2022-6-24 14:11 /
收录在2010年的pulltop主题合同本[memories are here],这个是建立在广播剧内容基础上的本子。
短篇的背景:广播剧中,新和克里斯回到七央之后,新被克里斯的爷爷吉尔蒙德打了一顿,爷爷认为新“没有力量、没有智慧、没有经验”,在埃尔丁已死的现在,血统已经不再有任何价值,3个月后的戴冠仪式之前,新必须成长到让他认同,否则就死。再告诉克里斯,如果还想以男性的身份生活,要么杀了新自己成为王子,要么回到剑之国带兵锻炼,他另外派一个公主进驻七央,因为世界上从来就没有男公主。在这之后克里斯决定放弃作为男性生活,以成为新的王妃和“并肩站立之人”为目标,这个短篇是讲女主的心理变化。

「今は、ひとりになりたいんだ」
振り向きもせずに、目の前の背中は清白に告げた。

何故だろう。追憶の中にあるクリスの背中と,目の前にある背中の輪郭が重ならない。

…………こんなに、小さかったかしら?

六国六姫の中では最も小さな清白が驚きに目を瞬かせるくらい、その背中は小さく、か弱げで、頼りなかった。

違和感に眉を少し颦めながら…………時間にすれば一秒くらいの僅かな間、何とはなしに待ってみたものの、その小さな背中がこちらに向
き直る様子はない。

「承知しました。では」

聞こえてしまわないように、溜め息を押し殺して。

蚊の鳴くような小さな声でそう答えて。

部屋の扉を小さく開けて。

「くれぐれも無理をなさらぬよう」

背後の小さな影から何も返答がなかったことに密かに胸を痛めながら、目の前に現れた隙間に身を滑り込ませて。

割れ物に触れるような慎重さで、そっと後ろ手に扉を閉じる。

[……クリス様」
喉まで出掛かっていた言葉がようやく唇から零れて落ちた。

だが、今頃になって振り返っても、視界の中には扉があるだけだ。

中の様子はわからない。

見えないのは勿論だが…………呼んだ声が届いていないのと同じように、今は、その部屋の中からは物音ひとつ聴こえてこない。

「そんなに」
その分厚い木製の扉越しでも…………先程、清白がその部屋を訪れた時には、中でクリスが振るう剣の音が、微かに、だが確かに聴こえて
いたのに。

「そんなに思い詰められましては」
もう一度扉をノックしかけて、だが清白は、本当に扉を叩いてしまうことはせずに。

「クリス様…………つ」

扉に沿わせた清白の身体が、床に向かってずるずると滑り降りた。

恐らくは、そうして清白の小さな身体が頹れた音すらも、クリスの耳には届いていないのだろう。


「おやおや。こんなところで何してるんだい」

その扉に背中を預け、廊下の床にしゃがみ込んでいる小さな姿は、そう声を掛けられても、顔を上げる素振りすら見せない。

「悪いんだけど、ちよつと退いてくれないかい、清白ちゃん。中の迷子に用があるんだけどね」

「迷子?」
聞き慣れない言葉に弾かれるように、両膝の間に落としたままだった頭が持ち上がる。

正面に誰かの膝頭。

ずっと目を上げると、
「…………七重様」
「ん。お元気そうで何よりだ、清白ちゃん」
清白のよく知る女性が、困ったように笑っていた。

「心配なのはわかるけどさ、今日のところは、もう部屋に戻ったらどうだい?」

苦笑に頰を緩めつつ、

「今、クリス君がぶつかってる壁は、かなり難しい特別製でね。乗り越えられるかは結局自分次第だけど、そのための最初のきっかけをあげられる人は、今、この世にひとりしかいない。それはあたしでも、新でも、他の姫でも…………残念ながら、清白ちやんでもない」

七重はそれでも、耳に痛い言葉をすぱっと口にする。

「乗り越え、られますか」

自分の声が考えなしに呟いた言葉を聞いて、清白は自分の耳を疑った。それではまるで、クリス様はもう二度と立ち直れないのでは
ないかと…………清白自身が暗に疑っているかのようではないか。

