2024-5-21 11:20 /
一、

春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。せんだって通りかかりにお墓参りをする気になり立ち寄って案内を乞うと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行った。見るとひと叢の椿の木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘にしかじかの人があったはずですがその人のはというとしばらく考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台が聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた。光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、行年五拾八歳とあって、側面に、門人温井佐助建之と刻してある。琴女は生涯鵙屋姓を名のっていたけれども「門人」温井検校と事実上の夫婦生活をいとなんでいたのでかく鵙屋家の墓地と離れたところへ別に一基を選んだのであろうか。寺男の話では鵙屋の家はとうに没落してしまい近年は稀に一族の者がお参りに来るだけであるがそれも琴女の墓を訪うことはほとんどないのでこれが鵙屋さんの身内のお方のものであろうとは思わなかったという。するとこの仏さまは無縁になっているのですかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩の茶屋の方に住んでおられる七十恰好の老婦人が年に一二度お参りに来られます、そのお方はこのお墓へお参りをされて、それから、それ、ここに小さなお墓があるでしょうと、その墓の左脇にある別な墓を指し示しながらきっとそのあとでこのお墓へも香華を手向けて行かれますお経料などもそのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日歿、行年八拾三歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまいただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である旨を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているその丘の上に彳んで脚下にひろがる大大阪市の景観を眺めた。けだしこのあたりは難波津の昔からある丘陵地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺の方へ続いている。そして現在では煤煙で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなく埃まびれに立ち枯れた大木が殺風景な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静で見晴らしのよい場所であろう。奇しき因縁に纏われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここに眠っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤をとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契りを語り合っているように見える。元来温井検校の家は日蓮宗であって検校を除く温井一家の墓は検校の故郷江州日野町の某寺にある。しかるに検校が父祖代々の宗旨を捨てて浄土宗に換えたのは墓になっても春琴女の側を離れまいという殉情から出たもので、春琴女の存生中、早くすでに師弟の法名、この二つの墓石の位置、釣合い等が定められてあったという。目分量で測ったところでは春琴女の墓石は高さ約六尺検校のは四尺に足らぬほどであろうか。二つは低い石甃の壇の上に並んで立っていて春琴女の墓の右脇にひと本の松が植えてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のように伸びているのであるが、その枝の先が届かなくなった左の方の二三尺離れたところに検校の墓が鞠躬加として侍坐するごとく控えている。それを見ると生前検校がまめまめしく師に事えて影の形に添うように扈従していた有様が偲ばれあたかも石に霊があって今日もなおその幸福を楽しんでいるようである。私は春琴女の墓前に跪いて恭しく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫しながら夕日が大市街のかなたに沈んでしまうまで丘の上に低徊していた


