2024-5-19 12:30 /
一、

私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。殊にこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入って来る、男は勿論女もどしどしハイカラになる、と云うような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。

考えて見ると、私たち夫婦は既にその成り立ちから変っていました。私が始めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。尤も何月の何日だったか、委しいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフエエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、一人前の女給ではなく、それの見習い、――まあ云って見れば、ウエイトレスの卵に過ぎなかったのです。

そんな子供をもうその時は二十八にもなっていた私が何で眼をつけたかと云うと、それは自分でもハッキリとは分りませんが、多分最初は、その児の名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美と云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMI と書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧そうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。

実際ナオミの顔だちは、(断って置きますが、私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもそうしないと感じが出ないのです)活動女優のメリー・ピクフォードに似たところがあって、確かに西洋人じみていました。これは決して私のひいき眼ではありません。私の妻となっている現在でも多くの人がそう云うのですから、事実に違いないのです。そして顔だちばかりでなく、彼女を素っ裸にして見ると、その体つきが一層西洋人臭いのですが、それは勿論後になってから分ったことで、その時分には私もそこまでは知りませんでした。ただおぼろげに、きっとああ云うスタイルなら手足の恰好も悪くはなかろうと、着物の着こなし工合から想像していただけでした。

一体十五六の少女の気持と云うものは、肉親の親か姉妹ででもなければ、なかなか分りにくいものです。だからカフエエにいた頃のナオミの性質がどんなだったかと云われると、どうも私には明瞭な答えが出来ません。恐らくナオミ自身にしたって、あの頃はただ何事も夢中で過したと云うだけでしょう。が、ハタから見た感じを云えば、孰方かと云うと、陰鬱な、無口な児のように思えました。顔色なども少し青みを帯びていて、譬えばこう、無色透明な板ガラスを何枚も重ねたような、深く沈んだ色合をしていて、健康そうではありませんでした。これは一つにはまだ奉公に来たてだったので、外の女給のようにお白・粉もつけず、お客や朋輩にも馴染がうすく、隅の方に小さくなって黙ってチョコチョコ働いていたものだから、そんな風に見えたのでしょう。そして彼女が悧巧そうに感ぜられたのも、やっぱりそのせいだったかも知れません。


二、

「あたしどうしてもこの夏中に泳ぎを覚えてしまわなくっちゃ」
と、私の腕にしがみ着いて、盛んにぼちゃぼちゃ浅い所で暴れ廻る。私は彼女の胴体を両手で抱えて、腹這いにさせて浮かしてやったり、シッカリ棒杭を掴ませて置いて、その脚を持って足掻き方を教えてやったり、わざと突然手をつッ放して苦い潮水を飲ましてやったり、それに飽きると波乗の稽古をしたり、浜辺にごろごろ寝ころびながら砂いたずらをしてみたり、夕方からは舟を借りて沖の方まで漕いで行ったり、――そして、そんな折には彼女はいつも海水着の上に大きなタオルを纒ったまま、或る時は艫に腰かけ、或る時は舷を枕に青空を仰いで誰に憚ることもなく、その得意のナポリの船唄、「サンタ・ルチア」を甲高い声でうたいました。
 O dolce Napoli,
    O soul beato,
と、伊太利語でうたう彼女のソプラノが、夕なぎの海に響き渡るのを聴き惚れながら、私はしずかに櫓を漕いで行く。「もっと彼方へ、もっと彼方へ」と彼女は無限に浪の上を走りたがる。いつの間にやら日は暮れてしまって、星がチラチラと私等の船を空から瞰おろし、あたりがぼんやり暗くなって、彼女の姿はただほの白いタオルに包まれ、その輪廓がぼやけてしまう。が、晴れやかな唄ごえはなかなか止まずに、「サンタ・ルチア」は幾度となく繰り返され、それから「ローレライ」になり、「流浪の民」になり、ミニヨンの一節になりして、ゆるやかな船の歩みと共にいろいろ唄をつづけて行きます。………

こういう経験は、若い時代には誰でも一度あることでしょうが、私に取っては実にその時が始めてでした。私は電気の技師であって、文学だとか芸術だとか云うものには縁の薄い方でしたから、小説などを手にすることはめったになかったのですけれども、その時思い出したのは嘗て読んだことのある夏目漱石の「草枕」です。そうです、たしかあの中に、「ヴェニスは沈みつつ、ヴェニスは沈みつつ」と云うところがあったと思いますが、ナオミと二人で船に揺られつつ、沖の方から夕靄の帳を透して陸の灯影を眺めると、不思議にあの文句が胸に浮んで来て、何だかこう、このまま彼女と果てしも知らぬ遠い世界へ押し流されて行きたいような、涙ぐましい、うッとりと酔った心地になるのでした。私のような武骨な男がそんな気分を味わうことが出来ただけでも、あの鎌倉の三日間は決して無駄ではなかったのです。

三、

その時分、私の胸には失望と愛慕と、互に矛盾した二つのものが交る交る鬩ぎ合っていました。自分が選択を誤ったこと、ナオミは自分の期待したほど賢い女ではなかったこと、――もうこの事実はいくら私のひいき眼でも否むに由なく、彼女が他日立派な婦人になるであろうと云うような望みは、今となっては全く夢であったことを悟るようになったのです。やっぱり育ちの悪い者は争われない、千束町の娘にはカフエエの女給が相当なのだ、柄にない教育を授けたところで何にもならない。――私はしみじみそう云うあきらめを抱くようになりました。が、同時に私は、一方に於いてあきらめながら、他の一方ではますます強く彼女の肉体に惹きつけられて行ったのでした。そうです、私は特に『肉体』と云います、なぜならそれは彼女の皮膚や、歯や、唇や、髪や、瞳や、その他あらゆる姿態の美しさであって、決してそこには精神的の何物もなかったのですから。つまり彼女は頭脳の方では私の期待を裏切りながら、肉体の方ではいよいよますます理想通りに、いやそれ以上に、美しさを増して行ったのです。「馬鹿な女」「仕様のない奴だ」と、思えば思うほど尚意地悪くその美しさに誘惑される。これは実に私に取って不幸な事でした。私は次第に彼女を「仕立ててやろう」と云う純な心持を忘れてしまって、寧ろあべこべにずるずる引き摺られるようになり、これではいけないと気が付いた時には、既に自分でもどうする事も出来なくなっていたのでした。

「世の中の事は総べて自分の思い通りに行くものではない。自分はナオミを、精神と肉体と、両方面から美しくしようとした。そして精神の方面では失敗したけれど、肉体の方面では立派に成功したじゃないか。自分は彼女がこの方面でこれほど美しくなろうとは思い設けていなかったのだ。そうして見ればその成功は他の失敗を補って余りあるではないか」
――私は無理にそう云う風に考えて、それで満足するように自分の気持を仕向けて行きました。

「譲治さんはこの頃英語の時間にも、あんまりあたしを馬鹿々々ッて云わないようになったわね」
と、ナオミは早くも私の心の変化を看て取ってそう云いました。学問の方には疎くっても、私の顔色を読むことにかけては彼女は実に敏かったのです。
「ああ、あんまり云うと却ってお前が意地を突ッ張るようになって、結果がよくないと思ったから、方針を変えることにしたのさ」
「ふん」
と、彼女は鼻先で笑って、
「そりゃあそうよ、あんなに無闇に馬鹿々々ッて云われりゃ、あたし決して云う事なんか聴きやしないわ。あたし、ほんとうはね、大概な問題はちゃんと考えられたんだけど、わざと譲治さんを困らしてやろうと思って、出来ないふりをしてやったの、それが譲治さんには分らなかった?」
「へえ、ほんとうかね?」
私はナオミの云うことが空威張りの負け惜しみであるのを知っていながら、故意にそう云って驚いて見せました。
「当り前さ、あんな問題が出来ない奴はありゃしないわ。それを本気で出来ないと思っているんだから、譲治さんの方がよっぽど馬鹿だわ。あたし譲治さんが怒るたんびに、可笑しくッて可笑しくッて仕様がなかったわ」
「呆れたもんだね、すっかり僕を一杯喰わせていたんだね」
「どう? あたしの方が少し悧巧でしょ」
「うん、悧巧だ、ナオミちゃんには敵わないよ」
すると彼女は得意になって、腹を抱えて笑うのでした。

読者諸君よ、ここで私が突然妙な話をし出すのを、どうか笑わないで聞いて下さい。と云うのは、嘗て私は中学校にいた時分、歴史の時間にアントニーとクレオパトラの条を教わったことがあります。諸君も御承知のことでしょうが、あのアントニーがオクタヴィアヌスの軍勢を迎えてナイルの河上で船戦をする、と、アントニーに附いて来たクレオパトラは、味方の形勢が非なりとみるや、忽ち中途から船を返して逃げ出してしまう。然るにアントニーはこの薄情な女王の船が自分を捨てて去るのを見ると、危急存亡の際であるにも拘わらず、戦争などは其方除にして、自分も直ぐに女のあとを追い駆けて行きます。――

「諸君」と、歴史の教師はその時私たちに云いました。
「このアントニーと云う男は女の尻を追っ駆け廻して、命をおとしてしまったので、歴史の上にこのくらい馬鹿を曝した人間はなく、実にどうも、古今無類の物笑いの種であります。英雄豪傑もいやはやこうなってしまっては、………」

その云い方が可笑しかったので、学生たちは教師の顔を眺めながら一度にどっと笑ったものです。そして私も、笑った仲間の一人であったことは云うまでもありません。

が、大切なのはここの処です。私は当時、アントニーともあろう者がどうしてそんな薄情な女に迷ったのか、不思議でなりませんでした。いや、アントニーばかりではない、すぐその前にもジュリアス・シーザーの如き英傑が、クレオパトラに引っかかって器量を下げている。そう云う例はまだその外にいくらでもある。徳川時代のお家騒動や、一国の治乱興廃の跡を尋ねると、必ず蔭に物凄い妖婦の手管がないことはない。ではその手管と云うものは、一旦それに引っかかれば誰でもコロリと欺されるほど、非常に陰険に、巧妙に仕組まれているかと云うのに、どうもそうではないような気がする。クレオパトラがどんなに悧巧な女だったとしたところでまさかシーザーやアントニーより智慧があったとは考えられない。たとい英雄でなくっても、その女に真心があるか、彼女の言葉が嘘かほんとかぐらいなことは、用心すれば洞察出来る筈である。にも拘わらず、現に自分の身を亡ぼすのが分っていながら欺されてしまうと云うのは、余りと云えば腑甲斐ないことだ、事実その通りだったとすると、英雄なんて何もそれほど偉い者ではないかも知れない、私はひそかにそう思って、マーク・アントニーが「古今無類の物笑いの種」であり、「このくらい歴史の上に馬鹿を曝した人間はない」と云う教師の批評を、そのまま肯定したものでした。

私は今でもあの時の教師の言葉を胸に浮かべ、みんなと一緒にゲラゲラ笑った自分の姿を想い出すことがあるのです。そして想い出す度毎に、もう今日では笑う資格がないことをつくづくと感じます。なぜなら私は、どういう訳で羅馬の英雄が馬鹿になったか、アントニーとも云われる者が何故たわいなく妖婦の手管に巻き込まれてしまったか、その心持が現在となってはハッキリ頷けるばかりでなく、それに対して同情をさえ禁じ得ないくらいですから。

よく世間では「女が男を欺す」と云います。しかし私の経験によると、これは決して最初から「欺す」のではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです、惚れた女が出来て見ると、彼女の云うことが嘘であろうと真実であろうと、男の耳には総べて可愛い。たまたま彼女が空涙を流しながら靠れかかって来たりすると、
「ははあ、此奴、この手で己を欺そうとしているな。でもお前は可笑しな奴だ、可愛い奴だ、己にはちゃんとお前の腹は分ってるんだが、折角だから欺されてやるよ。まあまあたんと己をお欺し………」
と、そんな風に男は大腹中に構えて、云わば子供を嬉しがらせるような気持で、わざとその手に乗ってやります。ですから男は女に欺される積りはない。却って女を欺してやっているのだと、そう考えて心の中で笑っています。