「さあ、どうだろうね」

小さく首を傾げながら、七重は腕を組んだ。
「もしもこちらさんが失敗でもしょうもんなら、それはもう、さらにもうちよつと拗れちやうかも知れないけどね」

それが七重の姿に隠れるように身を縮めて佇む、その小さな影のことなのだろうか。

「その方は」

その方はどなたですか。

どうしてそれは、私の役割ではないのですか。

言えない言葉を呑み下すのに、少し、時間が必要だった。

「取り敢えずあたしとしては、こちらさんをクリス君に会わせなきゃいけない。だから清白ちゃん、ちょっとそこを通してくれないかな」
無言のまま、清白は身体を扉の枠の外へずらす。

「ほらどうしたの。早くおいでよ」

七重は扉の前に出て、背後の影に声を掛け、


「…………しかし」
次には、内心の逡巡そのままに、気弱げに出したり引つ込めたりを繰り返す手を取って、

「ああもう!ほ—らつ!」

ノックもなしに開いた扉の向こうへ、その小さな影を放り込んだ。

「何ていうか、親子ってのも色々だねえ」

ばんと扉を閉じて、それから、ふ、と溜め息。

「さて…………訊きたいことが山程あるって顔してるね、清白ちゃん。そりやそうだとは思うけどさ」

「は、はい」

「中から出てくるのも待ってないといけないし。せっかくだから、おばさんとちよつとお話しょうか」

よっ、と小さな声を掛けて、七重は清白のすぐ脇に腰を下ろす。


暫く前までは振るっていたのであろう剣を、石床の上に無造作に転がしたまま、

「僕は…………僕は、誰だ」

誰もいない部屋の中に膝を突いて、クリスは静かに泣いていた。

その部屋の扉が開き、閉じたことすら、意識の中にないようだ。

「…………つ!」

すぐにも駆け寄ってその肩を抱いてやりたくなる。だが…………そうしていいのかどうかがわからなくて、もうひとりの小さな影は、放り
込まれた扉のすぐ脇に立ち竦む。

「今更」

何しろ、今のクリスが一体誰で、これから一体誰になるのか、クリス自身にもよくわからないのは、他ならぬ自分のせいなのだ。

「どの面を提げて」

もう何度繰り返したやら判然としない繰り言を口の中でだけ眩きながら、見ていることしかできない自分の胸を搔き毟る。

そんな痛みくらいで贖える罪ではない。

わかっていても、それでも他に何もできずに、小さな影はただ、その場に立ち竦んだままでいる。

「え。では、今通されたあの方が」

驚いた様子で、清白は七重を見返す。

「あの方がセシリア様…………クリス様のお母様なのですか?」

神官長キジェを名乗る仮面の女がクリスの実母セシリアであったことや、そもそもそのセシリアが一体何をしたのかということについて
は、清白も、グレンやクロウたちから一通りの説明は受けていた。だから、まだ生きていることも、ワルツ以降は行方が知れないことも、知らなかったわけではない。

だが、清白を含めた姫たちの中に、キジェの素顔を直接目にした者はひとりもいなかった。先程の小さな姿が誰であるのか、清白が気づ
かないのも無理はなかった。

「そう。だから、今回のワルツがこんなことになった事件、その原因のひとりってことになるね」

現在のクリス王子は、かつて本物のクリス王子と入れ替わった偽物で、しかも女性だった。

それが、ワルツの舞台となった異界で、入れ替わられた本物のクリス王子と邂逅した。

その間に七央の王が崩御し、時を同じくしてソルディア主導のクーデターが起きた。

さらに…………七央がそのクーデターに揺れる裏で、異界のプリンセスワルツは、いつの間にか『クリスの花嫁を定める戦い』から『「建
国の英雄にして魔王」エルディンの復活を阻止する戦い』にすり変えられていった。