近頃私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子がありこれが私の春琴女を知るに至った端緒であるがこの書は生漉きの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回忌に弟子の検校が誰かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。されば内容は文章体で綴ってあり検校のことも三人称で書いてあるけれども恐らく材料は検校が授けたものに違いなくこの書のほんとうの著者は検校その人であると見て差支えあるまい。伝によると「春琴の家は代々鵙屋安左衛門を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目也。母しげ女は京都麩屋町の跡部氏の出にして安左衛門に嫁し二男四女を挙ぐ。春琴はその第二女にして文政十二年五月二十四日をもって生る」とある。また曰く、「春琴幼にして穎悟、加うるに容姿端麗にして高雅なること譬えんに物なし。四歳の頃より舞を習いけるに挙措進退の法自ら備わりてさす手ひく手の優艶なること舞妓も及ばぬほどなりければ、師もしばしば舌を巻きて、あわれこの児、この材と質とをもってせば天下に嬌名を謳われんこと期して待つべきに、良家の子女に生れたるは幸とや云わん不幸とや云わんと呟きしとかや。また早くより読み書きの道を学ぶに上達すこぶる速かにして二人の兄をさえ凌駕したりき」と。これらの記事が春琴を視ること神のごとくであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいか分らないけれども彼女の生れつきの容貌が「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。当時は婦人の身長が一体に低かったようであるが彼女も身の丈が五尺に充たず顔や手足の道具が非常に小作りで繊細を極めていたという。今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、輪郭の整った瓜実顔に、一つ一つ可愛い指で摘まみ上げたような小柄な今にも消えてなくなりそうな柔かな目鼻がついている。何分にも明治初年か慶応頃の撮影であるからところどころに星が出たりして遠い昔の記憶のごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、その朦朧とした写真では大阪の富裕な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性の閃めきがなく印象の稀薄な感じがする。年恰好も三十七歳といえばそうも見えまた二十七八歳のようにも見えなくはない。この時の春琴女はすでに両眼の明を失ってから二十有余年の後であるけれども盲目というよりは眼をつぶっているという風に見える。かつて佐藤春夫が云ったことに聾者は愚人のように見え盲人は賢者のように見えるという説があった。なぜならつんぼは人の云うことを聴こうとして眉をしかめ眼や口を開け首を傾けたり仰向けたりするので何となく間の抜けたところがあるしかるに盲人はしずかに端坐して首をうつ向け、瞑目沈思するかのごとき様子をするからいかにも考え深そうに見えるというのであって果して一般に当て篏まるかどうか分らないがそれは一つには仏菩薩の眼、慈眼視衆生という慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを見馴れているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や有難みを覚えある場合には畏れを抱くのであろうか。されば春琴女の閉じた眼瞼にもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の観世音を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところによると春琴女の写真は後にも先にもこれ一枚しかないのであるという彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらずまたこの写真を撮った同じ年に偶然ある災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかったはずであるから、われわれはこの朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立ちを浮かべられたか恐らく物足りないぼんやりしたものを心に描かれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろうあるいは写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。考えてみると彼女がこの写真をうつした年すなわち春琴女が三十七歳のおりに検校もまた盲人になったのであって、検校がこの世で最後に見た彼女の姿はこの映像に近いものであったかと思われる。すると晩年の検校が記憶の中に存していた彼女の姿もこの程度にぼやけたものではなかったであろうか。それとも次第にうすれ去る記憶を空想で補って行くうちにこれとは全然異なった一人の別な貴い女人を作り上げていたであろうか


