2022-6-28 14:32 /
原文:https://sutarin.hateblo.jp/entry/20060502/1146551667

        2ch的priwal讨论版正在以惊人的速度盖楼。1天差不多就是1版(2ch满了1000楼会开下一个版)。虽然我很理解各位玩家的心情。
        不过变成了“PRINCESS WAROS -公主ワロス”还是很可惜。
        确实,就是因为那部粪之第二部,才变成了瓦洛斯。(今天已经是モルツ了。)
        我也一直在追这个讨论版,但就像讨论版里的居民提议的那样,只能幻想出真正的第二部来安慰自己。

        质量并不差。倒不如说,是最好的。设定·世界观·角色都是。我这个人特别挑食,就算有兴趣也只是停留有兴趣而不会玩,大半都是在情报放出的时候就决定不玩了,就算玩了体验版也有很高的概率会不玩正片。作为御宅族来说,我是个好球区非常狭窄的人。就是这样。
        所以,当priwal的表现不如我想象的时候,我本可以完全可以忘记,如果是我,绝不会特意抽出时间写这样的记事。
        但之所以要写,就是因为喜欢priwal。因为太难以忘怀,因为实在太可惜了——让人有一种无论如何也不能不写的心情。我想2ch讨论版居民的黏附大概也是这样的理由,现在官方的公告栏也乱七八糟的,与其说是大家从信徒变成了反对者,还不如说是“有什么办法吧?”这样想的人占了大部分。

        话又说回来,priwal一开头就有惊人的安打,或者说,同样是战斗动作,“Fate/stay”night”完全没有手痒的感觉,但是看priwal的时候,真的是看的我手痒痒,倒不如说,就是这个!这个这个!我就是在寻找着这样的东西哟,又燃又萌,立绘超喜欢!以单纯的设定进行战斗的东西久违地热烈。
        一开始是以角色为目标,但是随着时间的流逝,对全员的感情也转移到了整个作品,因为以那样的状态玩了,所以之后的沮丧程度真不是一星半点。

        因为,如果准备了罕见的顶级食材,做到一半还做得很好,最后却做出了一道不怎么耐吃的菜,那任谁都会很失望吧。
        好久没看到如此盛大的男儿泪了。即使是同样的失败,只要善于应对失败的方法,就不会有不满。例如,虽然失败了,但还是有很多萌展开。但是,本作品连那样的萌展开都没有。
        只是中途把正题往很奇怪的方向飞,就像「おっと、バウンドが変わっちまった」(来源:シェイプアップ乱)一样。
        到底要飞到哪里去啊,你——记得我是以这样苦涩的心情继续玩第2部的。这一定制作组为了让我们烦恼不已,浪费我们的讨论版的阴谋吧。
        于是,我重新验证了priwal有什么好、有什么不好、有趣到什么程度。如果是自己的话,绝对会书写怎样的展开。
        希望制造商们能把这种反响铭记在心,努力发售追加的修正光盘。说实话,这种事确实闻所未闻,但只要做了,就足以成为传说,洗刷污名。
        我觉得它没能成为那样的神作。但如果这样成功的话能得到和《Fate》一样的评价,就连动画化也不是梦。可恶,为什么?

        在此,我们只从故事(剧本)方面进行评价。效果之类的就不提了。
        上面也写了,初期是最棒的。虽然是典型的王道少年漫画的风格,但战斗的不是男人,而是萌萌的女孩子,非常新鲜。一开始想象的是月野兔、天上欧蒂娜之类的小场面,但实际上是赌上性命的战斗,每一场决斗都很有趣。
        清白也多亏了战斗股价上涨。莉泽尔比想象中弱啊。啊,最弱的是伊莉丝。(笑声)