その証拠には私とナオミが矢張そうでした。
「あたしの方が譲治さんより悧巧だわね」
と、そう云って、ナオミは私を欺し終せた気になっている。私は自分を間抜け者にして、欺された体を装ってやる。私に取っては浅はかな彼女の嘘を発くよりか、寧ろ彼女を得意がらせ、そうして彼女のよろこぶ顔を見てやった方が、自分もどんなにうれしいか知れない。のみならず私は、そこに自分の良心を満足させる言訳さえも持っていました。と云うのは、たといナオミが悧巧な女でないとしても、悧巧だという自信を持たせるのは悪くないことだ。日本の女の第一の短所は確乎たる自信のない点にある。だから彼等は西洋の女に比べていじけて見える。近代的の美人の資格は、顔だちよりも才気煥発な表情と態度とにあるのだ。よしや自信と云う程でなく、単なる己惚れであってもいいから、「自分は賢い」「自分は美人だ」と思い込むことが、結局その女を美人にさせる。――私はそう云う考でしたから、ナオミの悧巧がる癖を戒しめなかったばかりでなく、却って大いに焚きつけてやりました。常に快く彼女に欺され、彼女の自信をいよいよ強くするように仕向けてやりました。

一例を挙げると、私とナオミとはその頃しばしば兵隊将棋やトランプをして遊びましたが、本気でやれば私の方が勝てる訳だのに、成るべく彼女を勝たせるようにしてやったので、次第に彼女は「勝負事では自分の方がずっと強者だ」と思い上って、
「さあ、譲治さん、一つ捻ってあげるから入らッしゃいよ」
などと、すっかり私を見縊った態度で挑んで来ます。
「ふん、それじゃ一番復讐戦をしてやるかな。――なあに、真面目でかかりゃお前なんかに負けやしないんだが、相手が子供だと思うもんだから、ついつい油断しちまって、――」
「まあいいわよ、勝ってから立派な口をおききなさいよ」
「よし来た! 今度こそほんとに勝ってやるから!」
そう云いながら、私は殊更下手な手を打って相変らず負けてやります。
「どう? 譲治さん、子供に負けて口惜しかないこと?――もう駄目だわよ、何と云ったってあたしに抗やしないわよ。まあ、どうだろう、三十一にもなりながら、大の男がこんな事で十八の子供に負けるなんて、まるで譲治さんはやり方を知らないのよ」
そして彼女は「やっぱり歳よりは頭だわね」とか、「自分の方が馬鹿なんだから、口惜しがったって仕方がないわよ」とか、いよいよ図に乗って、
「ふん」
と、例の鼻の先で生意気そうにせせら笑います。

が、恐ろしいのはこれから来る結果なのです。始めのうちは私がナオミの機嫌を取ってやっている、少くとも私自身はそのつもりでいる。ところがだんだんそれが習慣になるに従って、ナオミは真に強い自信を持つようになり、今度はいくら私が本気で蹈ん張っても、事実彼女に勝てないようになるのです。

人と人との勝ち負けは理智に依ってのみ極るのではなく、そこには「気合い」と云うものがあります。云い換えれば動物電気です。まして賭け事の場合には尚更そうで、ナオミは私と決戦すると、始めから気を呑んでかかり、素晴らしい勢で打ち込んで来るので、此方はジリジリと圧し倒されるようになり、立ち怯れがしてしまうのです。

「ただでやったってつまらないから、幾らか賭けてやりましょうよ」
と、もうしまいにはナオミはすっかり味をしめて、金を賭けなければ勝負をしないようになりました。すると賭ければ賭けるほど、私の負けは嵩んで来ます。ナオミは一文なしの癖に、十銭とか二十銭とか、自分で勝手に単位をきめて、思う存分小遣い銭をせしめます。
「ああ、三十円あるとあの着物が買えるんだけれど。………又トランプで取ってやろうかな」
などと云いながら挑戦して来る。たまには彼女が負けることがありましたけれど、そう云う時には又別の手を知っていて、是非その金が欲しいとなると、どんな真似をしても、勝たずには置きませんでした。
ナオミはいつでもその「手」を用いられるように、勝負の時は大概ゆるやかなガウンのようなものを、わざとぐずぐずにだらしなく纒っていました。そして形勢が悪くなると淫りがわしく居ずまいを崩して、襟をはだけたり、足を突き出したり、それでも駄目だと私の膝へ靠れかかって頬ッぺたを撫でたり、口の端を摘まんでぶるぶると振ったり、ありとあらゆる誘惑を試みました。私は実にこの「手」にかかっては弱りました。就中最後の手段――これはちょっと書く訳に行きませんが、――をとられると、頭の中が何だかもやもやと曇って来て、急に眼の前が暗くなって、勝負のことなぞ何が何やら分らなくなってしまうのです。
「ずるいよ、ナオミちゃん、そんなことをしちゃ、………」
「ずるかないわよ、これだって一つの手だわよ」
ずーんと気が遠くなって、総べての物が霞んで行くような私の眼には、その声と共に満面に媚びを含んだナオミの顔だけがぼんやり見えます。にやにやした、奇妙な笑いを浮べつつあるその顔だけが………
「ずるいよ、ずるいよ、トランプにそんな手があるもんじゃない、………」
「ふん、ない事があるもんか、女と男と勝負事をすりゃ、いろんなおまじないをするもんだわ。あたし余所で見たことがあるわ。子供の時分に、内で姉さんが男の人とお花をする時、傍で見ていたらいろんなおまじないをやってたわ。トランプだってお花とおんなじ事じゃないの。………」

私は思います、アントニーがクレオパトラに征服されたのも、つまりはこう云う風にして、次第に抵抗力を奪われ、円め込まれてしまったのだろうと。愛する女に自信を持たせるのはいいが、その結果として今度は此方が自信を失うようになる。もうそうなっては容易に女の優越感に打ち勝つことは出来なくなります。そして思わぬ禍がそこから生じるようになります。


四、

電車の中でも、私はわざと反対の側に腰かけて、自分の前に居るナオミと云うものを、も一度つくづくと眺める気になりました。全体己はこの女の何処がよくって、こうまで惚れているのだろう? あの鼻かしら? あの眼かしら? と、そう云う風に数え立てると、不思議なことに、いつもあんなに私に対して魅力のある顔が、今夜は実につまらなく、下らないものに思えるのでした。すると私の記憶の底には、自分が始めてこの女に会った時分、――あのダイヤモンド・カフエエの頃のナオミの姿がぼんやり浮かんで来るのでした。が、今に比べるとあの時分はずっと好かった。無邪気で、あどけなくて、内気な、陰鬱なところがあって、こんなガサツな、生意気な女とは似ても似つかないものだった。己はあの頃のナオミに惚れたので、それの惰勢が今日まで続いて来たのだけれど、考えて見れば知らない間に、この女は随分たまらないイヤな奴になっているのだ。あの「悧巧な女は私でござい」と云わんばかりに、チンと済まして腰かけている恰好はどうだ、「天下の美人は私です」というような、「私ほどハイカラな、西洋人臭い女は居なかろう」と云いたげな、あの傲然とした面つきはどうだ。あれで英語の「え」の字もしゃべれず、パッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイスの区別さえも分らないとは、誰も知るまいが己だけはちゃんと知っているのだ。………

私はこっそり頭の中で、こんな悪罵を浴びせて見ました。彼女は少し反り身になって、顔を仰向けにしているので、ちょうど私の座席からは、彼女が最も西洋人臭さを誇っているところの獅子ッ鼻の孔が、黒々と覗けました。そして、その洞穴の左右には分厚い小鼻の肉がありました。思えば私は、この鼻の孔とは朝夕深い馴染なのです。毎晩々々、私がこの女を抱いてやるとき、常にこう云う角度からこの洞穴を覗き込み、ついこの間もしたようにその洟をかんでやり、小鼻の周りを愛撫してやり、又或る時は自分の鼻とこの鼻とを、楔のように喰い違わせたりするのですから、つまりこの鼻は、――この、女の顔のまん中に附着している小さな肉の塊は、まるで私の体の一部も同じことで、決して他人の物のようには思えません。が、そう云う感じを以て見ると、一層それが憎らしく汚らしくなって来るのでした。よく、腹が減った時なぞにまずい物を夢中でムシャムシャ喰うことがある、だんだん腹が膨れて来るに随って、急に今まで詰め込んだ物のまずさ加減に気がつくや否や、一度に胸がムカムカし出して吐きそうになる、――まあ云って見れば、それに似通った心地でしょうが、今夜も相変らずこの鼻を相手に、顔を突き合わせて寝ることを想像すると、「もうこの御馳走は沢山だ」と云いたいような、何だかモタレて来てゲンナリしたようになるのでした。

「これもやっぱり親の罰だ。親を欺して面白い目を見ようとしたって、ロクな事はありゃしないんだ」
と、私はそんな風に考えました。

しかし読者よ、これで私がすっかりナオミに飽きが来たのだと、推測されては困るのです。いや、私自身も今までこんな覚えはないので、一時はそうかと思ったくらいでしたけれど、さて大森の家へ帰って、二人きりになって見ると、電車の中のあの「満腹」の心は次第に何処かへすッ飛んでしまって、再びナオミのあらゆる部分が、眼でも鼻でも手でも足でも、蠱惑に充ちて来るようになり、そしてそれらの一つ一つが、私に取って味わい尽せぬ無上の物になるのでした。

私はその後、始終ナオミとダンスに行くようになりましたが、その度毎に彼女の欠点が鼻につくので、帰り途にはきっと厭な気持になる。が、いつでもそれが長続きしたことはなく、彼女に対する愛憎の念は一と晩のうちに幾回でも、猫の眼のように変りました。

五、

私はここで、男と云うものの浅ましさを白状しなければなりませんが、昼間はとにかく、夜の場合になって来ると私はいつも彼女に負けました。私が負けたと云うよりは、私の中にある獣性が彼女に征服されました。事実を云えば私は彼女をまだまだ信じる気にはなれない、にも拘わらず私の獣性は盲目的に彼女に降伏することを強い、総べてを捨てて妥協するようにさせてしまいます。つまりナオミは私に取って、最早や貴い宝でもなく、有難い偶像でもなくなった代り、一箇の娼婦となった訳です。そこには恋人としての清さも、夫婦としての情愛もない。そうそんなものは昔の夢と消えてしまった! それならどうしてこんな不貞な、汚れた女に未練を残しているのかと云うと、全く彼女の肉体の魅力、ただそれだけに引き摺られつつあったのです。これはナオミの堕落であって、同時に私の堕落でもありました。なぜなら私は、男子としての節操、潔癖、純情を捨て、過去の誇りを抛ってしまって、娼婦の前に身を屈しながら、それを耻とも思わないようになったのですから。いや時としてはその卑しむべき娼婦の姿を、さながら女神を打ち仰ぐように崇拝さえもしたのですから。

ナオミは私のこの弱点を面の憎いほど知り抜いていました。自分の肉体が男にとっては抵抗し難い蠱惑であること、夜にさえなれば男を打ち負かしてしまえること、――こう云う意識を持ち始めた彼女は、昼間は不思議なくらい不愛想な態度を示しました。自分はここにいる一人の男に自分の「女」を売っているのだ、それ以外には何もこの男に興味もなければ因縁もない、と、そんな様子をありありと見せて、あたかも路傍の人のようにむうッとそっけなく済まし込んで、たまに私が話しかけてもろくすッぽう返辞もしません。是非必要な場合にだけ「はい」とか「いいえ」とか答えるだけです。こういう彼女のやり方は、私に対して消極的に反抗している心を現わし、私を極度に侮蔑する意を示そうとするものであるとしか、私には思えませんでした。「譲治さん、あたしがいくら冷淡だって、あなたは怒る権利はないわよ。あなたはあたしから取れる物だけ取っているんじゃありませんか。それであなたは満足しているじゃありませんか」――私は彼女の前へ出ると、そう云う眼つきで睨まれているような気がしました。そしてその眼は動ともすると、
「ふん、何と云うイヤな奴だろう。まるで此奴は犬みたようにさもしい男だ。仕方がないから我慢してやっているんだけれど」
と、そんな表情をムキ出しにして見せるのでした。