二、

春松検校の家は靱にあって道修町の鵙屋の店からは十丁ほどの距離であったが春琴は毎日丁稚に手を曳かれて稽古に通ったその丁稚というのが当時佐助と云った少年で後の温井検校であり、春琴との縁がかくして生じたのである。佐助は前に述べたごとく江州日野の産であって実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に佐助に取って累代の主家であった。春琴より四つ歳上で十三歳の時に始めて奉公に上ったのであるから春琴が九つの歳すなわち失明した歳に当るが彼が来た時は既に春琴の美しい瞳が永久に鎖された後であった。佐助はこのことを、春琴の瞳の光を一度も見なかったことを後年に至るまで悔いていないかえって幸福であるとした。もし失明以前を知っていたら失明後の顔が不完全なものに見えたろうけれども幸い彼は彼女の容貌に何一つ不足なものを感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って邸宅を郊外に移し令嬢たちもまたスポーツに親しんで野外の空気や日光に触れるから以前のような深窓の佳人式箱入娘はいなくなってしまったが現在でも市中に住んでいる子供たちは一般に体格が繊弱で顔の色なども概して青白い田舎育ちの少年少女とは皮膚の冴え方が違う良く云えば垢抜けがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いのを自慢にしたくらいで色の白きは京阪に及ばない大阪の旧家に育ったぼんちなどは男でさえ芝居に出て来る若旦那そのままにきゃしゃで骨細なのがあり、三十歳前後に至って始めて顔が赭く焼けて来て脂肪を湛え急に体が太り出して紳士然たる貫禄を備えるようになるその時分までは全く婦女子も同様に色が白く衣服の好みも随分柔弱なのである。まして旧幕時代の豊かな町人の家に生れ、非衛生的な奥深い部屋に垂れ籠めて育った娘たちの透き徹るような白さと青さと細さとはどれほどであったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかり妖しく艶に映ったか。この時春琴の姉が十二歳すぐ下の妹が六歳で、ぽっと出の佐助にはいずれも鄙には稀な少女に見えた分けても盲目の春琴の不思議な気韻に打たれたという。春琴の閉じた眼瞼が姉妹たちの開いた瞳より明るくも美しくも思われてこの顔はこれでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じがした。四人の姉妹のうちで春琴が最も器量よしという評判が高かったのは、たといそれが事実だとしても幾分か彼女の不具を憐れみ惜しむ感情が手伝っていたであろうが佐助に至ってはそうでなかった。後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍から生じたという風に云われることを何よりも厭いそんな観察をする者があると心外千万であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀そうとか思ったことは一遍もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があのご気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前達は眼鼻が揃っているだけで外の事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと云った。ただしそれは後の話で佐助は最初燃えるような崇拝の念を胸の奥底に秘めながらまめまめしく仕えていたのであろうまだ恋愛という自覚はなかったであろうし、あっても相手は頑是ないこいさんである上に累代の主家のお嬢様である佐助としてはお供の役を仰せ付かって毎日一緒に道を歩くことの出来るのがせめてもの慰めであっただろう。いったい新参の少年の身をもって大切なお嬢様の手曳きを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのをある時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に極まったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に感激しながらいつも春琴の小さな掌を己れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻るのであったが途中春琴はめったに口を利いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは黙々としてただ過ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と尋ねる者があった時「誰よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。元来彼女は愛嬌に富み人あたりが良かったことは前に述べた通りだけれども失明以来気むずかしく陰鬱になり晴れやかな声を出すことや笑うことが少く口が重くなっていたので、佐助が余計なおしゃべりをせず役目だけを大切に勤めて邪魔にならぬようにしている所が気に入ったのであるかも知れない〔佐助は彼女の笑う顔を見るのが厭であったというけだし盲人が笑う時は間が抜けて哀れに見える佐助の感情ではそれが堪えられなかったのであろう〕


おしゃべりをしないから邪魔にならぬからというのが果して春琴の真意であったか佐助の憧憬の一念がおぼろげに通じて子供ながらもそれを嬉しく思ったのではなかったか十歳の少女にそういうことは有り得ないとも考えられるが、俊敏で早熟の上に盲目になった結果として第六感の神経が研ぎ澄まされてもいたことを思うと必ずしも突飛な想像であるとはいえない気位の高い春琴は後に恋愛を意識するようになってからでも容易に胸中を打ち明けず久しい間佐助に許さなかったのである。さればそこに多少の疑問はあるけれどもとにかく始め佐助というものの存在はほとんど春琴の念頭にないかのごとくであった少くとも佐助にはそう見えた。手曳きをする時佐助は左の手を春琴の肩の高さに捧げて掌を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであったたまたま用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎をかけるようにひとりごとを洩らしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張していなければならずあたかも注意深さの程度を試されているように感じた。もともと我が儘なお嬢様育ちのところへ盲人に特有な意地悪さも加わって片時も佐助に油断する暇を与えなかった。ある時春松検校の家で稽古の順番が廻って来るのを待っている間にふと春琴の姿が見えなくなったので佐助が驚いてその辺を捜すと知らぬ間に厠に行っているのであった。いつも小用に立つ時には黙って春琴が出て行くのをそれと察して追いかけながら戸口まで手を曳いて連れて行き、そこに待っていて手水の水をかけてやるのに今日は佐助がうっかりしていたのでそのまま独り手さぐりで行ったのである。「済まんことでござりました」と佐助は声をふるわせながら、厠から出て手水鉢の柄杓を取ろうと手を伸ばしている少女の前に駈けて来て云ったが春琴は「もうええ」と云いつつ首を振った。しかしこういう場合「もうええ」といわれても「そうでござりますか」と引き退っては一層後がいけないのである無理にも柄杓を毮ぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである。またある夏の日の午後に順番を待っている時うしろに畏まって控えていると「暑い」と独りごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせずしばらくするとまた「暑い」という、心づいて有り合わせた団扇を取り背中の方からあおいでやるとそれで納得したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰り返した。春琴の強情と気儘とはかくのごとくであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであっていずれの奉公人にもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみその傾向が極端になって行ったのである彼女が佐助を最も便利に思った理由もここにあるのであり佐助もまたそれを苦役と感ぜずむしろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘えられているように取り、一種の恩寵のごとくに解したのでもあろう