「こんなこと、ですか」

そうして、ワルツが終わってみれば。

『クリスの花嫁を定める戦い』は決着つかずのまま、王子だった筈のクリスは王子どころか偽物で女の子という秘密が白日のもとに晒され、しかも、『本物のクリス』を名乗る異界育ちの少年が国王不在の七央に突如現れて『王子』になって…………それだけ、だった。

「まさしく『こんなこと』だよ。早すぎる王の崩御にクーデタ—、これだけだっててんやわんやなのにさ」

建国以来千年、ワルツがこんなおかしな顛末に終わった例はない。

「結局『王子』をどうするの?      っていう…………クリスくんか新か、どっちか片方が『王子』だっていうなら、じやあ『王子じゃない方』は一体何だったことにするの?         とかさ、そういう問題には一刻も早くケリつけないとね。今度の事情をどういう風に、どこまで説明したもんだか、って部分も組み立てられない。だから急いでるっていうオトナの事情もあるんだけど、ま、それだけじやなくて」

大袈裟に溜め息を吐いて、七重は天井を振り仰いだ。

「別にセシリアだけのためじやない。クリス君のこれからのために、セシリアは今、クリス君とちやんと話をしておくべきだ、とあたしは思った。いや——、あの頑固者を説き伏せるのにも苦労したけどさ、でも今回は特別。時間掛けてられる余裕はなくなっちやつたからね」

時間を掛けていられる余裕がない、とは。

「それは人伝に何となくは伺いましたが、今日のお昼頃、この城の中で新様とクリス様が会われたという」

白髪鬼。
北の剣王。
王にして咎人。

「そう。時間をはつきり区切られた、っていうこともひとつにはあるだろう。だけどそれだけじやない」

自分の肩に手をやりながら、七重はこきこきと首を鳴らす。

「何を訊かれたのか、クリス君から詳しく話してもらえたわけじゃない。とはいってもまあ、今がこういう状況で、問題のクリス君があの有様だ。ギルムント様の言い分にも想像はつく…………多分、訊かれたんだろうと思うよ。『お前は誰だ』くらいのことはさ」

なあ、孫。おまえは誰だ。

「『誰だ』ってそんな。クリス様は」

誰になるためにここにいる。

「『誰』だと思う?」

「え…………」

正面切って訊ねられ、清白は鼻白んだ。

「あの、ですから、クリス様はクリス様で」

「そう。それでいい。本当は、答えはそれだけでいいんだ。だけどさ

…………清白ちゃんにも、今ちよつと間があったよね」

「う。で、でもそれは」

反駁しようとして、

「すみません。その通りです」

だが結局、清白は肩を落とす。



「あはは。ま、よく頑張った」

言いながら、七重は手のひらを清白の頭に置いた。

「クリス君はね、その間を飛び越えなきゃいけないんだ。できるだけ早く。できるなら…………今すぐにでも」


『なあ、孫。おまえは誰だ』

祖父のしわがれた銅鑼声はまるで、ざらざらと耳から流し込まれた、針の尖った金平糖のようだった。

「僕は」
『誰になるためにここにいる』

半日近く経っているのに、未だにほとんどが溶け残ったままのそれは、何かにつけてクリスの頭蓋の中でぐるぐる踊り、その内側を無数の針で突つき回す。

『お前は、誰になりたいんだ?』

誰にもなれなかった出来損ないの魂は、そのひと刺しだけで消し飛んでしまいそうに脆い。

「僕は…………つ」

掠れた声に続きはなかった。

『僕は』の先を…………頭蓋の中、じやらじやらと音をたてる棘だらけの金平糖の隙間に何度手を入れても、未だに掴み出すことができずにいる。差し入れた手を引つ搔き傷でボロボロにするのが関の山だ。

そして、
「クリス…………」

セシリアもまた苦しんでいた。

どこにでもある一般的な平服の胸には、搔き毟る指の通りに、次々と線が浮かんで消える。

目の前に頹れ、苦悶に震える愛娘をどうしたらいいのか、自分に何ができるのか、セシリアにはわからない。


「ああ、クリス…………」

聴こえてしまわないように、
「すべて終わった筈なのに…………本当にまだ…………クリス…………」

何度も何度も、セシリアはその名を呼ぶ。


「今回のことがあって、七皇エルディンの千年掛かりの野望は潰え、『プリンセスワルツ』はその真の役割を終えた。それで終わりだっていうなら、確かに、すべては一度終わってる」