六、

彼女の俥が行ってしまうと、私はどう云う積りだったか直ぐに懐中時計を出して、時間を見ました。ちょうど午後零時三十六分、………ああそうか、さっき彼女が曙楼を出て来たのが十一時、それからあんな大喧嘩をしてあッと云う間に形勢が変り、今まで此処に立っていた彼女がもう居なくなってしまったんだ。その間が僅かに一時間と三十六分。………人は屡〻、看護していた病人が最後の息を引き取る時とか、又は大地震に出っ会した時とかに、覚えず知らず時計を見る癖があるものですが、私がその時ふいと時計を出して見たのも大方それに似たような気持だったでしょう。大正某年十一月某日午後零時三十六分、――自分はこの日のこの時刻に、遂にナオミと別れてしまった。自分と彼女との関係は、この時を以て或は終焉を告げるかも知れない。………

「先ずほッとした! 重荷が下りた!」
何しろ私はこの間じゅうの暗闘に疲れ切っていた際だったので、そう思うと同時にぐったり椅子に腰かけたままぼんやりしてしまいました。咄嗟の感じは、「ああ有難い、やっとのことで解放された」と云うような、せいせいとした気分でした。それと云うのが私は単に精神的に疲労していたばかりでなく、生理的にも疲労していたので、一度ゆっくり休養したいと云うことは、寧ろ私の肉体の方が痛切に要求していたのです。たとえばナオミと云うものは非常に強い酒であって、あまりその酒を飲み過ぎると体に毒だと知りながら、毎日々々、その芳醇な香気を嗅がされ、なみなみと盛った杯を見せられては、矢張私は飲まずにはいられない。飲むに随って次第に酒毒が体の節々へ及ぼして来て、ひだるく、ものうく、後頭部が鉛のようにどんより重く、ふいと立ち上ると眩暈がしそうで、仰向けさまにうしろへ打っ倒れそうになる。そしていつでも二日酔いのような心地で、胃が悪く、記憶力が衰え、すべての事に興味がなくなり、病人か何ぞのように元気がない。頭のなかには奇妙なナオミの幻ばかりが浮かんで来て、それが時々おくびのように胸をむかつかせ、彼女の臭いや、汗や、脂が、始終むうッと鼻についている。で、「見れば眼の毒」のナオミが居なくなったことは、入梅の空が一時にからッと晴れたような工合でした。

が、今も云うようにそれは全く咄嗟の感じで、正直のところ、そのせいせいした心持が続いたのは、一時間ぐらいなものだったでしょう。まさか私の肉体がいくら頑健だからと云って、ほんの一時間やそこらの間に疲労が恢復し切った訳でもありますまいが、椅子に腰かけてほっと一と息ついたかと思うと、間もなく胸に浮かんで来たのは、さっきのナオミの、あの喧嘩をした時の異常に凄い容貌でした。「男の憎しみがかかればかかる程美しくなる」と云った、あの一刹那の彼女の顔でした。それは私が刺し殺しても飽き足りないほど憎い憎い淫婦の相で、頭の中へ永久に焼きつけられてしまったまま、消そうとしてもいっかな消えずにいたのでしたが、どう云う訳か時間が立つに随っていよいよハッキリと眼の前に現れ、未だにじーいッと瞳を据えて私の方を睨んでいるように感ぜられ、しかもだんだんその憎らしさが底の知れない美しさに変って行くのでした。考えて見ると彼女の顔にあんな妖艶な表情が溢れたところを、私は今日まで一度も見たことがありません。疑いもなくそれは「邪悪の化身」であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚された姿なのです。私はさっきも、あの喧嘩の真っ最中に覚えずその美に撲たれたのみならず、「ああ美しい」と心の中で叫んだのでありながら、どうしてあの時彼女の足下に跪いてしまわなかったか。いつも優柔で意気地なしの私が、いかに憤激していたとは云えあの恐ろしい女神に向って、どうしてあれほどの面罵を浴びせ、手を振り上げることが出来たか。自分のどこからそんな無鉄砲な勇気が出たか。――それが私には今更不思議なように思われ、その無鉄砲と勇気とを恨むような心持さえ、次第に湧き上って来るのでした。

「お前は馬鹿だぞ、大変なことをしちまったんだぞ。ちっとやそっとの不都合があっても、それと『あの顔』と引き換えになると思っているのか。あれだけの美はこの後決して、二度と世間にありはしないぞ」
私は誰かにそう云われているような気がし始め、ああ、そうだった、自分は実につまらないことをしてしまった。彼女を怒らせないようにと、あんなに不断から用心していながら、こういう結末になったというのは魔がさしたのに違いないんだと、そんな考が何処からともなく頭を擡げて来るのでした。

たった一時間前まではあれほど彼女を荷厄介にし、その存在を呪った私が、今は反対に自分を呪い、その軽率を悔いるようになったと云うのは? あんなに憎らしかった女が、こんなにも恋しくなって来るとは? この急激な心の変化は私自身にも説明の出来ないことで、恐らく恋の神様ばかりが知っている謎でありましょう。私はいつの間にか立ち上って、部屋を往ったり来たりしながら、どうしたらこの恋慕の情を癒やすことが出来るだろうかと、長い間考えました。と、どう考えても癒やす方法は見付からないで、ただただ彼女の美しかったことばかりが想い出される。過去五年間の共同生活の場面々々が、ああ、あの時にはこう云った、あんな顔をした、あんな眼をしたと云う風に、後から後からと浮かんで来て、それが一々未練の種でないものはない。殊に私の忘れられないのは、彼女が十五六の娘の時分、毎晩私が西洋風呂へ入れてやって体を洗ってやったこと。それから私が馬になって彼女を背中へ乗せながら、「ハイハイ、ドウドウ」と部屋の中を這い廻って遊んだこと。――どうしてそんな下らない事がそんなにまでも懐かしいのか、実に馬鹿げていましたけれど、若しも彼女がこの後もう一度私の所へ帰って来てくれたら、私は何より真っ先にあの時の遊戯をやって見よう。再び彼女を背中の上へ跨がらせて、この部屋の中を這って見よう。それが出来たら己はどんなに嬉しいか知れないと、まるでその事をこの上もない幸福のように空想したりするのでした。いや、単に空想したばかりでなく、私は彼女が恋しさの余り、思わず床に四つ這いになって、今も彼女の体が背中へぐッとのしかかってでもいるかのように、部屋をグルグル廻ってみました。それから私は、――此処に書くのも耻かしい事の限りですが、――二階へ行って、彼女の古着を引っ張り出してそれを何枚も背中に載せ、彼女の足袋を両手に篏めて、又その部屋を四つン這いになって歩きました。

この物語を最初から読んでおられる読者は、多分覚えておられるでしょうが、私は「ナオミの成長」と題する一冊の記念帖を持っていました。それは私が彼女を風呂へ入れてやって、体を洗ってやっていた頃、彼女の四肢が日増しに発達する様を委しく記して置いたもので、つまり少女としてのナオミがだんだん大人になるところを、――ただそればかりを専門のように書き止めて行った一種の日記帳でした。私はその日記のところどころに、当時のナオミのいろいろな表情、ありとあらゆる姿態の変化を写真に撮って貼って置いたのを思い出し、せめて彼女を偲ぶよすがに、長い間埃にまみれて突っ込んであったその帳面を、本箱の底から引き摺り出して順々にページをはぐって見ました。それらの写真は私以外の人間には絶対に見せるべきものではないので、自分で現像や焼き付けなどをしたのでしたが、大方水洗いが完全でなかったのでしょう。今ではポツポツそばかすのような斑点が出来、物によってはすっかり時代がついてしまって、まるで古めかしい画像のように朦朧としたものもありましたけれど、そのために却って懐かしさは増すばかりで、もう十年も二十年もの昔のこと、………幼い頃の遠い夢をでも辿るような気がするのでした。そしてそこには、彼女があの時分好んで装ったさまざまな衣裳やなりかたちが、奇抜なものも、軽快なものも、贅沢なものも、滑稽なものも、殆ど剰す所なく写されていました。或るページには天鵞絨の背広服を着て男装した写真がある。次をめくると薄いコットン・ボイルの布を身に纒って、彫像の如く彳立している姿がある。又その次にはきらきら光る繻子の羽織に繻子の着物、幅の狭い帯を胸高に締め、リボンの半襟を着けた様子が現れて来る。それから種々雑多な表情動作や活動女優の真似事の数々、――メリー・ピクフォードの笑顔だの、グロリア・スワンソンの眸だの、ポーラ・ネグリの猛り立ったところだの、ビーブ・ダニエルの乙に気取ったところだの、憤然たるもの、嫣然たるもの、竦然たるもの、恍惚たるもの、見るに随って彼女の顔や体のこなしは一々変化し、いかに彼女がそう云うことに敏感であり、器用であり、怜悧であったかを語らないものとてはないのでした。

「ああ飛んでもない! 己はほんとに大変な女を逃がしてしまった」
私は心も狂おしくなり、口惜しまぎれに地団太を蹈み、なおも日記を繰って行くと、まだまだ写真が幾色となく出て来ました。その撮り方はだんだん微に入り、細を穿って、部分々々を大映しにして、鼻の形、眼の形、唇の形、指の形、腕の曲線、肩の曲線、背筋の曲線、脚の曲線、手頸、足頸、肘、膝頭、足の蹠までも写してあり、さながら希臘の彫刻か奈良の仏像か何かを扱うようにしてあるのです。ここに至ってナオミの体は全く芸術品となり、私の眼には実際奈良の仏像以上に完璧なものであるかと思われ、それをしみじみ眺めていると、宗教的な感激さえが湧いて来るようになるのでした。ああ、私は一体どう云う積りでこんな精密な写真を撮って置いたのでしょうか? これがいつかは悲しい記念になると云うことを、予覚してでもいたのでしょうか?