        然后,我一开始入股的伊莉丝,随着后半段的发展,角色变得越来越 (´・ω・`),最后已经超越了( ゚д゚)的境界,连萌都崩溃了。
        因为第二部的伊莉丝只是单纯的“容器”型角色,在里面的中之人是男主角………
        怎么样?感觉好像被刻意强调不要萌一样。而且,每次和公主合身,连衣服的颜色都变了…为什么为什么啊。因为伊利丝是白色的,所以才萌啊。再说了,明明很喜欢Eldhin-arc的大招场景,却在第二部中没有出现。终于,出现了一场非常羞耻的场景。已经看不下去了。orz
        结果伊莉丝并不是克里斯长大后的样子,而是初代公主的样子,总之就明确了是一个盛大的钓鱼角色。而且,在第二部中,解决了伊莉丝和七皇的痴话吵架,最后皆大欢喜。当这一荒唐的真相被揭开后,原本像风中残烛一样的萌点最终化为乌有。

        主人公到了第二部也变得越来越糟糕,对我来说是个十足的地雷角色。第一部的时候觉得他是个好人,到了第二部却变成了一个只会烦人的热血角色,我觉得死了也无所谓。(特别是说服清白的场面,太寒了)
        这种从第一部到第二部的角色变化,甚至给人一种用公式捏出来的印象,人设一下子萎了。特别是莉泽尔和清白,在第一部中都是非常出色的角色,为什么改变了性格?(或者说,清白已经死了,所以在第二部突然出现的时候,那种JUMP system极度的让我无法接受!这难道不是欺诈吗?)
        也许是为了最终的工口场景的缘故吧,清白顺着糟糕的主人公的瞬间,DQN哟。我只是在屏幕前空虚地咆哮着,我喜欢的才不是这种角色啊!

        关于克里斯:
        为什么不反过来改变这个角色,让她成长呢?——让我有如此强烈想法的是作为女主角的克里斯。
        如果这家伙从头到尾都是女性身体的男孩子,那最初的设定就没有意义了。我本来是想看这家伙被注入女孩子的自我,喜欢上主人公,最终变成少女的过程,所以才期待的。
        克里斯和手冢治虫的《缎带骑士》中的蓝宝石王子是一样的的属性,《缎带骑士》有趣的地方在于蓝宝石会憧憬女孩子,会在没人的时候偷偷地穿上礼服,但因为“我是王子啊”之类的而纠结。最后变成了真正的公主,所以很有趣。
        所以,在克里斯到最后也不放弃王子的位置,还是作为女儿身的男人大踏步前进的那一刻就结束了,我叫了一声“啊——”。比起男女之间的BL,只能看到性别同一性障碍。哪怕男性之间的BL也会有少女心的展开,可这里却没有,所以我认为不算BL。
        克里斯成长的最初的机会是在第一个工口场景之后。顺便一提,我对第一部是克里斯强制路线没有任何异议。问题是之后克里斯没有表现出任何变化。
        第2个机会是第1部的结尾,克里斯死亡的场景。我觉得那个场景非常有冲击性,如果之后突然亮出职员表和ed的话,就是很可恨的演出。
        因此,在克里斯断气之前,对主人公说:“你太耀眼了。你那么耀眼的话,我…我在你面前再也做不了王子了。”这样的台词,无论如何我都希望能发挥作用。我希望能把这句台词真心实意地全部和第二部联系上。应该能联系起来吧。
        所以,在第二部中,如果克里斯的肉体消失变成伊莉丝,出现这样的萌展开该有多好啊。
        于是,即使没有合身也变成了伊莉丝的克里斯虽然对如何接受女性的自己感到困惑,但为了保护身为真正王子的主人公而拼命战斗。或者,要想变回克里斯的样子,只能靠华尔兹来取得胜利……但是,在拼命战斗的过程中,和主人公的羁绊不断加深,最终克里斯接受了变成伊莉丝的自己,成为了主人公的王妃。
        我虽然也喜欢克里斯,但对本片的克里斯一本道还是不满意,那是一本道的话,就一本道吧,如果是经历了这样过程的主人公和女主的爱情故事就好了,也不会有不满。
        (主人公其实是王子的设定怎么说呢,细想起来“其实〇〇是××”的[恶魔人]式的系统本身就很冷,或者说玩游戏的那一方会有种被遗弃的感觉。。“什么嘛,原来你不是我们的伙伴啊。”就算priwal在设定上没办法,但当主人公周围的角色几乎都变成“其实〇〇是××”的时候,我还是很沮丧的…让姐姐成为隐藏角色的必然性在哪里呢?我觉得一开始就知道是不是更好?)