淡々と、七重は話を続けた。

「でもね。だからって、生き残った奴の人生まで、それで終わりになるわけじやない。それがどんなに苛酷なものであったとしても、生きてる限り、現実は続いていくんだ」

七央の正統な嫡子であるクリス・ノースフィールドは、深森新と名を変えて、元々自分が座す筈だった玉座に戻った。『新と一緒に王子になる』とクリスは言ったが、ギルムントも言った通り、ふたりで一緒に掛けられる玉座なぞ、元よりこの世のどこにもありはしない。

クリスが新と共にソルディアのドレスを纏い、イーリス姫の姿でワルツを戦い抜いたことは間違いない。だが、ソルディアの正式な推挙を受けた姫は『イーリス』であって『クリス』でも『新』でもない、というのが手続き上の公式見解だ。建前論ではあるが、『クリス』という名の姫は存在していない。

大体、仮に『ソルディアの姫』として起つことを当時のクリスが正



大体、仮に『ソルディアの姫』として起つことを当時のクリスが正式に望んだとしても、それはドレスを纏った姫を打ち負かすことのできない者に与えてよい称号ではない。だから、単身では未だにドレスを纏うことすらできずにいるクリスが、王や国民から『ソルディアの姫』としての推挙を得られた道理もない。

そして。

「今までずつと、『本物の王子様になる』ことだけを目指して、クリス君は生きてきた。だけど、ワルツに勝っても、エルディンを倒しても、遂にはザ・クラウンを手に入れてさえも、結局クリス君は『本物の王子様になる』ことだけはできなかった」

はあ、と大きく溜め息を吐く。

「だからといって、おいそれと女の子にも戻れない。女の子に戻るっていうのは、今の今までクリス君が生きてきた理由をすべて否定することでもあるしね。これは難しい」

「…………他人事のように仰いますが」

俯いたまま、清白が口を開いた。

「そのような生き方を強いてきたのはセシリア様や七重様ではありませんか。目論み通り、その願いのために生きるしかなかったクリス様に対して、その仰り様はあまりにも…………今まで七重様が仰られたことは、クリス様ご自身には何の咎もないことばかり!」

七重の手の下、幼い清白の身体の中に、幾重にも渦巻く静かな怒りを感じる。手のひらが焼け焦げそうに熱い。

「そう、お怒りはごもっとも。あたし自身もそう思ってるし、セシリァは多分、あたしの千倍も、一万倍も、そのことを気に病んでいる」
「でしたら何故!よりによってクリス様ばかりが何故!何故、いつまでもそんな苦しみを味わわねばならないのですか!」

「だったらさ、清白ちやん」
勢い任せに七重の手を振り払った、清白の怒り顔を見やって…………

相変わらず淡々と、七重は呟く。

「その苦しみからクリス君を解放するために…………今ここで、苦しんでるクリス君を殺す、つて選択技はあると思うかい?」

もう、いっそ。
いっそエルディンとやらに身体を乗つ取られたまま、クリスの魂が帰って来なければよかったのではないか…………とすら、セシリアは何
度も考えた。

あるいは、あの偽物の、歪なワルツのどこかで、他の姫との争いに破れ、生命を落としていれば。

本物のクリスを殺して『王子の祝福』を奪い返す、あの企みがもっとあからさまに失敗していれば。

不完全な『王子の祝福』をその身に宿していることが発覚した段階で、どうあっても王子になれない娘が処断されていれば。

…………私が、この子を産まなければ。

姫にはなれない自分を嘆く。『姉であった』という事実ひとつで、自分の姉に、ソルディアの姫に、遂には七央の国母になり果せた姉を
妬む。そうした浅ましさが私になければ。