私のナオミを恋うる心は加速度を以て進みました。もう日が暮れて窓の外には夕の星がまたたき始め、うすら寒くさえなって来ましたが、私は朝の十一時から御飯もたべず、火も起さず、電気をつける気力もなく、暗くなって来る家の中を二階へ行ったり、階下へ降りたり、「馬鹿!」と云いながら自分で自分の頭を打ったり、空家のように森閑としたアトリエの壁に向いながら「ナオミ、ナオミ」と叫んでみたり、果ては彼女の名前を呼び続けつつ床に額を擦りつけたりしました。もうどうしても、どうあろうとも彼女を引き戻さなければならない。己は絶対無条件で彼女の前に降伏する。彼女の云うところ、欲するところ、総べてに己は服従する。


七、

「帰ったら直ぐに使を寄越せ、荷物はみんな渡してやるから」とそう云ってやったのに、未だに誰も来ないと云うのはどうしたんだろう? 着換えの衣類や手周りの物は一と通り持って行ったけれど、彼女の「命から二番目」である晴れ着の衣裳はまだ幾通りも残っている。どうせ彼女はあのむさくろしい千束町に一日燻っている筈はないから、毎日々々、近所隣を驚かすような派手な風俗で出歩くだろう。そうだとすれば尚更衣裳が必要な訳だし、それがなくてはとても辛抱出来ないだろうに。………

けれどもその晩、待てど暮らせどナオミの使は来ませんでした。私はあたりが真っ暗になるまで電燈をつけずに置いたので、若しも空家と間違えられたら大変だと思って、慌てて家じゅうの部屋と云う部屋へ明りを燈し、門の標札が落ちていやしないかと改めて見、戸口のところへ椅子を持って来て何時間となく戸外の足音を聞いていましたが、八時が九時になり、十時になり、十一時になっても、………とうとう朝からまる一日立ってしまっても、何の便りもありません。そして悲観のどん底に落ちた私の胸には、又いろいろな取り止めのない臆測が生じて来るのでした。ナオミが使を寄越さないのは、事に依ったら事件を軽く見ている証拠で、二三日したら解決がつくとたかを括っているんじゃないかな。「なに大丈夫だ、向うはあたしに惚れているんだ、あたしなしには一日も居られやしないんだから、迎いに来るに極まっている」と、懸引をしているんじゃないかな。彼女にしたって今まで贅沢に馴れて来たのが、あんな社会の人間の中で暮らせないことは分っているんだ。そうかと云って外の男の所へ行っても、己ほど彼女を大事にしてやり、気随気儘をさせて置く者はありゃしないんだ。ナオミの奴はそんなことは百も承知で、口では強がりを云いながら、迎いに来るのを心待ちにしているんじゃないかな。それとも明日の朝あたりでも、姉か兄貴がいよいよ仲裁にやって来るかな。夜が忙しい商売だから、朝でなければ出られない事情があるかも知れない。何しろ使が来ないと云うのは却って一縷の望みがあるんだ。明日になっても音沙汰がなければ、己は迎いに行ってやろう。もうこうなれば意地も外聞もあるもんじゃない、もともと己はその意地でもって失策ったんだ。実家の奴等に笑われようと、彼女に内兜を見透かされようと、出かけて行って平詫りに詫まって、姉や兄貴にも口添えを頼んで、「後生一生のお願いだから帰っておくれ」と、百万遍も繰り返す。そうすれば彼女も顔が立って、大手を振って戻って来られよう。

私は殆どまんじりともしないで一と夜を明かし、明くる日の午後六時頃まで待ちましたけれど、それでも何の沙汰もないので、もうたまりかねて家を飛び出し、急いで浅草へ駈け付けました。一刻も早く彼女に会いたい、顔さえ見れば安心する!――恋い焦がれるとはその時の私を云うのでしょう、私の胸には「会いたい見たい」の願いより外何物もありませんでした。

花屋敷のうしろの方の、入り組んだ路次の中にある千束町の家へ着いたのは大方七時頃でしたろう。さすがに極まりが悪いので私はそっと格子をあけ、
「あの、大森から来たんですが、ナオミは参っておりましょうか?」
と、土間に立ったまま小声で云いました。
「おや、河合さん」
と、姉は私の言葉を聞きつけて次の間の方から首を出しましたが、怪訝そうな顔つきをして云うのでした。
「へえ、ナオミちゃんが?――いいえ、参ってはおりませんが」
「そりゃ可笑しいな、来ていない筈はないんですがな、昨夜此方へ伺うと云って出たんですから。………」


八、

私がこう云う孤独と共に失恋に苦しめられている際に、又もう一つ悲しい事件が起りました。と云うのは外でもなく、郷里の母が脳溢血で突然逝ってしまったことです。

危篤だと云う電報が来たのは、浜田に会った翌々日の朝のことで、私はそれを会社で受け取ると、すぐその足で上野へ駈けつけ、日の暮れ方に田舎の家へ着きましたが、もうその時は、母は意識を失っていて、私を見ても分らないらしく、それから二三時間の後に息を引き取ってしまいました。

幼い折に父を失い、母の手一つで育った私は、「親を失う悲しみ」と云うものを始めて経験した訳です。況んや母と私の仲は世間普通の親子以上であったのですから。私は過去を回想しても、自分が母に反抗したことや、母が私を叱ったことや、そう云う記憶を何一つとして持っていません。それは私が彼女を尊敬していたせいもあるでしょうが、寧ろそれより、母が非常に思いやりがあり、慈愛に富んでいたからです。よく世間では、息子がだんだん大きくなり、郷里を捨てて都会へ出るようになってしまうと、親は何かと心配したり、その子の素行を疑ったり、或はそれが原因で疎遠になったりするものですが、私の母は、私が東京へ行ってから後も、私を信じ、私の心持を理解し、私の為めを思ってくれました。私の下に二人の妹があるだけで、総領息子を手放すことは、女親としては淋しくもあり心細くもあったでしょうに、母は一度も愚痴をこぼしたことはなく、常に私の立身出世を祈っていました。それ故私は、彼女の膝下にいた時よりも遠く離れてしまった時に、一層強く、彼女の慈愛のいかに深いかを感じたものです。殊にナオミとの結婚前後、それに引き続いていろいろの我が儘を、母が快く聴いてくれる度毎に、その温情を涙ぐましく思わないことはなかったのです。

その母親にこうも急激に、思いがけなく死なれた私は、亡骸の傍に侍りながら夢に夢見る心地でした。つい昨日まではナオミの色香に身も魂も狂っていた私、そして今では仏の前に跪いて線香を手向けている私、この二つの「私」の世界は、どう考えても連絡がないような気がしました。昨日の私がほんとうの私か、今日の私がほんとうの私か?――嘆き、悲しみ、愕きの涙に暮れつつも、自分で自分を省ると、何処からともなくそう云う声が聞えます。「お前の母が今死んだのは、偶然ではないのだ。母はお前を戒めるのだ、教訓を垂れて下すったのだ」と、又一方からそんな囁きも聞えて来ます。すると私は、今更のように在りし日の母の俤を偲び、済まない事をしたのを感じて、再び悔恨の涙が堰きあえず、あまり泣くので極まりが悪いので、そっとうしろの裏山へ登って、少年時代の思い出に充ちた森や、野路や、畑の景色を瞰おろしながら、そこでさめざめと泣きつづけたりするのでした。

この大いなる悲しみが、何か私を玲瓏たるものに浄化してくれ、心と体に堆積していた不潔な分子を、洗い清めてくれたことは云うまでもありません。この悲しみがなかったなら、私は或は、まだ今頃はあの汚らわしい淫婦のことが忘れられず、失恋の痛手に悩んでいたでしょう。それを思うと母が死んだのは矢張無意義ではないのでした。いや、少くとも、私はその死を無意義にしてはならないのでした。で、その時の私の考では、自分は最早や都会の空気が厭になった、立身出世と云うけれども、東京に出て唯徒らに軽佻浮華な生活をするのが立身でもなし、出世でもない。自分のような田舎者には結局田舎が適しているのだ。自分はこのまま国に引っ込んで、故郷の土に親しもう。そして母親の墓守をしながら、村の人々を相手にして、先祖代々の百姓になろう。と、そんな気持にさえなったのですが、叔父や、妹や、親類の人々の意見では、「それもあんまり急な話だ、今お前さんが力を落すのも無理はないが、さればと云って男一匹が、母の死のために大事な未来をむざむざ埋めてしまうでもなかろう。誰でも親に死に別れると一時は失望するものだけれど、月日が立てばその悲しみも薄らいで来る。だからお前さんも、そうするならばそうするで、もっとゆっくり考えてからにしたらよかろう。それに第一、突然罷めてしまったんでは会社の方へも悪いだろうから」と云うのでした。私は「実はそれだけではない、まだみんなに云わなかったが、女房の奴に逃げられてしまって、………」と、つい口もとまで出ましたけれど、大勢の前で耻かしくもあり、ごたごたしている最中なので、それは云わずにしまいました。(ナオミが田舎へ顔を見せないことに就いては、病気だと云って取り繕って置いたのです)そして初七日の法要が済むと、後々の事は、私の代理人として財産を管理していてくれた叔父夫婦に頼み、とにかくみんなの云う言を聴いて一と先ず東京へ出て来ました。

が、会社へ行っても一向面白くありません。それに社内での私の気受けも、前ほど良くありません。精励恪勤、品行方正で「君子」の仇名を取った私も、ナオミのことですっかり味噌を附けてしまって、重役にも同僚にも信用がなく、甚だしきは今度の母の死去に就いても、それを口実に休むのだろうと、冷やかす者さえあるのでした。そんなこんなで私は愈〻イヤ気がさして、二七日の日に一と晩泊りで帰省した折、「そのうち会社を罷めるかも知れない」と、叔父に洩らしたくらいでした。叔父は「まあまあ」と云って、深くも取り上げてくれないので、又明くる日から渋々会社へ出ましたけれど、会社にいる間はまだいいとして、夕方から夜の時間が、どうにも私には過しようがありません。それと云うのが、田舎へ引っ込むか、断然東京に蹈み止まるか、その決心がつきませんから、私は未だに下宿住まいをするのでもなく、ガランとした大森の家に独りで寝泊りをしていたのです。

会社が済むと、私は矢張ナオミに遇うのが厭でしたから、賑やかな場所は避けるようにし、京浜電車で真っ直ぐ大森へ帰ります。そして近所の一品料理か、そばかうどんで型ばかりの晩飯をたべると、もうそれからは何もする事がありません。仕方がないから寝室へ上って布団を被ってしまいますが、そのまますやすや寝られることはめったになく、二時間も三時間も眼が冴えています。寝室と云うのは、例の屋根裏の部屋のことで、そこには今でも彼女の荷物が置いてあり、過去五年間の不秩序、放埓、荒色の匂が、壁にも柱にも滲み着いています。その匂とはつまり彼女の肌の臭で、不精な彼女は汚れ物などを洗濯もせずに、丸めて突っ込んで置くものですから、それが今では風通しの悪い室内に籠ってしまっているのです。私はこれではたまらないと思って、後にはアトリエのソオファに寝ましたが、そこでも容易に寝つかれないことは同じでした。

母が死んでから三週間過ぎて、その年の十二月に這入ってから、私は遂に辞職の決心を固めました。そして会社の都合上、今年一杯で罷めると云うことに極まりました。尤もこれは誰にも予め相談をせず、独りで運んでしまったので、国の方ではまだ知らないでいたのですが、そうなって見ると後一と月の辛抱ですから、私は少し落ち着きました。いくらか心にも余裕が出来、暇な時には読書するとか、散歩するとかしましたけれど、しかしそれでも危険区域には、決して近寄りませんでした。或る晩あまり退屈なので品川の方まで歩いて行った時、時間つぶしに松之助の映画を見る気になって活動小屋に這入ったところが、ちょうどロイドの喜劇を映していて、若い亜米利加の女優たちが現れて来ると、矢張いろいろ考え出されてイケませんでした。「もう西洋の活動写真は見ないことだ」と、私はその時思いました。


九、

すると、十二月の半ばの、或る日曜の朝でした。私が二階に寝ていると、(私はその頃、アトリエでは寒くなって来たので再び屋根裏へ引っ越していました)階下で何かがさがさと云う物音がして、人のけはいがするのです。ハテ、おかしいな、表は戸締まりがしてある筈だが、………と、そう思っているうちに、やがて聞き覚えのある足音がして、それがずかずか階段を上って、私が胸をヒヤリとさせる暇もなく、
「今日はア」
と、晴れやかな声で云いながら、いきなり鼻先のドーアを開けて、ナオミが私の眼の前に立ちました。
「今日はア」
と、彼女はもう一度そう云って、キョトンとした顔で私を見ました。
「何しに来た?」
私は寝床から起きようともしないで、静かに、冷淡にそう云いました。よくもずうずうしく来られたものだと心のうちでは呆れながら。――
「あたし?――荷物を取りに来たのよ」
「荷物は持って行ってもいいが、お前、何処から這入って来たんだ」
「表の戸から。――あたしン所に鍵があったの」
「じゃあその鍵を置いて行っておくれ」
「ええ、置いて行くわ」

