天国から地獄へ。
気がつけば、辺りの調度は失せて灰色の壁にとってかわる。
寝台は粗末に。
シーツは薄汚れ。
照明は裸電球。
床はささくれた板張り。
美しいシルクのカーテンは、雑巾も同然の身分へと下った。
つらく、重く、卑劣で、早すぎた人生の{隘路:あいろ}。
その境遇が口もきかなかったふたりを束ねた。
[少女]「太一」
ぼくの名だ。
奥様たちは、この男らしい名前から一文字を取り、かわりに女の子そのものの一文字を付け加えた名でぼくを呼んでいた。
一姫。
風雅ではある。
ただ彼女が、ぼくをそう呼んだことはない。
[太一]「なにか、飲む?」
問いかけにも反応せず、彼女はぼくとの距離を詰めた。
そしてごく自然に、寝台に押し倒してきた。
[少女]「……」
触れるほどに近い。
隙間には、沈黙が漂う。
呼吸が止まりそうになる。
甘いにおい。
香水でも石けんのものでもない。
少女自身の体臭。
青臭い吐き気をもよおすような獣臭の下から、すべてを打ち消しつつ立ちのぼる。
柔らかな花弁に似た唇が、優しい声を押し出す。
[少女]「毎日、つらい?」
少し考えて、正直に答えた。
[太一]「うん」
[少女]「痛い?」
[太一]「痛いよ」
[少女]「誰も助けてはくれない?」
[太一]「うん。優しい人、もういないからね」
[少女]「違う。昔からいなかったの」
一転して、冷たく彼女は言った。
憎しみも敵意もない。
ただ冷たいだけ。
[太一]「でも昔の旦那様たちは」
[少女]「あれらは、弱いだけのものよ」
[少女]「……」
[少女]「狭い心に余裕があれば、親切に見える時もある」
[少女]「けど自分が苦しくなるとすぐに逃げ出す」
[少女]「……大切な玩具だって置き去り」
両手がぼくの肩に置かれる。
つよく、つかむ。
[少女]「味方はいない。誰も助けない。自分のことを自分で守らないといけない」
[少女]「……」
そうだ。
悲しいけど。
それが真実ってやつだ。
弱い子供は、餌食になる。
信じられないほど黒い欲望が、世の中にはある。
僕も彼女も、それを知っている。
力もないぼくらは、知恵で自分を守るしかない。
法律上『彼ら』こそがぼくたちの保護者なのだから。
けれどその保護者が、加害者であったなら?\n逆らえない。
広い屋敷と敷地。
何をしようが、彼らの行いが外にもれることはない。
ぼくたちは―――
奴隷、なのだ。
白い手が頬を挟み込む。
顔が接近した。
少し、胸がどきどきした。
けど彼女は、真剣な顔をして頬の一箇所を撫でた。
[少女]「……タバコの火を当てられたの?」
[太一]「ちょっとね」
[太一]「でもあらかじめクリーム、塗ってたから」
自分の知恵で、自分を守らないといけない。
[少女]「謝る」
[太一]「え?」
[少女]「助けてあげられなくて」
戸惑った。
[太一]「いいよ、そっちだって……」
その先は言葉が出ない。
男のぼくより女の子の彼女の方が、つらい目にあう。
抱きしめられた。
[太一]「どうしたの?」
[少女]「太一……太一」
声が震えてた。
珍しい。いつも冷静なのに。
[少女]「太一……」
ぼくの耳元に押しつけられた唇。耳にわななきと吐息が吹き込まれる。
背筋を電気めいた刺激がのぼった。
腰のあたりがむしょうに熱い。
[太一]「っ!?」
その部分を、唐突に圧迫された。
手だ。
片手が、押さえている。
こわばった部分が、上からつよく押さえつけられる。
じっとしていられず、身をよじった。
[少女]「太一、わたしたちは弱い」
黒々とした瞳に輝き。
射竦められ、相づちも打てない。
[少女]「だから手を組まないといけない」
[太一]「手を?」
[少女]「一心同体に」
[太一]「一心同体……」
[少女]「そうすれば、多少つらくても我慢できるから」
[少女]「わたしは太一、太一はわたし」
唇は言葉を紡ぎながら、静かに降りてきた。
日付さえおぼろげな、遠い霞のなか。
貴族的な気品を抱く、豪華な私室。
そこには天蓋つきの寝台も欧羅巴製の椅子もあった。
けど床に座るのが一番好きだった。
こんな日は特に。
窓から見える黒の帳は星月夜。
枠に切り取られた散在する瞬きに目を奪われる。
外界と室内を隔てる窓ガラスに、己の姿が映る。
深窓の令嬢―――
洋風のドレスに身を包む、楚々とした少女。
きみはいったい、だれですか?