三、

前記天下茶屋の梅見の宴の後約一箇月半を経た三月晦日の夜八つ半時頃すなわち午前三時々分に「佐助は春琴の苦吟する声に驚き眼覚めて次の間より馳せ付け、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を抉じ開け春琴が伏戸に忍入りしに、早くも佐助が起き出でたるけはいを察し、一物をも得ずして逃げ失せぬと覚しく、すでに四辺に人影もなかりき。この時賊は周章の余り、有り合わせたる鉄瓶を春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を欺く豊頬に熱湯の余沫飛び散りて口惜しくも一点火傷の痕を留めぬ。素より白璧の微瑕に過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の些細なる傷を恥ずること甚しく、常に縮緬の頭巾をもって顔を覆い、終日一室に籠居してかつて人前に出でざりしかば、親しき親族門弟といえどもその相貌を窺い知り難く、為めに種々なる風聞臆説を生むに至りぬ」と云うのが春琴伝の記載である。伝は続けて曰く「けだし負傷は軽微にして天稟の美貌をほとんど損ずることなかりき。その人に面接するを厭いたるは彼女が潔癖の致すところにして、取るにも足らぬ傷痕を恥辱のごとく考えしは盲人の思い過しとや云わん」と。更にまた曰く「しかるにいかなる因縁にや、それより数十日を経て佐助もまた白内障を煩い、たちまち両眼暗黒となりぬ。佐助は我が眼前朦朧として物の形の次第に見え分かずなり行きし時、俄盲目の怪しげなる足取りにて春琴の前に至り、狂喜して叫んで曰く、師よ、佐助は失明致したり、もはや一生お師匠様のお顔の瑕を見ずに済むなり、まことによき時に盲目となり候ものかな、これ必ず天意にて侍らんと。春琴これを聴きて憮然たることやや久し矣」と。佐助が衷情を思いやれば事の真相を発くのに忍びないけれどもこの前後の伝の叙述は故意に曲筆しているものと見る外はない彼が偶然白内障になったと云うのも腑に落ちないしまた春琴がいかに潔癖でありいかに盲人の思い過しであろうとも天稟の美貌を損じなかった程度の火傷であるならば何をもって頭巾で面体を包んだり人に接するのを厭ったりしようぞ事実は花顔玉容に無残な変化を来したのである。鴫沢てる女その他二三の人の話によると賊はあらかじめ台所に忍び込んで火を起し湯を沸かした後、その鉄瓶を提げて伏戸に闖入し鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾けて真正面に熱湯を注ぎかけたのであると云う最初からそれが目的だったので普通の物盗りでもなければ狼狽の余りの所為でもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け爛れた皮膚が乾き切るまでに二箇月以上を要したなかなかの重傷だったのである。されば物凄い相貌の変り方について種々奇怪なる噂が立ち毛髪が剥落して左半分が禿げ頭になっていたと云うような風聞も根のない臆説とのみ排し去る訳には行かない佐助はそれ以来失明したから見ずに済んだでもあろうけれども、「親しき親族門弟といえどもその相貌を窺い知り難」かったと云うのはいかがであろうか絶対に何人にも見せないようにすることは不可能であろうし現に鴫沢てる女のごときも見ていないはずはないのである。ただしてる女も佐助の志を重んじ決して春琴の容貌の秘密を人に語らない私も一往は尋ねてみたが佐助さんはお師匠様を始終美しい器量のお方じゃと思い込んでいやはりましたので私もそう思うようにしておりましたと云い委しくは教えてくれなかった