それから私は、ぐるりと彼女に背中を向けて黙っていました。暫くの間、彼女は私の枕もとでばたンばたン云わせながら、風呂敷包みを拵えているのでしたが、そのうちにきゅッと帯を解くような音がしたので、気が付いて見ると、彼女は部屋の隅の方の、しかも私の視線の届く場所へやって来て、後向きになって、着物を着換えているのです。私はさっき、彼女が此処へ這入って来た時、早くも彼女の服装に注意したのですが、それは見覚えのない銘仙の衣類で、しかも毎日そればかり着ていたものか、襟垢が附いて、膝が出て、よれよれになっているのでした。彼女は帯を解いてしまうと、その薄汚い銘仙を脱いで、これも汚いメリンスの長襦袢一つになりました。それから、今引き出した金紗縮緬の長襦袢を取って、それをふわりと肩に纒って、体中をもくもくさせながら、下に着ていたメリンスの方を、するすると殻を脱ぐように畳の上へ落します。そしてその上へ、好きな衣裳の一つであった亀甲絣の大島を着て、紅と白との市松格子の伊達巻を巻いてぎゅうッと胴がくびれるくらい固く緊め上げ、今度は帯の番かと思うと、私の方を向き直って、そこにしゃがんで、足袋を穿き換えるのでした。

私は何より、彼女の素足を見せられるのが一番強い誘惑なので、成るべく其方を見ないようにはしましたけれど、それでもちょいちょい眼を向けないではいられませんでした。彼女も無論それを意識してやっているので、わざとその足を鰭のようにくねくねさせながら、時々探りを入れるように、私の眼つきにそっと注意を配りました。が、穿き換えてしまうと、脱ぎ捨てた着物をさっさと始末して、
「さよならア」
と云いながら、戸口の方へ風呂敷包みを引き摺って行きました。
「おい、鍵を置いて行かないか」
と、私はその時始めて声をかけました。
「あ、そうそう」
と彼女は云って、手提袋から鍵を出して、
「じゃ、此処へ置いて行くわよ。――だけどもあたし、とても一遍じゃ荷物が運びきれないから、もう一度来るかも知れないわよ」
「来ないでもいい、己の方から浅草の家へ届けてやるから」
「浅草へ届けられちゃ困るわ、少し都合があるんだから。――」
「そんなら何処へ届けたらいいんだ」
「何処ッてあたし、まだ極まっちゃあいないんだけれど、………」
「今月中に取りに来なけりゃ、己は構わず浅草の方へ届けるからな、――そういつまでもお前の物を置いとく訳には行かないんだから」
「ええ、いいわ、直き取りに来るわ」
「それから、断って置くけれど、一遍で運びきれるように車でも持って、使の者を寄越しておくれ、お前自身で取りに来ないで」
「そう、――じゃ、そうします」
そして彼女は出て行きました。

これで安心と思っていると、二三日過ぎた晩の九時頃、私がアトリエで夕刊を読んでいる時、又ガタリと云う音がして、表のドーアへ誰かが鍵を挿し込みました。
「誰?」
「あたしよ」
云うと同時にバタンと戸が開いて、黒い、大きな、熊のような物体が戸外の闇から部屋へ闖入して来ましたが、忽ちぱッとその黒い物を脱ぎ捨てると、今度は狐のように白い肩だの腕だのを露わにした、うすい水色の仏蘭西ちりめんのドレスを纒った、一人の見馴れない若い西洋の婦人でした。肉づきのいい項には虹のようにギラギラ光る水晶の頸飾りをして、眼深に被った黒天鵞絨の帽子の下には、一種神秘な感じがするほど恐ろしく白い鼻の尖端と頤の先が見え、生々しい朱の色をした唇が際立っていました。

「今晩はア」
と、そう云う声がして、その西洋人が帽子を取った時、私は始めて「おや、この女は?――」とそう思い、それからしみじみ顔を眺めているうちに、漸く彼女がナオミであることに気がつきました。こう云うと不思議なようですけれども、事実それほどナオミの姿はいつもと変っていたのです。いや、姿だけならいくら変っても見違える筈はありませんが、何よりも先ず私の瞳を欺いたものはその顔でした。どう云う魔法を施したものか、顔がすっかり、皮膚の色から、眼の表情から、輪廓までが変っているので、私はその声を聞かなかったら、帽子を脱いだ今になっても、まだこの女は何処かの知らない西洋人だと思っていたかも分りません。次には前にも云う通り、その肌の色の恐ろしい白さです。洋服の外へはみ出している豊かな肉体のあらゆる部分が、林檎の実のように白いことです。ナオミも日本の女としては黒い方ではありませんでしたが、しかしこんなに白い筈はない。現に殆ど肩の方まで露出している両腕を見ると、それがどうしても日本人の腕とは信じられない。いつぞや帝劇でバンドマンのオペラがあった時、私は若い西洋の女優の腕の白さに見惚れたことがありましたっけが、ちょうどこの腕があれに似ている、いや、あれよりも白いくらいな感じでした。するとナオミは、その水色の柔かい衣と頸飾りとをゆらりとさせて、踵の高い、新ダイヤの石を飾ったパテントレザー靴の爪先でチョコチョコと歩いて、――ああ、これがこの間浜田の話したシンデレラの靴なんだなと、私はその時思いました。――片手を腰にあてて、肘を張って、さも得意そうに胴をひねって奇妙なしなを作りながら、唖然としている私の鼻先へ、いきなり無遠慮に寄って来たものです。
「譲治さん、あたし荷物を取りに来たのよ」
「お前が取りに来ないでもいい、使を寄越せと云ったじゃないか」
「だってあたし、使を頼む人がなかったんだもの」

そう云う間も、ナオミは始終、体をじっとしてはいませんでした。顔はむずかしく、真面目腐った風をしながら、脚をぴたりと喰っ着けて立って見るとか、片足を一歩蹈み出して見るとか、踵でコツンと床板を叩いて見るとか、その度毎に手の位置を換え、肩を聳やかし、全身の筋肉を針線のように緊張させ、総べての部分に運動神経を働かせていました。すると私の視覚神経もそれに従って緊張し出して、彼女の一挙手、一投足、その体中の一寸々々を、残る隈なく看て取らないではいられませんでしたが、よくよくその顔に注意すると、成るほど面変りをしたのも道理、彼女は生え際の髪の毛を、二三寸ぐらいに短く切って、一本々々毛の先を綺麗に揃えて、シナの少女がするように、額の方へ暖簾の如く垂れ下げているのです。そして残りの毛髪を一つに纒めて、円く、平に、顱頂部から耳朶の上へ被らせているのが、大黒様の帽子のようです。これは彼女の今までにない結髪法で、顔の輪廓が別人のようになっているのは、このせいに違いありません。それから尚気を付けて見ると、眉の恰好が又いつもとは異っています。彼女の眉毛は生れつき太く、クッキリとして濃い方であるのに、それが今夜は、細長い、ぼうッと霞んだ弧を描いて、その弧の周囲は青々と剃ってあるのです。これだけの細工がしてあることは直ぐと私に分りましたが、魔法の種が分らないのは、その眼と、唇と、肌の色でした。眼玉がこんなに西洋人臭く見えているのは、眉毛のせいもあろうけれども、まだその外にも何か仕掛けがしてあるらしい。それは大方眼瞼と睫毛だ、あすこに何か秘密があるのだ、と、そうは思っても、それがどう云う仕掛けであるか判然しません。唇なども、上唇の真ん中のところが、ちょうど桜の花弁のように、いやにカッキリと二つに割れていて、しかもその紅さは、普通の口紅をさしたのとは違った、生き生きとした自然のつやがある。肌の白さに至っては、いくら視詰めても全く生地の皮膚のようで、お白・粉らしい痕がありません。それに白いのは顔ばかりでなく、肩から、腕から、指の先までがそうなのですから、もしお白・粉を塗ったとすれば全身へ塗っていなければならない。で、この不可解なえたいの分らぬ妖しい少女、――それはナオミであると云うよりも、ナオミの魂が何かの作用で、或る理想的な美しさを持つ幽霊になったのじゃないかしらん? と、私はそんな気さえしました。

「ねえ、いいでしょう、二階へ荷物を取りに行っても?――」
と、ナオミの幽霊はそう云いました、が、その声を聞くと矢張いつものナオミであって、確かに幽霊ではありません。
「うん、それはいい、………それはいいが、………」
と、私は明かに慌てていたので、少し上ずった口調で云いました。
「………お前、どうして表の戸を開けたんだ?」
「どうしてッて、鍵で開けたわ」
「鍵はこの前、此処へ置いて行ったじゃないか」
「鍵なんかあたし、幾つもあるわよ、一つッきりじゃないことよ」
その時始めて、彼女の紅い唇が突然微笑を浮かべたかと思うと、媚びるような、嘲るような眼つきをしました。
「あたし、今だから云うけれど、合鍵を沢山拵えて置いたの、だから一つぐらい取られたって困りゃしないわ」
「けれども己の方が困るよ、そう度々やって来られちゃ」
「大丈夫よ、荷物さえすっかり運んでしまえば、来いと云ったって来やしないわよ」
そして彼女は、踵でクルリと身を飜して、トン、トン、トンと階段を昇って、屋根裏の部屋へ駈け込みました。………

………それから一体、何分ぐらい立ったでしょうか? 私がアトリエのソオファに靠れて、彼女が二階から降りて来るのをぼんやり待っていた間、………それは五分とは立たない程の間だったか、或は半時間、一時間ぐらいもそうしていたのか?………私にはどうもこの間の「時の長さ」と云うものがハッキリしません。私の胸にはただ今夜のナオミの姿が、或る美しい音楽を聴いた後のように、恍惚とした快感となって尾を曳いているだけでした。その音楽は非常に高い、非常に浄らかな、この世の外の聖なる境から響いて来るようなソプラノの唄です。もうそうなると情慾もなく恋愛もありません、………私の心に感じたものは、そう云うものとは凡そ最も縁の遠い漂渺とした陶酔でした。私は幾度も考えて見ましたが、今夜のナオミは、あの汚らわしい淫婦のナオミ、多くの男にヒドイ仇名を附けられている売春婦にも等しいナオミとは、全く両立し難いところの、そして私のような男はただその前に跪き、崇拝するより以上のことは出来ないところの、貴い憧れの的でした。もしも彼女の、あの真白な指の先がちょっとでも私に触れたとしたら、私はそれを喜ぶどころか寧ろ戦慄するでしょう。この心持は何に譬えたら読者に了解して貰えるか、――まあ云って見れば、田舎の親父が東京へ出て、或る日偶然、幼い折に家出をした自分の娘と往来で遇う。が、娘は立派な都会の婦人になってしまって、穢い田舎の百姓を見ても自分の親だとは気が付かず、親父の方ではそれと気が付いても、今では身分が違うために傍へも寄れない、これが自分の娘だったかと驚き呆れて、耻かしさの余りコソコソ逃げて行ってしまう。――その時の親父の、淋しいような、有難いような心持。それでなければ許嫁の女に捨てられた男が、五年も十年も立ってから、或る日横浜の埠頭に立つと、そこに一艘の商船が着いて、帰朝者の群が降りて来る。そして図らずもその群の中から彼女を見出す。さては彼女は洋行をして帰って来たのかとそう思っても、男は最早や彼女に近づく勇気もない。自分は昔に変らない一介の貧書生、女はと見れば野暮臭い娘時代の俤はなく、巴里の生活、紐育の贅沢に馴れたハイカラな婦人、二人の間には既に千里の差が出来ている。――その時の書生の、捨てられた自分を我と我が身で蔑むような、思いの外な彼女の出世をせめても己れの喜びとする心持。――こう云ってみても、矢張十分に説き尽してはいませんけれども、強いて譬えればそう云ったようなものでしょうか。とにかく今までのナオミには、いくら拭っても拭いきれない過去の汚点がその肉体に滲み着いていた。然るに今夜のナオミを見るとそれらの汚点は天使のような純白な肌に消されてしまって、思い出すさえ忌まわしいような気がしたものが、今はあべこべに、その指先に触れるだけでも勿体ないような感じがする。――これは一体夢でしょうか? そうでなければナオミはどうして、何処からそんな魔法を授かり、妖術を覚えて来たのでしょうか? 二三日前にはあの薄汚い銘仙の着物を着ていた彼女が、………