        如果通过胜负出现个别路线,然后再采用多重结局就好了。因此,h是华尔兹的真正目的,是为了制造继承人的大作战。或者说,那样的话岂不是从一开始就不得不变成角色选择游戏吗?(笑声)

        或者,真正的路线是伊莉丝路线。(话说我是伊莉丝萌,从发售前的处理来看,我对她是真路线的角色深信不疑。)
        但是,如果是这样的设定的话,即使是一本道展开也不会勉强。主人公的H全都是出轨啦外遇之类的www。在本片中,身为王子的主人公为了合身,与公主肌肤交叠。这是彻底的婚前性行为吧,而且全是中出www。所以,伊莉丝-克里斯线是唯一的出路,其他的公主都是出轨,虽然最终是后宫也可以。啊,不过华尔兹的设定很碍事,难道必须放弃后宫线吗。。。

        对了,最让我痛心的是,第二部是不是放弃了华尔兹这个设定?第一部把设定炒到那种程度,到第二部又突然咣得扔掉,这也太过分了吧。
        我想,观众本来就对华尔兹这个设定本身的起源没有任何兴趣。我觉得有个设定就够了,起源之类的无所谓。如果能解释一下当然再好不过了,但如果会因此弄错作品的方向性的话,谜题就保持着谜题就好了。

        但不知为何,制作方在这个设定中对“解开谜题”的部分过度投入了,导致了第2部的悲剧。
        终极boss就像从翼神传说的片场里跑出来的一样…
        我想,怎么说呢,越大的敌人其实越弱,包括看起来越弱的事情,也要好好学习。真的,看的我都不好意思了。
        真的是,那个粪展开,这TM是哪来的机器人动画啊——我是这么想的。
        明明看的是jump漫画,却不知不觉间变成了sunrise的机器人动画。我的意思是,虽然sunrise也很有趣,但和当初的目的不一样了吧。
        原本就没有人想要看到公主以外的角色成为终boss吧。还不如让姐姐当终boss和克里斯(伊莉丝)打一场,那就太燃了。
        最大的缺点就是“故事编得太多”。东浩纪的《动物化的后现代》中指出,近代的御宅族已经不再追求故事了,当时我觉得这样的指责是在说谎,但我觉得这在这部作品中完全适用。
        或者说,工作人员往别的方向(只有设定)过度努力了。
        第二部几乎只是华尔兹起源的设定说明,为了这一点对其他部分(对角色的挖掘)也全部抵消了。如果想说明这种东西的话,就用设定资料集来做吧。
        既然前半部分有好处,就不是完全的狗屎。但是,非常不完全燃烧。所以,还是粪作。

        只有制作者的想法超前了吧。
        为什么要塞得这么多?并不是所有想做的事情都能成功。应该有所取舍。把该做的事、不该做的事、必须做的事,把这些放在天平上衡量进行创作的,不就是专业集团吗?如果我是上司的话,看到高潮的时候,就会让他重新做。到这里素材、设定、角色都是最棒的,真的很可惜。
        恐怕没有比这更适合“可惜”这个词的作品了吧。

        虽然没什么关系,但正因为剧情的错,工口场面也不怎么热烈。
        在姐姐那里,主人公一边说着“请接受我的想法”一边无套中出的时候,在我脑海中和DQN 炮完全重叠了。
        哈…orz

        虽然在2ch有坦率的意见交换,但是在博客系还没有看到这方面的评论,也想听听别人毫无顾忌的意见哦。
Tags: 游戏
#1 - 2022-6-28 14:42
本文相关文章:

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

《动物化的后现代主义(動物化するポストモダン)》书评,书籍作者東浩紀,评价人sutarin
地址:https://sutarin.hateblo.jp/entry/20060511/1147419006



ちょっと前の記事にも書いたけど、今さら『動物化するポストモダン』を読みました。感想は「思ったより悪くなかったが、いささか違和感の残る内容」とでも書いておく。
この本が発売された当初、オイラの身内が読んでいたので感想も聞いていた。読んでた連中はオタクじゃなくて、いわゆるサブカル族、あるいは批評空間パラダイムに毒された人々だった。そのせいか、「オタクって思ったより最先端?」といったわけわからん感想ばかりだった。だから、期待してなかった。
それに、こういう本は出たばかりの時に読むより、今読んだほうが嘘か真か判断できるということもあって、いまさら読んだりしたわけです。
本書は2001年発行だけど、この頃はエヴァの余波もあって、サブカル縦断してオタクを論じることがブームだった、気がする。オイラはその風潮自体が嫌だったけど、今やサブカルは壊滅に等しく、今でも飽きずに続けているのは、東浩紀くらいじゃないだろうか。おかげで仕事がなくなっている気がしなくもない。つか、東浩紀は生粋のオタクだなあ。
エヴァはやっぱりどう見ても、普通のオタクアニメのそれ以上でもそれ以下でもないとオイラなんかは思っていたけど、下手にサブカルがブームを作り出したせいで、周囲のサブカル族(通称『STUDIO VOICE』族)もエヴァに総転びで、挙句劇場版については「庵野秀明のオタキモイに超禿同」とか言ってるを見てて、お前も相当痛いがな、と思ったりしたわけだった。
当時、未読だったオイラは"動物化するポストモダン"というタイトルの意味がよく分からなくて、どういう意味か訊いたところ、「"ポストモダン"はオタクを指していて、"動物化"っつーのはオタクの"パブロフの犬"現象を指している」とのことだった。
つまり、オタクは犬のごとく、萌えキャラを見ただけで、「尻尾ふってよだれをたらすワンコと同じ」という説明だったので、すごいいいよう、と思ったりしたわけです。そんなに正直に書いていいのか、という…。実際、本書には、まさにその通りのことが書かれていました。
東浩紀は、あふれる情報の中でオタクたちはポストモダン的(「大きな物語」の追求をやめ)に、シミュラークル(情報の堆積)を嗜んでいるといった論を展開してます。こうしたオタクの行動を今更「ポストモダン」と呼ぶのは違和感を覚えた。
そもそもポストモダンとは、「モダンに対するアンチ」としてあるわけですが、ここでのオタクは「無自覚なポストモダン」的集団であり、「無自覚なポストモダン」ってそもそもあるのか、といった疑問に突き当たったりしたわけです。
「ポストモダン」をWikipediaから引用すると(実際の「ポストモダン」の項目は専門用語が多すぎて抽象的なので、「ポストモダン文学」の項目から引用)
ポストモダン文学は近代文学の特徴に反する特徴を持つ文学のことである。近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり、(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。

【ポストモダン文学は近代文学へのアンチテーゼということ以外、明確な定義はない。通常○○文学という場合には、それを特徴づける形質があるが、ポストモダン文学の場合には、そのような形質には乏しく、単に近代文学の補集合という意味合いが強い。これは他のポストモダン建築、思想、芸術と同じである。
————————ポストモダン文学 - Wikipedia】

オイラもほぼ上記と同様の解釈をしていた。小説家で言えば、高橋源一郎、田中康夫、小林恭二、漫画家だったら、やまだないととか、岡崎京子とか。
説明文で見る限り、ポモは反動的で革新的なイメージがあるけど、実際の作品を見ると地雷だったりイタイことが多く、「面白くない作家」の代名詞としても、皮肉で使うことのが多かったけど…。
しかし、本書ではポモは決してネガティヴなイメージではなく、むしろ最先端のように語られている。というのも、東浩紀自身がオタクだから、一応、擁護し弁護しているのだろうな。