思い悩むうちに、袖口に仕舞い込んだ短刀に指先が触れた。

爪の先に弾かれたそのさやが、かちり、と僅かな音をたてる。

そう、例えばこの子が、この短刀を心臓に突き立てて…………そうすることで殺されてくれる子であったなら。

「僕は、誰だ?誰になればいいんだ?」

なおも頭を抱えるクリスを前にしても、セシリアのなすべきことは定まらない。いつものように後悔は際限なく過去に遡り、いつものよ





なおも頭を抱えるクリスを前にしても、セシリアのなすべきことは定まらない。いつものように後悔は際限なく過去に遡り、いつものように、堂々巡りを繰り返すばかりだ。

それにその堂々巡りも、クリスの人生と同じだけの時間をかけて、既に散々やり尽くされてきたことだった。さらに何度繰り返したとしても、新たに見出されることなど何ひとつなびのだろう…………そうとわかっていながらも、思考は一向に袋小路から離れようとしない。

「教えてくれ、新、清白」
後悔しても始まらないのはわかっている。
だが、ではどうすればいい?

「お爺様……」
産まれたこの子には何の罪もないのに、産まれながらに罰を背負わされたこの子を、私は一体、どうすればよかった?

欲しくもない王子の祝福などを授かってしまったばかりに、幼いうちに摘み取られて終わることすら赦されなかったこの忌み子に、母親として、一体何がしてやれたというのか?

「七重さん……静さん……」
クリスは様々な名前を呼ぶ。
多分それは、思いついた順に、思いついたままを口にしているだけだろう。

「エイプリル……キジェ……」
呼ばれた誰かが答えを教えてくれれば、救ってくれればいい、と。

だが残念ながら、クリスに名を呼ばれた人々のほとんどは、その部屋の中にいなかった。

「かあさま」
ただひとり最後にその名を呼ばれた者を除いては。

「ありません!私が認めません!    そんな……殺すだなんて、クリス様を殺すだなんて!」
清白は一層声を荒げた。

「無論あたしもそう思うんだけどさ」
頷いてみせながら、
「でも清白ちゃん……それは、どうしてだい?」

ごく冷静に、七重は訊ねてみる。
「どうしてって、何を仰っているのですが七重様! クリス様は生きてるんですよ? 人の生命は尊いものです。どのような理由であれ、殺人が正当化される所以にはなりません!」

「でも清白ちゃんは、ついこの間まで、他国の姫たちと命賭けで戦ってたよね」

プリンセスワルツ。

「しかしあれは!」

たったひとりの王子を巡る、世界でいちばん華やかな。

「あれは……ですが、その、必ず死ぬと決まったわけでは」

「だけど、プリンセスワルツのルールに『決闘の相手を殺してはいけない』ってのはない」

戦い。

「それは」
「イーリス姫と戦って負けた、って聞いてるけどさ。事によったら清白ちゃんはその時、イーリス姫に殺されてたかも知れないし、場合によっては、清白ちゃんがイーリス姫を殺して終わった可能性だってゼロじやなかった。お姫様同士、互いに手加減してる余裕なんかない、全力勝負の中の出来事だからね。ルールの方だって、最初からそういうことになってる」

どう言い繕おうと『戦い』は『戦い』だ。

七重の言った通り、『決闘の相手を殺してはいけない』というルールは憲章にない。

己が国家の威信と期待を背負い、自らの誇りと想いと生命を賭したプリンセス同士の『決闘』とは、決して、スポーツのように綺麗なものではない。

清白とて、そうした覚悟の上で舞台に上がってきた筈だった。

「七重様の仰ることにも一理あります。それは認めます。実際に生命のやりとりをしてきた闘争の当事者が、今更言っても詮無いことかも知れません」

悔しそうに唇を嚙みしめながら、

「ですが、それでも駄目なんです」

ぽろぽろと、目の端から涙すら零しながら、

「悔しいですが、私には上手く言葉にできません。ですが、そんなこと仰られたって、今、現にクリス様は生きてるんです! なら生きて……つ! 生きてこそ、掴める幸せ、を」

精一杯の力を込めて、清白は七重を睨み据え、

「そうだ」
「……つ」
だから七重は、そんな清白の身体をぎゅっと搔き抱いた。

「クリス君ばっかりが、どうしてそんな辛い目に遭わなきゃならないのか、って訊いたね」

でしたら何故!