トン、トン、トンと、再び威勢よく階段を降りる足音がして、その新ダイヤの靴の爪先が私の眼の前で止まりました。
「譲治さん、二三日うちに又来るわよ」
と、彼女は云うのです。………眼の前に立ってはいますけれども、顔と顔とは三尺ほどの間隔を保ち、風のように軽い衣の裾をも決して私に触れようとはしないで、………
「今夜はちょっと本を二三冊取りに来ただけなの。まさかあたしが、大きな荷物を一度に背負って行かれやしないわ。おまけにこんななりをしていて」
私の鼻は、その時何処かで嗅いだことのあるほのかな匂を感じました。ああこの匂、………海の彼方の国々や、世にも妙なる異国の花園を想い出させるような匂、………これはいつぞや、ダンスの教授のシュレムスカヤ伯爵夫人、………あの人の肌から匂った匂だ。ナオミはあれと同じ香水を着けているのだ。………
私はナオミが何と云っても、ただ「うんうん」と頷いただけでした。彼女の姿が再び夜の闇に消えてしまっても、まだ部屋の中に漂いつつ次第にうすれて行く匂を、幻を趁うように鋭い嗅覚で趁いかけながら。………


十、

私とナオミとは、あれから直きに馴れ馴れしく口を利くようにはなりました。と云うのは、あの明くる晩も、その次の晩も、あれからずっと、ナオミは毎晩何かしら荷物を取りに来ないことはなかったからです。来れば必ず二階へ上って、包みを拵えて降りて来ますが、それもほんの申訳の、縮緬の帛紗へ包まるくらいな細々した物で、
「今夜は何を取りに来たんだい?」
と尋ねて見ても、
「これ? これは何でもないの、ちょっとした物なの」
と、曖昧に答えて、
「あたし、喉が渇いているんだけれど、お茶を一杯飲ましてくれない?」
などと云いながら、私の傍へ腰かけて、二三十分しゃべって行くと云う風でした。
「お前は何処かこの近所にいるのかね?」
と、私は或る晩、彼女とテーブルに向い合って、紅茶を飲みながらそう云ったことがありました。
「なぜそんな事を聞きたがるの?」
「聞いたって差支えないじゃないか」
「だけども、なぜよ。………聞いてどうする積りなのよ」
「どうすると云う積りはないさ、好奇心から聞いて見たのさ。――え、何処にいるんだよ? 己に云ったっていいじゃないか」
「いや、云わないわ」
「なぜ云わない?」
「あたしは何も、譲治さんの好奇心を満足させる義務はないわよ。それほど知りたけりゃあたしの跡をつけていらっしゃい、秘密探偵は譲治さんのお得意だから」
「まさかそれほどにしたくはないがね、――しかしお前のいる所が何処か近所に違いないとは思っているんだ」
「へえ、どうして?」
「だって、毎晩やって来て荷物を運んで行くじゃないか」
「毎晩来るから近所にいると限りゃしないわ、電車もあれば自動車もあるわよ」
「じゃ、わざわざ遠くから出て来るのかい?」
「さあ、どうかしら、――」
そう云って彼女はハグラカシてしまって、
「――毎晩来ちゃあ悪いッて云うの?」
と、巧妙に話頭を転じました。
「悪いと云う訳じゃあないが、………来るなと云っても構わず押しかけて来るんだから、今更どうも仕方がないが、………」
「そりゃあそうよ、あたしは意地が悪いから、来るなと云えば尚来るわよ。――それとも来られるのが恐ろしいの?」
「うん、そりゃ、………いくらか恐ろしくないこともない。………」
すると彼女は、仰向きになって真っ白な頤を見せ、紅い口を一杯に開けて、俄かにきゃッきゃッと笑いこけました。
「でも大丈夫よ、そんな悪い事はしやしないわよ。それよりかもあたし、昔のことは忘れてしまって、これから後もただのお友達として、譲治さんと附き合いたいの。ねえ、いいでしょ? それならちっとも差支えないでしょ?」
「それも何だか、妙なもんだよ」
「何が妙なの? 昔夫婦でいた者が、友達になるのがなぜ可笑しいの? それこそ旧式な、時勢後れの考じゃなくって?――ほんとうにあたし、以前のことなんかこれッぱかしも思っていないのよ。そりゃ今だって、若し譲治さんを誘惑する気なら、此処で直ぐにもそうしてしまうのは訳なしだけれど、あたし誓って、そんな事はきっとしないわ。折角譲治さんが決心したのに、それをグラツカせちゃ気の毒だから。………」
「じゃ、気の毒だと思って憐れんでやるから、友達になれと云う訳かね?」
「何もそう云う意味じゃないわ。譲治さんだって憐れまれたりしないように、シッカリしていればいいじゃないの」
「ところがそれが怪しいんだよ、今シッカリしている積りだが、お前と附き合うとだんだんグラツキ出すかも知れんよ」
「馬鹿ね、譲治さんは。――それじゃ友達になるのはいや?」
「ああ、まあいやだね」
「いやならあたし、誘惑するわよ。――譲治さんの決心を蹈み躪って、滅茶苦茶にしてやるわよ」
ナオミはそう云って、冗談ともつかず、真面目ともつかず、変な眼つきでニヤニヤしました。
「友達として清く附き合うのと、誘惑されて又ヒドイ目に遭わされるのと、孰方がよくって?――あたし今夜は譲治さんを脅迫するのよ」
一体この女は、どんな積りで己と友達になろうと云うのかと、私はその時考えました。彼女が毎晩訪ねて来るのは、単に私をからかうだけの興味ではなく、まだ何かしらもくろみがあるに違いありません。先ず友達になって置いて、それから次第に丸め込んで、自分の方から降参をする形式でなく再び夫婦になろうと云うのか? 彼女の真意がそうであるなら、そんな面倒な策略を弄してくれないでも、私は訳なく同意したでしょう。なぜなら私の胸の中には、彼女と夫婦になれるのであったら決して「いや」とは云えない気持が、もういつの間にかムラムラと燃えていたのですから。
「ねえ、ナオミや、ただの友達になったって無意味じゃないか。そのくらいならいっそ元通り夫婦になってくれないかね」
と、私は時と場合に依っては、自分の方からそう切り出してもいいのでした。けれども今夜のナオミの様子では、私が真面目に心を打ち明けて頼んだところで、手軽に「うん」とは云いそうもない。
「そんなことは真っ平御免よ、ただの友達でなければいやよ」
と、此方の腹が見えたとなると、いよいよ図に乗って茶化すかも知れない。私の折角の心持がそんな扱いを受けるようではつまらないし、それに第一、ナオミの真意が夫婦になると云うのではなく、自分は何処までも自由の立場にいて、いろいろの男を手玉に取ろう、そして私を手玉の一つに加えてやろうと、そう云う魂胆だとすれば、尚更迂濶なことは云えない。現に彼女はその住所をさえハッキリ云わないくらいだから、今でも誰か男があると思わなければならないし、それをそのままずるずるべったりに妻に持ったら、私は又しても憂き目を見るのだ。
そこで私は咄嗟の間に思案をめぐらして、
「では友達になってもいいよ、脅迫されちゃたまらないから」
と、此方もニヤニヤ笑いながらそう云いました。と云うのは、友達として附き合っていれば、追い追い彼女の真意が分って来るだろう。そして彼女にまだ少しでも真面目なところが残っていたら、その時始めて此方の胸を打ち明けて、夫婦になるようにと説きつける機会もあるだろうし、今より有利な条件で妻にすることが出来るでもあろうと、私は私で腹に一物あったからです。
「じゃあ承知してくれたのね?」
ナオミはそう云って、擽ぐったそうに私の顔を覗き込んで、
「だけど譲治さん、ほんとうにただの友達よ」
「ああ、勿論さ」
「イヤらしいことなんか、もうお互に考えないのよ」
「分っているとも。――それでなけりゃ己も困るよ」
「ふん」
と云って、ナオミは例の鼻の先で笑いました。

こんな事があってから後、彼女はますます足繁く出入するようになりました。夕方会社から帰って来ると、
「譲治さん」
と、いきなり彼女が燕のように飛び込んで来て、
「今夜晩飯を御馳走しない? 友達ならばそのくらいの事はしてもいいでしょ」
と、西洋料理を奢らせて、たらふく喰べて帰ったり、そうかと思うと雨の降る晩に遅くやって来て、寝室の戸をトントンと叩いて、
「今晩は、もう寝ちまったの?――寝ちまったらば起きないでもいいわ。あたし今夜は泊る積りでやって来たのよ」
と、勝手に隣りの部屋へ這入って、床を敷いて寝てしまったり、或る時などは朝起きて見ると、彼女がちゃんと泊り込んでいて、ぐうぐう眠っていたりすることもありました。そして彼女は二た言目には、「友達だから仕方がないわよ」と云うのでした。

私はその時分、彼女をつくづく天稟の淫婦であると感じたことがありましたが、それはどう云う点かと云うと、彼女はもともと多情な性質で、多くの男に肌を見せるのを屁とも思わない女でありながら、それだけ又、平素は非常にその肌を秘密にすることを知っていて、たとい僅かな部分をでも、決して無意味に男の眼には触れさせないようにしていたことです。誰にでも許す肌であるものを、不断は秘し隠しに隠そうとする、――これは私に云わせると、確かに淫婦が本能的に自己を保護する心理なのです。なぜなら淫婦の肌と云うものは、彼女に取って何より大切な「売り物」であり、「商品」であるから、場合に依っては貞女が肌を守るよりも、一層厳重にそれを守らねばならない訳で、そうしなければ、「売り物」の値打ちはだんだん下落してしまいます。ナオミは実にこの間の機微を心得ていて、嘗て彼女の夫であった私の前では、尚更その肌を押し包むようにするのでした。が、では絶対に慎しみ深くするのかと云うと、それが必ずしもそうではなく、私がいるとわざと着物を着換えたり、着換える拍子にずるりと襦袢を滑り落して、
「あら」
と云いながら、両手で裸体の肩を隠して隣りの部屋へ逃げ込んだり、一と風呂浴びて帰って来て、鏡台の前で肌を脱ぎかけ、そして始めて気が付いたように、
「あら、譲治さん、そんな所にいちゃいけないわ、彼方へ行ってらっしゃいよ」
と、私を追い立てたりするのでした。

こう云う風にして見せるともなく折々ちらと見せられるナオミの肌の僅かな部分は、たとえば頸の周りとか、肘とか、脛とか、踵とか云う程の、ほんのちょっとした片鱗だけではありましたけれども、彼女の体が前よりも尚つややかに、憎いくらいに美しさを増していることは、私の眼には決して見逃せませんでした。私はしばしば想像の世界で、彼女の全身の衣を剥ぎ取り、その曲線を飽かずに眺め入ることを余儀なくされました。

「譲治さん、何をそんなに見ているの?」
と、彼女は或る時、私の方へ背中を向けて着換えながら云いました。
「お前の体つきを見ているんだよ、何だかこう、先より水々しくなったようだね」
「まあ、いやだ、――レディーの体を見るもんじゃないわよ」
「見やしないけれど、着物の上からでも大概分るさ。先から出ッ臀だったけれど、この頃は又膨れて来たね」
「ええ、膨れたわ、だんだんお臀が大きくなるわ。だけども脚はすっきりして、大根のようじゃなくってよ」
「うん、脚は子供の時分から真っ直ぐだったね。立つとピタリと喰っ着いたけれど、今でもそうかね」
「ええ、喰っ着くわ」
そう云って彼女は、着物で体を囲いながらピンと立って見て、
「ほら、ちゃんと着くわよ」
その時私の頭の中には、何かの写真で覚えのあるロダンの彫刻が浮かびました。
「譲治さん、あなたあたしの体が見たいの?」
「見たければ見せてくれるのかい?」
「そんな訳には行かないわよ、あなたとあたしは友達じゃないの。――さ、着換えてしまうまでちょいと彼方へ行ってらっしゃい」
そして彼女は、私の背中へ叩きつけるようにぴしゃんとドーアを締めました。