定本 物語消費論 (角川文庫)
作者: 大塚英志,西島大介
出版社/メーカー: 角川書店
発売日: 2001/10/25
しかし、全体を通して思ったのは、『動物化するポストモダン』は大塚英志の『物語消費論』への反論のために書かれただけと言えるような気がする。
『物語消費論』は未読だが、本書から察するに大塚英志の「オタクは『物語』を消費しつづける」つー主張に対し、「いや、オタクは既に『物語』外の要素を追いかけ、『物語』を消費する時期は終わった」と抗弁している。
そっかーーーーー? という疑問点は後々書くとして、この頃の大塚英志ってしょぼすぎて読む気が起きないのです。何故って『動ポ』にあった「ビックリマン」のくだりをみてもわかるように、面白いこと言ってないみたいだし。
ビックリマンシールの例えは本当にしょぼくて、なんじゃそりゃってなった。偽札と同じようなものに等価の価値などあるかっつの。同人誌は同人誌という二次創作で元ネタから「独立」しているから面白いのであって、元ネタの延長として書かれただであれば、元ネタ作成者が書くほどに面白いものなどありえないし同人誌なんて買わないっつの。でも、オタクは二次創作を漁るわけで、それはオフィシャル外のトーシロの描いた好きキャラを見たいという欲望を語らないのはいかがなものか、っつー…。
オイラは最近こそ大塚英志を評価し始めたけれど、それ以前の印象は中島梓の『コミュニケーション不全症候群』の解説で見限っていた。


コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)
作者: 中島梓
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 1995/12
本題からそれるが、『コミュニケーション不全症候群』という本は、大塚英志しかり斎藤環ンしかり、界隈の評論家には評判がいいが、オイラからすれば単なるトンデモ本だった。なんつーか、読めば読むほどフラストレーションがたまっていくだけ。
例えば、「超○○(ex.超現実)」の「超」を「超越」という意味で用いずに、「超かっこいい」という女子高生用途で使っているし、見開きページで重複描写が2、3箇所あるし、腐女子には長女が多いが根拠はない、とか断言するし、漫画論もストーリーしか語らないし、言っていることはほぼ全部が悪名高き岸田秀の受け売りだしで、構成も編集も駄目駄目な本だった。
しかし、本書の解説で大塚英志は絶賛し、べた誉めしていた…ので、オワタ\(^o^)/と思っていたのです。で、『物語消費論』は、大塚英志のDQN時代に書かれた本なので、手が出ないわけ。
で、話を戻すと、「今のオタクは萌え要素を楽しみ、大きな物語はもはや必要としていない」という東浩紀の主張は納得できないなあ。なぜなら、本書で挙げられている『エヴァンゲリオン』も『kanon』も『Air』も、果てしなく「大きな物語」を内包している作品に思えるからです。
で、実は東浩紀自身もそのことを分かっていると思う。分かっていながら物語論を知らない読者を導いている気がするのです。何故なら、この本は「大塚英志の『物語消費論』への反論のために書かれた」から。
ここで指す「物語」とは、古来からある「物語のパターン」を模倣している作品郡を指します。説明し始めると長くなるので割愛するけど、詳しく知りたければ蓮實重彦の『小説から遠く離れて』がオススメです。