[少女]「……太一」
透けて輪郭をぼかす……銀髪。
長くしだれて腰を包む、その先端はゆるやかに波打つ。
顔は小さい。まるで人形の頭身だ。
『浮世離れしたお顔立ちね』
誰だろう、そんなことを言ったのは。
奥様だったか、上の姉君だったか。
あまやかな声が耳にゆかしい。
誕生して十年に満たない頃の記憶は、どこか混濁して夢心地だ。
『こっちにおいでなさい、遊びましょう』
逆らったことはなかった。
少女の服、少女のマナー、少女の言葉遣い。
屋敷に働く者たちとその優雅な主たちの、高尚とも幼稚ともつかないお人形さん遊びは、退屈ではあったが不快ではなかった。
そのような理由だったと思う。
窓枠に映し出される自分の姿が、いつも少女そのものだったのは。
そう、ただ一つ記憶していることがある。明確に。
大勢の年端もいかない少女たちの中、ひとりだけ笑わない子がいた。
彼女だけは、ぼくで遊ぶことはなかった。
少女の格好で茶の相手をつとめる『ぼく』の姿は、いつも赤裸々に飾られていて。
広い庭をひとりで散策する彼女は、ちらと軽蔑するかのような仕草で目線をよこすのだった。
視線を向けられると、いつも心はパニックになった。
歓喜か、羞恥か。
あるいは両方か。
おおよそ動じた経験のないぼくにとって、制御できない情動の暴走は希有だ。
それでも表向きは、平然とご婦人たちに笑顔をふりまく。
わきまえるべきは自分の役目だ。
役目……人形に徹すること。
生きるために。
その人形時代、彼女と会話することはなかった。
ただの一度も。
へだてた場所に超然と立つ少女の姿だけは、つよく印象に残った。
後に知った。
彼女もまた金にあかせて買い取られた、人形だったのだと。
ひやり、と空気が渦巻く。
冷えた廊下の外気だ。
振り返ると、音もなく開いた扉の横。
彼女が立っていた。
孤高の君―――
だけどどうしたことか。
目の前に立つ少女は、薄汚れていた。
違う。
汚されていた。悪辣な手段で。
裂けた衣服。白い肌を走る擦過傷。
唇の端には黒ずんだ血の筋。
ぐらり
視界が波打つ。
滑稽ではあったが幸福だった人形時代。
ぼくと彼女が、同居したことはない。
記憶が混乱している。
そう……つまり……彼女がここにいるということは……。
かしましい奥様とご令嬢。うら若い使用人たち。
砂糖菓子のように甘い日々は、記憶の中で早回しに過ぎ去る。
すべての景色は色彩を失い、くすんだ灰色へと劣化していく。
彼女が扉をあけて部屋にやってくる時代。
それは人形時代ではない。
もっと後……。
ぼくらふたりに、たった一部屋しかあてがわれない時代。
舞台は天国から地獄へ。
気がつけば、辺りの調度は失せて灰色の壁にとってかわる。
寝台は粗末に。
シーツは薄汚れ。
照明は裸電球。
床はささくれた板張り。
美しいシルクのカーテンは、雑巾も同然の身分へと下った。
つらく、重く、卑劣で、早すぎた人生の{隘路:あいろ}。
その境遇が口もきかなかったふたりを束ねた。
[少女]「太一」
ぼくの名だ。
奥様たちは、この男らしい名前から一文字を取り、かわりに女の子そのものの一文字を付け加えた名でぼくを呼んでいた。
一姫。
風雅ではある。
ただ彼女が、ぼくをそう呼んだことはない。