こんな調子で、ナオミはいつも私の情慾を募らせるようにばかり仕向ける、そして際どい所までおびき寄せて置きながら、それから先へは厳重な関を設けて、一歩も這入らせないのです。私とナオミとの間にはガラスの壁が立っていて、どんなに接近したように見えても、実は到底踰えることの出来ない隔たりがある。ウッカリ手出しをしようものなら必ずその壁に突き当って、いくら懊れても彼女の肌には触れる訳に行かないのです。時にはナオミはヒョイとその壁を除けそうにするので、「おや、いいのかな」と思ったりしますが、近寄って行けば矢張元通り締まってしまいます。

「譲治さん、あなた好い児ね、一つ接吻して上げるわ」
と、彼女はからかい半分によくそんなことを云ったものです。からかわれるとは知っていながら、彼女が唇を向けて来るので私もそれを吸うようにすると、アワヤと云う時その唇は逃げてしまって、はッと二三寸離れた所から私の口へ息を吹っかけ、
「これが友達の接吻よ」
と、そう云って彼女はニヤリと笑います。

この「友達の接吻」と云う風変りな挨拶の仕方、――女の唇を吸う代りに、息を吸うだけで満足しなければならないところの不思議な接吻、――これはその後習慣のようになってしまって、別れ際などに、
「じゃ左様なら、又来るわよ」
と、彼女が唇をさし向けると、私はその前へ顔を突き出して、あたかも吸入器に向ったようにポカンと口を開きます。その口の中へ彼女がはッと息を吹き込む、私がそれをすうッと深く、眼を潰って、おいしそうに胸の底に嚥み下します。彼女の息は湿り気を帯びて生温かく、人間の肺から出たとは思えない、甘い花のような薫りがします。――彼女は私を迷わせるように、そっと唇へ香水を塗っていたのだそうですが、そう云う仕掛けがしてあることを無論その頃は知りませんでした。――私はこう、彼女のような妖婦になると、内臓までも普通の女と違っているのじゃないか知らん、だから彼女の体内を通って、その口腔に含まれた空気は、こんななまめかしい匂がするのじゃないか知らん、と、よくそう思い思いしました。

私の頭はこうして次第に惑乱され、彼女の思う存分に掻き挘られて行きました。私は今では、正式な結婚でなければ厭だの、手玉に取られるだけでは困るのと、もうそんなことを云っている余裕はなくなりました。いや、正直を云うとこうなることは始めから分っていた筈なので、若しほんとうに彼女の誘惑を恐れるなら、附き合わなければいいものを、彼女の真意を探るためだとか、有利な機会を窺うためだとか云ったのは、自分で自分を欺こうとする口実に過ぎなかったのです。私は誘惑が恐い恐いと云いながら、本音を吐けばその誘惑を心待ちにしていたのです。ところが彼女はいつまで立ってもそのつまらない友達ごッこを繰り返すばかりで、決してそれ以上は誘惑しません。これは彼女がいやが上にも私を懊らす計略だろう、懊らして懊らし抜いて、「時分はよし」と見た頃に突然「友達」の仮面を脱ぎ、得意の魔の手を伸ばすであろう、今に彼女はきっと手を出す、出さないで済ます女ではない、此方はせいぜい彼女の計略に載せられてやって「ちんちん」と云えば「ちんちん」をする、「お預け」と云えば「お預け」をする、何でも彼女の注文通りに芸当をやっていれば、しまいには獲物に有りつけるだろうと、毎日々々、鼻をうごめかしていましたが、私の予想は容易に実現されそうもなく、今日はいよいよ仮面を脱ぐか、明日は魔の手が飛び出すかと思っても、その日になると危機一髪と云うところでスルリと逃げられてしまうのです。

そうなると私は、今度はほんとうに懊れ出しました。「己はこの通り待ちかねているんだ、誘惑するなら早くしてくれ」と云わぬばかりに、体中に隙を見せたり、弱点をさらけ出したりして、果ては此方からあべこべに誘いかけたりしました。しかし彼女は一向取り上げてくれないで、
「何よ譲治さん! それじゃ約束が違うじゃないの」
と、子供をたしなめるような眼つきで、私を叱りつけるのです。
「約束なんかどうだっていい、己はもう………」
「駄目、駄目! あたしたちはお友達よ!」
「ねえ、ナオミ、………そんなことを云わないで、………お願いだから、………」
「まあ、うるさいわね! 駄目だったら!………さ、その代りキッスして上げるわ」
そして彼女は、例のはッと云う息を浴びせて、
「ね、いいでしょ? これで我慢しなけりゃ駄目よ、これだけだって友達以上かも知れないけれど、譲治さんだから特別にして上げるんだわ」
が、この「特別」な愛撫の手段は、却って私の神経を異常に刺戟する力はあっても、決して静めてはくれません。


十一、

その晩ナオミは、「指一本でも触らないように」私をテーブルの向う側にかけさせ、ヤキモキしている私の顔を面白そうに眺めながら、夜遅くまで無駄口を叩いていましたが、十二時が鳴ると、
「譲治さん、今夜は泊めて貰うわよ」
と、又しても人をからかうような口調で云いました。
「ああ、お泊り、明日は日曜で己も一日内にいるから」
「だけども何よ。泊ったからって、譲治さんの注文通りにはならないわよ」
「いや、御念には及ばないよ、注文通りになるような女でもないからな」
「なれば都合が好いと思っているんじゃないの」
そう云って彼女は、クスクスと鼻を鳴らして、
「さ、あなたから先へお休みなさい、寝語を云わないようにして」
と、私を二階へ追い立てて置いて、それから隣りの部屋へ這入って、ガチンと鍵をかけました。

私は勿論、隣りの部屋が気にかかって容易に寝つかれませんでした。以前、夫婦でいた時分にはこんな馬鹿なことはなかったんだ、己がこうして寝ている傍に彼女もいたんだ、そう思うと、私は無上に口惜しくてなりませんでした。壁一重の向うでは、ナオミが頻りに、――或はわざとそうするのか、――ドタンバタンと、床に地響きをさせながら、布団を敷いたり、枕を出したり、寝支度をしています。あ、今髪を解かしているな、着物を脱いで寝間着に着換えているところだなと、それらの様子が手に取るように分ります。それからぱッと夜具をまくったけはいがして、続いてどしんと、彼女の体が布団の上へ打っ倒れる音が聞えました。

「えらい音をさせるなあ」
と、私は半ば独り言のように、半ば彼女に聞えるように云いました。
「まだ起きているの? 寝られないの?」
と、壁の向うから直ぐとナオミが応じました。
「ああ、なかなか寝られそうもないよ、――己はいろいろ考え事をしているんだ」
「うふふふ、譲治さんの考え事なら、聞かないでも大概分っているわ」
「だけども、実に妙なもんだよ。現在お前がこの壁の向うに寝ているのに、どうすることも出来ないなんて」
「ちっとも妙なことはないわよ。ずっと昔はそうだったじゃないの、あたしが始めて譲治さんの所へ来た時分は。――あの時分には今夜のようにして寝たじゃないの」
私はナオミにそう云われると、ああそうだったか、そんな時代もあったんだっけ、あの時分にはお互に純なものだったのにと、ホロリとするような気になりましたが、これは少しも今の私の愛慾を静めてはくれませんでした。却って私は、二人がいかに深い因縁で結び着けられているかを思い、到底彼女と離れられない心持を、痛切に感じるばかりでした。
「あの時分にはお前は無邪気なもんだったがね」
「今だってあたしは至極無邪気よ、有邪気なのは譲治さんだわ」
「何とでも勝手に云うがいいさ、己はお前を何処までも追っ駈け廻す積りだから」
「うふふふ」
「おい!」
私はそう云って、壁をどんと打ちました。
「あら、何をするのよ、此処は野中の一軒家じゃあないことよ。何卒お静かに願います」
「この壁が邪魔だ、この壁を打っ壊してやりたいもんだ」
「まあ騒々しい。今夜はひどく鼠が暴れる」
「そりゃ暴れるとも。この鼠はヒステリーになっているんだ」
「あたしはそんなお爺さんの鼠は嫌いよ」
「馬鹿を云え、己はじじいじゃないぞ、まだやっと三十二だぞ」
「あたしは十九よ、十九から見れば三十二の人はお爺さんよ。悪いことは云わないから、外に奥さんをお貰いなさいよ、そうしたらヒステリーが直るかも知れないから」
ナオミは私が何を云っても、しまいにはもう、うふうふ笑うだけでした。そして間もなく、
「もう寝るわよ」
と、ぐうぐう空鼾をかき出しましたが、やがてほんとうに寝入ったようでした。

明くる日の朝、眼を覚まして見ると、ナオミはしどけない寝間着姿で、私の枕もとに坐っています。
「どうした? 譲治さん、昨夜は大変だったわね」
「うん、この頃己は、時々あんな風にヒステリーを起すんだよ。恐かったかい?」
「面白かったわ、又あんな風にさして見たいわ」
「もう大丈夫だ、今朝はすっかり治まっちまった。――ああ、今日は好い天気だなあ」
「好い天気だから起きたらどう? もう十時過ぎよ。あたし一時間も前に起きて、今朝湯に行って来たの」
私はそう云われて、寝ながら彼女の湯上り姿を見上げました。一体女の「湯上り姿」と云うものは、――それの真の美しさは、風呂から上ったばかりの時よりも、十五分なり二十分なり、多少時間を置いてからがいい。風呂に漬かるとどんなに皮膚の綺麗な女でも、一時は肌が茹り過ぎて、指の先などが赤くふやけるものですが、やがて体が適当な温度に冷やされると、始めて蝋が固まったように透き徹って来る。ナオミは今しも、風呂の帰りに戸外の風に吹かれて来たので、湯上り姿の最も美しい瞬間にいました。その脆弱な、うすい皮膚は、まだ水蒸気を含みながらも真っ白に冴え、着物の襟に隠れている胸のあたりには、水彩画の絵の具のような紫色の影があります。顔はつやつやと、ゼラチンの膜を張ったかの如く光沢を帯び、ただ眉毛だけがじっとりと濡れていて、その上にはカラリと晴れた冬の空が、窓を透してほんのり青く映っています。
「どうしたんだい、朝ッぱらから湯になんぞ這入って」
「どうしたって大きなお世話よ。――ああ、いい気持だった」
と、彼女は鼻の両側を平手でハタハタと軽く叩いて、それからぬうッと、顔を私の眼の前へ突き出しました。
「ちょいと! よく見て頂戴、髭が生えてる?」
「ああ、生えてるよ」
「ついでにあたし、床屋へ寄って顔を剃って来ればよかったっけ」
「だってお前は剃るのが嫌いだったじゃないか。西洋の女は決して顔を剃らないと云って。――」
「だけどこの頃は、亜米利加なんかじゃ顔を剃るのが流行っているのよ。ね、あたしの眉毛を御覧なさい、亜米利加の女はこんな工合にみんな眉毛を剃っているから」
「ははあ、そうか、お前の顔がこの間から面変りがして、眉の形まで違っちまったのは、そこをそんな風に剃っているせいか」
「ええ、そうよ、今頃になって気が付くなんて、時勢後れね」
ナオミはそう云って、何か別な事を考えている様子でしたが、
「譲治さん、もうヒステリーはほんとうに直って?」
と、ふいとそんなことを尋ねました。
「うん、直ったよ。なぜ?」
「直ったら譲治さんにお願いがあるの。――これから床屋へ出かけて行くのは大儀だから、あたしの顔を剃ってくれない?」
「そんな事を云って、又ヒステリーを起させようッて気なんだろう」
「あら、そうじゃないわよ、ほんとに真面目で頼むんだから、そのくらいな親切があってもいいでしょ? 尤もヒステリーを起されて、怪我でもさせられちゃ大変だけれど」
「安全剃刀を貸してやるから、自分で剃ったらいいじゃないか」
「ところがそうは行かないの。顔だけならいいけれど、頸の周りから、ずうッと肩のうしろの方まで剃るんだから」
「へえ、どうしてそんな所まで剃るんだ?」
「だってそうでしょ、夜会服を着れば肩の方まですっかり出るでしょ。――」
そしてわざわざ、肩の肉をちょっとばかり出して見せて、
「ほら、ここいらまで剃るのよ、だから自分じゃ出来やしないわ」
そう云ってから、彼女は慌てて又その肩をスポリと引っ込めてしまいましたが、毎度してやられる手ではありながら、それが私には矢張抵抗し難いところの誘惑でした。ナオミの奴、顔が剃りたいのでも何でもないんだ、己を飜弄するつもりで湯にまで這入って来やがったんだ。――と、そう分ってはいましたけれども、とにかく肌を剃らせると云うのは、今までにない一つの新しい挑戦でした。今日こそうんと近くへ寄って、あの皮膚をしみじみと見られる、もちろん触ってみることも出来る。そう考えただけでも私は、とても彼女の申出でを断る勇気はありませんでした。