小説から遠く離れて
作者: 蓮實重彦
出版社/メーカー: 日本文芸社
発売日: 1989/04
「『エヴァ』はキャラ萌えで消費された」と東浩紀は言いますが、『エヴァ』を支持したほとんどの人は、キャラクラーたちの実存的問いかけや苦悩、トラウマに魅力を感じていたと思う。オイラの身内に限って言えばそうだったし、そうした要素は物語と密接にリンクされ、『エヴァ』の世界観を支えていた。
関係ないけど、オタクは昔から、トラウマを抱えたイチモツキャラに弱いね。オイラはぜんぜん萌えないけど。綾波なんか、単なる情緒障(ryにしか見えない…アスカも姦しいヒステリーにしか見えない…それに、トラウマキャラって根暗そうで嫌だ…トラウマ持ってても、そこに縛られないキャラに魅力を感じるんだよねぇ。これはトラウマ属性に限った問題じゃなく、すべての属性の拘束を受けない、属性から自由になっている「意外性」こそ、オイラにとっての「萌えツボ」なんです。
そして、『エヴァ』は「物語」に深く関わる内面世界が鍵になっているし、物語を完結させんがための劇場版の失敗もあったわけで。
同時に、『Air』や『kanon』(未プレイだけれど)の評判も、もっぱら「泣ける」「感動する」といった感想が多いし、本書によれば、泣き所はヒロインの過去語りや不治の病だそうで、それを聞いても、「物語が内面世界に通じるから好まれた」のだと思う。
ウエルメイドな物語の消費自体は、東浩紀も否定はしていないが、オタクが好む物語のほとんどが「何かしら内面世界に通じている要素を内包している」ことは案外指摘されていない気がする。といっても、オタク向作品は膨大だし、全部がそうだと一概に言えないので難しい。しかし、「内面世界に通じている要素を内包」している作品が好まれる傾向にはある。トラウマ、回想、運命宿命、「実は○○は××だった」とか。
物語が存在せず設定ありきで暴走していた超有名作品って、思いつくのは(今のところ)『うる星やつら』に通じるスラップスティックや(内面世界を一切登場させない)ドタバタしかないと思う。(でも、『うる星やつら』は『ビューティフル・ドリーマー』ではじめてラムちゃんの内面世界を見せたしなあ)それ以外は特にロボットアニメによくある主人公の成長物語然り、いつの時代も物語と内面が内包された作品を求めていたように思う。

————————————待续
#2 - 2022-6-28 14:44
動物化するポストモダン(2)
地址:https://sutarin.hateblo.jp/entry/20060512/1147438110