佐助は春琴の死後十余年を経た後に彼が失明した時のいきさつを側近者に語ったことがありそれによって詳細な当時の事情がようやく判明するに至った。すなわち春琴が兇漢に襲われた夜佐助はいつものように春琴の閨の次の間に眠っていたが物音を聞いて眼を覚ますと有明行燈の灯が消えてい真っ暗な中に呻きごえがする佐助は驚いて跳び起きまず灯をともしてその行燈を提げたまま屏風の向うに敷いてある春琴の寝床の方へ行ったそしてぼんやりした行燈の灯影が屏風の金地に反射する覚束ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした形跡はなかったただ春琴の枕元に鉄瓶が捨ててあり、春琴も褥中にあって静かに仰臥していたがなぜか呍々と呻っている佐助は最初春琴が夢に魘されているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起そうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽うた佐助々々わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠そうとする様子にご安心なされませお㒵は見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛んだものかそのまま人事不省になった。その後も始終誰にもわての顔を見せてはならぬきっとこの事は内密にしてと夢うつつの裡に譫語を云い続け、何のそれほどご案じになることがござりましょう火膨れの痕が直りましたらやがて元のお姿に戻られますと慰めればこれほどの大火傷に面体の変らぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復するにつれて一層云い募り、医者の外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり膏薬や繃帯を取り替える時は皆病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪えずしてとっさに面を背けたので燈明の灯の揺めく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上からしきりに両眼を押し拭えば佐助も諳然として云うべき言葉なく共に嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取り除けても差支ない状態にまで治癒した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針とを密かに持って来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった昔悪七兵衛景清は頼朝の器量に感じて復讐の念を断じもはや再びこの人の姿を見まいと誓い両眼を抉り取ったと云うそれと動機は異なるけれどもその志の悲壮なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものはかくのごときことであったか過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であったかそこまでは忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来てただ感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自ずと会得することが出来た今まで肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めてひしと抱き合い一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生って来たがそれとは全然心持が違ったおよそ大概な盲人は光の方向感だけは持っている故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知りああこれが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう衰えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎仏のごとく浮かんだ


佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょうあの晩曲者が忍び入り辛き目をおさせ申したのを知らずに睡っておりましたのは返す返すも私の不調法毎夜お次の間に寝させて戴くのはこう云う時の用心でござりますのにこのような大事を惹き起しお師匠様を苦しめて自分が無事でおりましては何としても心が済まず罰が当ってくれたらよいと存じましてなにとぞわたくしにも災難をお授け下さりませこうしていては申訳の道が立ちませぬと御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い今朝起きましたらこの通り両眼が潰れておりました定めし神様も私の志を憐れみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄盲目の悲しさには立ち居も儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けてこのような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござりますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた


禍を転じて福と化した二人のその後の生活の模様を最もよく知っている生存者は鴫沢てる女あるのみである照女は本年七十一歳春琴の家に内弟子として住み込んだのは明治七年十二歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う傍二人の盲人の間を斡旋して手曳きとも付かぬ一種の連絡係りを勤めたけだし一人は俄盲目一人は幼少からの盲目とは云え箸の上げ下しにも自分の手を使わず贅沢に馴れて来た婦人の事故是非ともそう云う役目を勤める第三者の介在が必要でありなるべく気の置けない少女を雇うことにしていたがてる女が採用されてからは実体なところが気に入られ大いに二人の信任を得てそのまま長く奉公をし、春琴の死後は佐助に仕えて彼が検校の位を得た明治二十三年まで側に置いてもらったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た時春琴は既に四十六歳遭難の後九年の歳月を経もう相当の老婦人であった顔は仔細があって人には見せないまた見てはならぬと聞かされていたが、紋羽二重の被布を着て厚い座布団の上に据わり浅黄鼠の縮緬の頭巾で鼻の一部が見える程度に首を包み頭巾の端が眼瞼の上へまで垂れ下るようにし頬や口なども隠れるようにしてあった。佐助は眼を突いた時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒い処へ手が届くように春琴を労わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は端の見る目もいじらしかった春琴もまた余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣故佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着附けも入浴も按摩も上厠もいまだに彼を煩わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりもむしろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外はただ入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例えば入浴の時などは湯殿の戸口までは二人に附いて行きそこで引き返って手が鳴ってから迎えに行くともう春琴は湯から上って浴衣を着頭巾を被っているその間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものかかつて春琴が指頭をもって老梅の幹を撫でたごとくにしたのであろうが手数の掛かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒を享楽しているもののごとく云わず語らず細やかな愛情が交されていた。按ずるに視覚を失った相愛の男女が触覚の世界を楽しむ程度は到底われ等の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身的に春琴に仕え春琴がまた怡々としてその奉仕を求め互に倦むことを知らなかったのも訝しむに足りない。しかも佐助は春琴の相手をする余暇を割いて多くの子女を教えていた当時春琴は一室に垂れ籠めてのみ暮らすようになり佐助に琴台と云う号を与えて門弟の稽古を全部引き継がせ、音曲指南の看板にも鵙屋春琴の名の傍へ小さく温井琴台の名を掲げていたが佐助の忠義と温順とはつとに近隣の同情を集め春琴時代よりかえって門下が賑わっていた滑稽な事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて鶯の啼く音などに聞き惚れていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を措いても直ぐ奥の間へ立って行ったそんな訳だから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。ここに一言すべきことはその頃道修町の春琴の本家鵙屋の店は次第に家運が傾きかけ、月々の仕送りも途絶えがちになっていたのであるもしそう云う事情がなければ何を好んで佐助は音曲を教えようぞ忙しい合間を見つつ春琴の許へ飛んで行った片羽鳥は稽古をつけながらも気が気でなかったであろうし春琴もまた同じ思いになやんだであろう


四、

師匠の仕事を譲り受けて痩腕ながら一家の生計を支えて行った佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを拒んだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚び起す媒介としたのであるから対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層己れを卑下し奉公の誠を尽して少しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔の自信を取り戻すように努め、今も昔のごとく薄給に甘んじ下男同様の粗衣粗食を受け収入の全額を挙げて春琴の用に供したその他経済を切り詰めるため奉公人の数を減らし色々の点で節約したけれども彼女の慰安には何一つ遺漏のないようにした故に盲目になってからの彼の労苦は以前に倍加した。てる女の言によれば当時門弟達は佐助の身なりが余りみすぼらしいのを気の毒がり今少し辺幅を整えるように諷する者があったけれども耳にもかけなかったそして今もなお門弟達が彼を「お師匠さん」と呼ぶことを禁じ「佐助さん」と呼べと云いこれには皆が閉口してなるべく呼ばずに済まそうと心がけたがてる女だけは役目の都合上そう云う訳に行かず常に春琴を「お師匠様」と呼び佐助を「佐助さん」と呼び習わした。春琴の死後佐助がてる女を唯一の話相手とし折に触れては亡き師匠の思い出に耽ったのもそんな関係があるからである後年彼は検校となり今は誰にも憚からずお師匠様と呼ばれ琴台先生と云われる身になったがてる女からは佐助さんと呼ばれるのを喜び敬称を用いるのを許さなかったかつててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがないむしろ反対にこの世が極楽浄土にでもなったように思われお師匠様とただ二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々と見えてきたのは目しいになってからであるその外手足の柔かさ肌のつやつやしさお声の綺麗さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到したいつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆の未熟さに比べて余りにも懸隔があり過ぎるのに驚き今までそれを悟らなかったのは何と云うもったいないことかと自分の愚かさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味えたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難を一転機として顕著な進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗めて来なければ芸道の真諦に悟入することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった誰も彼女の高慢の鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭に彷徨せしめ増上慢を打ち砕いた。思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊の時を消すために独りで絃を弄んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚として項を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩れる精妙な撥の音を訝しみあの三味線には仕掛けがしてあるのではないかなどと呟いたと云う。この時代に春琴は弾絃の技巧のみならず作曲の方面にも思いを凝らし夜中密かにあれかこれかと爪弾きで音を綴っていたてる女が覚えているのに「春鶯囀」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を窺知するに足りる
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