ナオミは私が、彼女のために瓦斯焜炉で湯を沸かしたり、それを金盥へ取ってやったり、ジレットの刃を附け換えたり、いろいろ支度をしてやっている間に、窓のところへ机を持ち出してその上に小さな鏡を立て、両足の間へ臀をぴたんこに落して据わって、次には白い大きなタオルを襟の周りへ巻き着けました。が、私が彼女のうしろへ廻って、コールゲートのシャボンの棒を水に塗らして、いろいよ剃ろうとするとたんに、
「譲治さん、剃ってくれるのはいいけれど、一つの条件があることよ」
と、云い出しました。
「条件?」
「ええ、そう。別にむずかしい事じゃないの」
「どんな事さ?」
「剃るなんて云ってゴマカして、指で方々摘まんだりしちゃ厭だわよ、ちっとも肌に触らないようにして、剃ってくれなけりゃ」
「だってお前、――」
「何が『だって』よ、触らないように剃れるじゃないの、シャボンはブラシで塗ればいいんだし、剃刀はジレットを使うんだし、………床屋へ行っても上手な職人は触りゃしないわ」
「床屋の職人と一緒にされちゃあ遣り切れないな」
「生意気云ってらあ、実は剃らして貰いたい癖に!――それがイヤなら、何も無理には頼まないわよ」
「イヤじゃあないよ。そう云わないで剃らしておくれよ、折角支度までしちゃったんだから」
私はナオミの、抜き衣紋にした長い襟足を視詰めると、そう云うより外はありませんでした。
「じゃ、条件通りにする?」
「うん、する」
「絶対に触っちゃいけないわよ」
「うん、触らない」
「もしちょっとでも触ったら、その時直ぐに止めにするわよ。その左の手をちゃんと膝の上に載せていらっしゃい」
私は云われる通りにしました。そして右の方の手だけを使って、彼女の口の周りから剃って行きました。

彼女はうっとりと、剃刀の刃で撫でられて行く快感を味わっているかのように、瞳を鏡の前に据えて、大人しく私に剃らせていました。私の耳には、すうすうと引く睡いような呼吸が聞え、私の眼には、その頤の下でピクピクしている頸動脈が見えています。私は今や、睫毛の先で刺されるくらい彼女の顔に接近しました。窓の外には乾燥し切った空気の中に、朝の光が朗かに照り、一つ一つの毛孔が数えられるほど明るい。私はこんな明るい所で、こんなにいつまでも、そしてこんなにも精細に、自分の愛する女の目鼻を凝視したことはありません。こうして見るとその美しさは巨人のような偉大さを持ち、容積を持って迫って来ます。その恐ろしく長く切れた眼、立派な建築物のように秀でた鼻、鼻から口へつながっている突兀とした二本の線、その線の下に、たっぷり深く刻まれた紅い唇。ああ、これが「ナオミの顔」と云う一つの霊妙な物質なのか、この物質が己の煩悩の種となるのか。………そう考えると実に不思議になって来ます。私は思わずブラシを取って、その物質の表面へ、ヤケにシャボンの泡を立てます。が、いくらブラシで掻き廻しても、それは静かに、無抵抗に、ただ柔かな弾力を以て動くのみです。………
………私の手にある剃刀は、銀色の虫が這うようにしてなだらかな肌を這い下り、その項から肩の方へ移って行きました。かっぷくのいい彼女の背中が、真っ白な牛乳のように、広く、堆く、私の視野に這入って来ました。一体彼女は、自分の顔は見ているだろうが、背中がこんなに美しいことを知っているだろうか? 彼女自身は恐らくは知るまい。それを一番よく知っているのは私だ、私は嘗てこの背中を、毎日湯に入れて流してやったのだ。あの時もちょうど今のようにシャボンの泡を掻き立てながら。………これは私の恋の古蹟だ。私の手が、私の指が、この凄艶な雪の上に嬉々として戯れ、此処を自由に、楽しく蹈んだことがあるのだ。今でも何処かに痕が残っているかも知れない。………

「譲治さん、手が顫えるわよ、もっとシッカリやって頂戴。………」
突然ナオミの云う声がしました。私は頭がガンガンして、口の中が干涸らびて、奇態に体が顫えるのが自分でも分りました。はッと思って、「気が違ったな」と感じました。それを一生懸命に堪えると、急に顔が熱くなったり、冷めたくなったりしました。
しかしナオミのいたずらは、まだこれだけでは止まないのでした。肩がすっかり剃れてしまうと、袂をまくって、肘を高くさし上げて、
「さ、今度は腋の下」
と云うのでした。
「え、腋の下?」
「ええ、そう、――洋服を着るには腋の下を剃るもんよ、此処が見えたら失礼じゃないの」
「意地悪!」
「どうして意地悪よ、可笑しな人ね。――あたし湯冷めがして来たから早くして頂戴」
その一刹那、私はいきなり剃刀を捨てて、彼女の肘へ飛び着きました、――飛び着くと云うよりは噛み着きました。と、ナオミはちゃんとそれを予期していたかの如く、直ぐその肘で私をグンと撥ね返しましたが、私の指はそれでも何処かに触ったと見え、シャボンでツルリと滑りました。彼女はもう一度、力一杯私を壁の方へ突き除けるや否や、
「何をするのよ!」
と、鋭く叫んで立ち上りました。見るとその顔は、――私の顔が真っ青だったからでしょうが、彼女の顔も――冗談ではなく、真っ青でした。
「ナオミ! ナオミ! もうからかうのは好い加減にしてくれ! よ! 何でもお前の云うことは聴く!」
何を云ったか全く前後不覚でした、ただセッカチに、早口に、さながら熱に浮かされた如くしゃべりました。それをナオミは、黙って、まじまじと、棒のように突っ立ったまま、呆れ返ったと云う風に睨みつけているだけでした。
私は彼女の足下に身を投げ、跪いて云いました。
「よ、なぜ黙っている! 何とか云ってくれ! 否なら己を殺してくれ!」
「気違い!」
「気違いで悪いか」
「誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つン這いになりました。

一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている眼の中には、殆ど恐怖に近いものがありました。が、忽ち彼女は猛然として、図太い、大胆な表情を湛え、どしんと私の背中の上へ跨がりながら、
「さ、これでいいか」
と、男のような口調で云いました。
「うん、それでいい」
「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」
「あたしのことを『ナオミ』なんて呼びつけにしないで、『ナオミさん』と呼ぶか」
「呼ぶ」
「きっとか」
「きっと」
「よし、じゃあ馬でなく、人間扱いにして上げる、可哀そうだから。――」
そして私とナオミとは、シャボンだらけになりました。………

「………これで漸く夫婦になれた、もう今度こそ逃がさないよ」
と、私は云いました。
「あたしに逃げられてそんなに困った?」
「ああ、困ったよ、一時はとても帰って来てはくれないかと思ったよ」
「どう? あたしの恐ろしいことが分った?」
「分った、分り過ぎるほど分ったよ」
「じゃ、さっき云ったことは忘れないわね、何でも好きにさせてくれるわね。――夫婦と云っても、堅ッ苦しい夫婦はイヤよ、でないとあたし、又逃げ出すわよ」
「これから又、『ナオミさん』に『譲治さん』で行くんだね」
「ときどきダンスに行かしてくれる?」
「うん」
「いろいろなお友達と附き合ってもいい? もう先のように文句を云わない?」
「うん」
「尤もあたし、まアちゃんとは絶交したのよ。――」
「へえ、熊谷と絶交した?」
「ええ、した、あんなイヤな奴はありゃしないわ。――これから成るべく西洋人と附き合うの、日本人より面白いわ」
「その横浜の、マッカネルと云う男かね?」
「西洋人のお友達なら大勢あるわ。マッカネルだって、別に怪しい訳じゃないのよ」
「ふん、どうだか、――」
「それ、そう人を疑ぐるからいけないのよ、あたしがこうと云ったらば、ちゃんとそれをお信じなさい。よくって? さあ! 信じるか、信じないか?」
「信じる!」
「まだその外にも注文があるわよ、――譲治さんは会社を罷めてどうする積り?」
「お前に捨てられちまったら、田舎へ引っ込もうと思ったんだが、もうこうなれば引っ込まないよ。田舎の財産を整理して、現金にして持ってくるよ」
「現金にしたらどのくらいある?」
「さあ、此方へ持って来られるのは、二三十万はあるだろう」
「それッぽっち?」
「それだけあれば、お前と己と二人ッきりなら沢山じゃないか」
「贅沢をして遊んで行かれる?」
「そりゃ、遊んじゃあ行かれないよ。――お前は遊んでもいいけれど、己は何か事務所でも開いて、独立して仕事をやる積りだ」
「仕事の方へみんなお金を注ぎ込んじまっちゃイヤだわよ、あたしに贅沢をさせるお金を、別にして置いてくれなけりゃ。いい?」
「ああ、いい」
「じゃ、半分別にして置いてくれる?――三十万円なら十五万円、二十万円なら十万円、――」
「大分細かく念を押すんだね」
「そりゃあそうよ、初めに条件を極めて置くのよ。――どう? 承知した? そんなにまでしてあたしを奥さんに持つのはイヤ?」
「イヤじゃないッたら、――」
「イヤならイヤと仰っしゃいよ、今のうちならどうでもなるわよ」
「大丈夫だってば、――承知したってば、――」
「それからまだよ、――もうそうなったらこんな家にはいられないから、もっと立派な、ハイカラな家へ引っ越して頂戴」
「無論そうする」
「あたし、西洋人のいる街で、西洋館に住まいたいの、綺麗な寝室や食堂のある家へ這入ってコックだのボーイを使って、――」
「そんな家が東京にあるかね?」
「東京にはないけれど、横浜にはあるわよ。横浜の山手にそう云う借家がちょうど一軒空いているのよ、この間ちゃんと見て置いたの」
私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました。ナオミは最初からそうする積りで、計画を立てて、私を釣っていたのでした。


十二、

人間と云うものは一遍恐ろしい目に会うと、それが強迫観念になって、いつまでも頭に残っていると見え、私は未だに、嘗てナオミに逃げられた時の、あの恐ろしい経験を忘れることが出来ないのです。「あたしの恐ろしいことが分ったか」と、そう云った彼女の言葉が、今でも耳にこびり着いているのです。彼女の浮気と我が儘とは昔から分っていたことで、その欠点を取ってしまえば彼女の値打ちもなくなってしまう。浮気な奴だ、我が儘な奴だと思えば思うほど、一層可愛さが増して来て、彼女の罠に陥ってしまう。ですから私は、怒れば尚更自分の負けになることを悟っているのです。

自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。実地に附き合っているうちに自然と上達したのでしょうが、夜会の席で婦人や紳士に愛嬌を振りまきながら、彼女がぺらぺらまくし立てるのを聞いていると、何しろ発音は昔から巧かったのですから、変に西洋人臭くって、私には聞きとれないことがよくあります。そうして彼女は、ときどき私を西洋流に「ジョージ」と呼びます。

これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。

ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
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