前回エントリーの続き
他にも、「データベース消費−−オタクは萌え要素を分解する」といった指摘は間違っていないけど、「萌え要素」の一形態が新しい概念・発見のように論じられるのは違和感がある。
「萌え要素」って、単なる「好み」じゃないか、と思ったり。それが多様化しているだけで、これは別にオタクが発明したものでもないし、分類化や細分化は風俗業界から来ているような気がするし。オタクの場合は二次元のキャラに及ぶだけのことではないかな。
それにオタ好きされるキャラは外見ばかりじゃなく、性格や過去といった内面要素で人気が左右されることが多い。外見は萌え要素搭載しているばかりでは人気出ないしな。綾波にそっくりのキャラがいても、彼女と通じる内面的問題を抱えていなければ人気はでないと思う。
で、内面要素=目に見えない部分は物語と密接に関わってくる。さっきの「物語消費」にあてはめると、今も昔も物語なしでオタクはキャラを愛することってないんじゃないかな。
話は逸れるけど、前回書いた『PRINCESS WALTZ 初回版』の設定集に、スタッフの座談会が載っていて、何度か「萌えの記号を入れたor排除した」という会話が登場していた。
キャラクターを描くのが上手なクリエイターは、キャラの立場で物事を考えることができるし、キャラが作者から完全に独立している。例えば、大島渚とか、押井守のキャラはそう見える。
しかし、そうしたキャラを作り出せるクリエイターははオタ業界に極めて少ないように感じる。常に作者と一心同体というか。お人形的な嘘臭さが纏いついているというか。
で、プリワルのスタッフの意見は、まるでキャラクターを記号でしか捉えていなくて、それでは面白い話も作れないんじゃないだろうかなあ、と思った。
そうすると、近年のキャラ設定だけだった、例えばデジ子とかはどう説明するのかといった問題になる。これはもう、ぶっちゃけ、sanxのキャラとかサンリオのキャラと同じです。それだけです。以上。
で、実は、オイラが本書で最も物足りなかった部分は、オタクコミュニティーについてほとんど触れられていないこと。最後のほうにちらっと宮台真司のコギャル&オタク論が登場するけど、オタクの形成しているコミュニティー自体には触れられていない。オタクの生態を知らない人が本書を読んだら、オタクは単体で孤立し、行動しているように見えてしまうんじゃないだろうか。
しかし、オタクほど集団に依存し、かつそこを拠点に行動する人種はいないのです。だからコミケは拡大していったわけです。かくゆうオイラもオタクの一人だから書くけど、カースト制度ともいえるオタクヒエラルキーの中では日夜、階級闘争かつ優劣抗争、神だの信者だのでひしめいているわけです。大げさに言えば。
オタクはこうした人間関係を一般社会以上に重んじる風潮がある。それにオタ入りしたきっかけは? とオタクに聞けば「友達に洗脳されて」という人は結構多いし、腐女子は結婚や恋人であっさりとオタクから足を洗たいるすところからもいかに人間関係によってのみ、オタクである人も多いかうかがい知れると思う。
例え「オタ友いない」という人がいても、オタ界隈の情報を収集するし、それはいったい誰のためかと言えば、やはりオタクコミュニティーのためであるのだ。「オタク世間」と呼んでもいい。要するに、「オタク世間」とつながりを保つためにオタクは黙々と情報を収集する。
だけど、こうした傾向はむしろ近年であって、オタク第一世代と呼ばれるオタク系文化人にはあてはまらないと思う。彼らはアニメや漫画だけでなく、いろいろな文化を吸収している。現在では、マニアという呼び方のほうが相応しいだろう。
しかし、最近の若いオタクは本当にアニメや漫画の話しかできないし、読む本はラノベやミステリー、映画はハリウッドばっか、ゴダールなんてシラネーヨという人が多い。アニメや漫画といったオタ趣味をのぞけば、ごくごくフツーの一般人だ。
だから、作品についてもどれだけ祭にできるかがポイントになりつつあって、最初から本命などなさそーな人が増えている気がする。
アイディンティティーがないというか、「自分」や「個」がない。意見もない。こだわりもない。執着もない。批判精神もない。自発的欲望がない。内的必然性がない。好きか嫌いかしか言えない。そういうオタク。そういうのが「動物化」です。
…とまではさすがに書いてないが、端的に言えばそういう結論になっていくと思う。
最後に、スーパーフラットについて。
本書でも解説がされているが、いわく「オタクはさまざまな要素を平行して楽しめる」とのことで、オイラの解釈とはずいぶん違っていた。
オイラはオタク作品にある「内面世界を描きながら世界観に奥行きがない。表面的でぺったんこな世界」をさしているのだと思っていた。
絵についても、今のアキバ系萌え絵はほとんどがとても平面的である。空間感がない。立体感がない。質感がない。エロゲの場合はそれらを塗りでごまかしているけど、線画にしたらぺったんこ。
おそらく、欧米人が日本のオタク文化を面白がる理由はここにある。西洋絵画は、空間と立体に重点が置かれる。二次元の世界に、いかにして三次元の世界を造りだすか−−みたいな。でも、日本のアニメ絵は、あらかじめそれを放棄している。追求もしない。こうした平面的に捉える感性が珍しがられているのではないか。
その意味において、オタク産業=浮世絵全盛の江戸文化に通じるものがあるかもしれない。しかし、明治時代の日本は、西洋に追随するべく江戸文化を捨て去り、近代化の道を歩み始めた。しかし、結局、失敗した。失敗したのは国民性だ。そしてそのまま、文明だけが発達し「ポストモダン」な国になった。
でも、それは「いつまでも成熟できない子供みたいな大人の集まりの国」ってだけじゃん。駄目じゃないのか、という、誉めているようで実は決して誉めていないのが本書の真髄ではなかろうか。

关联条目