「答え、清白ちやんは知ってるじやないか」

よりによってクリス様ばかりが何故!

「生きてるクリス君を殺すことが救いになるなんて誰も思つちやいない。産まれ方はちよつと違ってたかも知れない、そのせいで変な宿命も面倒も他人より多く背負わされちやったかも知れない、だけど、それでも生きてて欲しいから」

何故、いつまでもそんな苦しみを味わわねばならないのですか!

「『生きてこそ掴める幸せ』は、クリス君にもある筈だって信じたいからだからみんな、こんなに苦しいんじやないか」

散々逡巡した挙げ句、ようやく、どうにか聴き取れる声で、セシリァはその名を呼んだ。
「クリス」
床の上にできた涙の水溜まりから、ひどくゆっくりと、クリスは視線を上げていく。
足元、どこにでもある女物のスカート。
何の変哲もないブラウス。
胸の前で祈るように組まれた、ほっそりした両手。
向かって左側にだけ、一房だけ編まれた髪。
見たこともないような、どこか懐かしいような、端正な顔立ち。
伏し目がちな瞳は、左右の色が違って見えた。

「あ」
それは確かに、クリスの知らない女性だった。

「かあ、さま?」
だから……クリスが何故そんなことを呟いたのか、それは、呟いた自分にもよくわからなかった。

「クリス!クリスつ!」

「わ……つ」

ともかくも、あとは意外に簡単だった。

気がつくとセシリアは,クリスの傍らに膝を突いて、その小さな身

気がつくとセシリアは,クリスの傍らに膝を突いて、その小さな身体をぎゆっと抱き竦めている。

「……本当に、母様なのですか?」

声で答える代りにセシリアは何度も頷くが、傍目には、頰擦りを繰り返すのと見分けがっきにくかったかも知れない。

「母様、あの」
「はい」

「その……申し訳ありません、母様。王子に、なれませんでした」

本当に申し訳なさそうに、クリスはそんなことを言う。

「よいのです。謝るのはこちらの方」

少し身体を離して、捨てられそうな子犬のようなクリスの瞳を真正面から覗き込む。

「『王子様になりなさい』などとどれほど努力を重ねようと、どんな不思議な力があろうと、それは土台無理なことです。クリス、あなたが王子になれなかったことを気に病む必要はありません」

そう。セシリアにはなすべきことがある。

王子の祝福は祓えないのかも知れないが、せめて、クリスに掛けられた『王子様』の魔法は解かねばならない。

「だってクリス、あなたは女の子ではありませんか」

「でもそれでは、僕を王子と信じて、今までついてきてくれた沢山の人たちを裏切ることに」

「それも、クリスのせいではありません。そうしてついてきてくれた人にこれからどう報いていくか、それは新王子と、ナナエと,五人の姫君と共に、これから考えればよいことです。あなたには」