[太一]「なにか、飲む?」
問いかけにも反応せず、彼女はぼくとの距離を詰めた。
そしてごく自然に、寝台に押し倒してきた。
[少女]「……」
触れるほどに近い。
隙間には、沈黙が漂う。
呼吸が止まりそうになる。
甘いにおい。
香水でも石けんのものでもない。
少女自身の体臭。
青臭い吐き気をもよおすような獣臭の下から、すべてを打ち消しつつ立ちのぼる。
柔らかな花弁に似た唇が、優しい声を押し出す。
[少女]「毎日、つらい?」
少し考えて、正直に答えた。
[太一]「うん」
[少女]「痛い?」
[太一]「痛いよ」
[少女]「誰も助けてはくれない?」
[太一]「うん。優しい人、もういないからね」
[少女]「違う。昔からいなかったの」
一転して、冷たく彼女は言った。
憎しみも敵意もない。
ただ冷たいだけ。
[太一]「でも昔の旦那様たちは」
[少女]「あれらは、弱いだけのものよ」
[少女]「……」
[少女]「狭い心に余裕があれば、親切に見える時もある」
[少女]「けど自分が苦しくなるとすぐに逃げ出す」
[少女]「……大切な玩具だって置き去り」
両手がぼくの肩に置かれる。
つよく、つかむ。
[少女]「味方はいない。誰も助けない。自分のことを自分で守らないといけない」
[少女]「……」
そうだ。
悲しいけど。
それが真実ってやつだ。
弱い子供は、餌食になる。
信じられないほど黒い欲望が、世の中にはある。
僕も彼女も、それを知っている。
力もないぼくらは、知恵で自分を守るしかない。
法律上『彼ら』こそがぼくたちの保護者なのだから。
けれどその保護者が、加害者であったなら?\n逆らえない。
広い屋敷と敷地。
何をしようが、彼らの行いが外にもれることはない。
ぼくたちは―――
奴隷、なのだ。
白い手が頬を挟み込む。
顔が接近した。
少し、胸がどきどきした。
けど彼女は、真剣な顔をして頬の一箇所を撫でた。
[少女]「……タバコの火を当てられたの?」
[太一]「ちょっとね」
[太一]「でもあらかじめクリーム、塗ってたから」
自分の知恵で、自分を守らないといけない。
[少女]「謝る」
[太一]「え?」
[少女]「助けてあげられなくて」
戸惑った。
[太一]「いいよ、そっちだって……」
その先は言葉が出ない。
男のぼくより女の子の彼女の方が、つらい目にあう。
抱きしめられた。
[太一]「どうしたの?」
[少女]「太一……太一」
声が震えてた。
珍しい。いつも冷静なのに。
[少女]「太一……」
ぼくの耳元に押しつけられた唇。耳にわななきと吐息が吹き込まれる。
背筋を電気めいた刺激がのぼった。
腰のあたりがむしょうに熱い。
[太一]「っ!?」
その部分を、唐突に圧迫された。
手だ。
片手が、押さえている。
こわばった部分が、上からつよく押さえつけられる。
じっとしていられず、身をよじった。
[少女]「太一、わたしたちは弱い」
黒々とした瞳に輝き。
射竦められ、相づちも打てない。
[少女]「だから手を組まないといけない」
[太一]「手を?」
[少女]「一心同体に」
[太一]「一心同体……」
[少女]「そうすれば、多少つらくても我慢できるから」
[少女]「わたしは太一、太一はわたし」
唇は言葉を紡ぎながら、静かに降りてきた。