す、と息を吸って、大切な、とても大切な言葉を続けた。

「クリス。あなたには未来があるのですから」

このひとことを……どんなに伝えたかっただろう。

産まれた瞬間からまともな未来に繋がる道をすべて断たれていたクリスに、そう伝えてもよい日が訪れることを、どれほど待ち侘びたことだろう。

ぽろぽろと涙を零しながら、セシリアは微笑んだ。

多分それは、クリスを産んで以来初めての、心からの笑顔だった。

「父様に……お爺様に、『お前は誰だ』と訊かれたそうですね」

「はい。でも」

クリスは顔を伏せる。

「あの……僕は、誰なんでしょうか」

「クリスはクリスです。他の誰でもありません」

両方の頰に冷たい手を添えて、俯きかけたクリスの顔を上げ、

「よいですか、クリス。あなたは王子にはなれません。だって、あなたは女の子ではありませんか」
それから、その華奢な身体をまた抱き締めた。

「無理なことばかりさせてごめんなさい、クリス。もうよいのです。なれもしない王子など目指さなくてもよい」

「え」

「ですから、あなたは、あなたの望む通りに生きなさい。……あなたは、どうしたい?」

「僕は……その、僕は」

少し間を置いて、
「新の横にいたい。遠くで想うんじやなく、後ろで護られるんじやなく、新の隣にいたい」

はっきりと,クリスは答えた。

「だから、そのために僕が王子にならなきやいけないっていうなら、これからだって王子を目指し続ける。そうじやなくても一緒にいられるなら、その時の僕の肩書きなんか何だって構わない。新と共に、新の隣にいたい。それが僕の望みです」



「そう……」
再び腕を解くと、
「やはり、もう一度死になさい、クリス」

セシリアはまた笑って、
「え?」

袖口から引き出した短刀の鞘を払う。

「あの、母様、ちよつと、何を」

首の後ろに通した腕の先、短刀の冷たい感触が首元に触れる。

「じっとして。怪我をしてしまうわ」

「いや母様、殺す相手に怪我の注意して何の意味が、って、うわ」


さくり、と微かな音がして、
「はい。クリス、あなたは死にました」
「……え?」
ほんの一房、切り落とされた後ろ髪が、セシリアの手の中に残る。


「王子を目指す他に生きる標を持たなかった今までのあなたを、たった今、私が殺しました。私の身勝手であなたに押しつけられてきた苦しみや悲しみごと、今度こそ必ず、私が地獄へ連れて行きます」

「母様……」

「ですから、生まれ変わったと思って、これからあなたは、あなたを偽ることなく、自身の望みに生きるのです。そう、女の子として王子の側にいたいなら、ワルツで妃が決まらなかったことは幸運かも知れませんが」

短刀を袖口に戻し、空いた右手の人差し指を立ててみせた。

「とはいえ、他の姫君と対等に戦えなければなりませんね。クリス、取り敢えずソルディアの姫になってみるのはどうでしょうか?」

それはクリスも考えないではなかったのだが。
「ですが母様、ソルディアのドレスは、僕ひとりでは纏えなくて」

「知っています。でも、『今は』、でしょう?」

クリスの言葉を遮って、

「望んだ通りに生きなさい。願いのために戦いなさい]

再び、その両頰に手のひらを添える。
「あなたには、未来があるのですから]

V

部屋から出てきたセシリアの顔を見て、
「……終わりました」

「ああ、そうだろうね」
七重はふっと微笑んだ。
誰が見てもわかる、憑き物が落ちた顔をしていた。

「セシリア様!」

清白が立ち上がる。
「あの……あの、もう、いいんですよね? これ以上、クリス様は苦しまなくてもいいんですよね?」

その真摯な眼差しを見つめながら、セシリアは少し考えて、
「どうでしょう」

そんな風に答えて、
「どうでしょう、って」

「王子を目指さないクリスの願いは、あなたの願いとは相容れないかも知れない。そのせいで苦しい想いをすることにまで『大丈夫』とは言えません……本当にごめんなさい、清白姫」

クリスにそうしたように、清白の両頰に冷たい手のひらを添えて、
「その問いの答えは、クリスとあなたで出してください。大丈夫かどうかを決めるのは私ではありません」

それからまだ僅かに開いたままの扉を指差す。

「『会いに行かねば』と言っていました、清白姫。会ってやってはいただけませんか」

「私にですか?」

言われて清白は眼をぱちくりさせる。

クリス様に何かあれば、最初に会いたい人は新様ではないのでしょうか、と大きく顔に書いてあるのがわかる。

「はい。清白姫、あなたにです。ほら」
くすりと笑って、セシリアは清白の背中を押した。

「え、あの。。。えつ」
ぱたん。扉が閉まる。
「さっきまでとはまるで別人だね、セシリア」

何やら低いところから声が聞こえた。
向き直ると、再び床に座り直した七重がにやにや笑っている。

「からかわないでください」
少し顔を赤らめながら、セシリアも、その傍らに腰を降ろした。

果たして。
「っと。あの、ク……クリス様、あの」
「ああ、清白。済まない、心配させてしまつて」

泣き腫らした真つ赤な目のことを除けば、クリスの様子は普段とさして変わらなかった。

「私のことはいいのです。それより、クリス……様は」
言葉に詰まった。


訊きたいこと、確かめたいことは山ほどあったが、それをどう伝えたらいいのか、清白にはよくわからなかった。

「うん……ええと。実はね」
代わりにクリスが話し始めた。

「さっき、大事な、とても大事なことを決めたんだ。その……それをどう伝えたらいいのか、どんな風に言ったら清白にわかってもらえるのか、まだ今、考えてる最中なんだけど」

たどたどしく、次の言葉を探りながら。
「とにかくそれは、清白に、いちばんに聞いて欲しいことなんだ」
「私で……よろしいのですか?  例えばその、あの」

新でなくていいのか。

「清白じやないとダメなんだ」

言外の問いに、クリスははっきりと言葉で答える。
だが、

「僕は、今までずっと清白を騙して、ずっとずっと酷い目に遭わせてきた。そういうことの……今から話すことは、もしかしたら、集大成みたいなことになるかも知れない」

ぱっと花が咲いたような清白の笑顔が目に見えて萎む。

「集大成、と仰いますと?」


「僕はずっと…………本当の王子になりたかった。王子の出来損ないのままで終わりたくはなかったし、こんな偽物の僕に『妃になりたい』とまで言ってくれた清白を裏切りたくもなかった」
「はい」
「だけど、ザ・クラウンを得ても、本物の王子どころか、結局僕は男の子にさえなれなかった」

「存じております」

「だから僕は、新とふたりで王子になると決めた。それが……実際の、七央の王制という仕組みの中で、僕や新がどう振る舞うことを意味するのか、そうしたことは特に何も考えずに。だけど、新や、清白や、他の姫たちと七央の城に戻って、そして思い知った。王であれ、王子であれ……それぞれに、その座はひとつだ、と」

ふたり掛けの玉座などない。
少なくとも七央の王城にはない。

「しかし、それは……ああ」
ああ、まただ。清白は嘆息する。

また……自分のせいではない筈のことなのに、責任だけがクリス様に押しつけられようとしている。

「だから清白。僕は、自分が王子になれない事実を受け容れる。これから僕は、女の子として生きていくと決めたんだ」

だが、気遣わしげな清白の表情とは裏腹に、
「そして、それでも新の横に並び立っために、正式な『ソルディアの姫』になることを目指す」

見たこともないくらい晴れやかに、
「今はまだ、僕は自分ひとりではドレスも纏えない未熟者だ。事実は認める。だけど、だからこそ、これから必ず『姫』になる」

穏やかに微笑むクリスを見やって、清白もふっと相好を崩す。

「……先程」
「ん?」
「七重様に訊かれました。クリス様とは『誰』か、と」

『誰』だと思う?

「私の答えは、やはり間違いではありませんでした。男か女か、王子か否か、そういう全部の前にクリス様は、クリス様です」

即答できなかったことを七重に指摘されたのは悔しいが、おかしな間違い方をしなかった自分のことは、少しだけ、誇らしかった。

「お心のままになさいませ。ようやく、誰かのせいでも、誰かのためでもないことに、御自分の生を費やされる時が来たのですから」

「ありがとう、清白」

クリスが清白の手を取った……ちょうどその時、

『おいでよ……早く、おいで……』


本当に何ひとつ、何の前触れもなしに、

「うわ……つ!」
恐らくは城内のどこかで、真つ白い光が音もなく弾けた。

「な、何だつ!」

塞がった瞼を無理にこじ開けながら、廊下の七重が叫ぶ。

「クリス!清白姫!」

「何だ? どうしたセシリア!」
「いない! いないの、 ふたりとも!」
悲痛な叫び声が、無人の室内に木霊した。