2014-5-12 15:06 /
提取自剧本。作为剧中剧的同时是剧透
没有打完第三章不要看。
翼梦上有人翻了前两话。我要不要把后面翻完呢(手上的坑太多了)


Time Capsule
作者:真神朋来


1「Joy to the World」

白いものが、鼻先をかすめた。
僕は立ち止まり、空を仰いだ。
鉛色の曇天から、一点透視法で綿雪が撒かれていく。
しんしんと。無為な時間が降り積むように、雪が落ちてくる。
まるで、砂時計の砂だ。

ならば、この雪片のひとひらひとひらは、時間の断片そのものだろう。
そうして、空から流れ落ちる、この白い時間がじきに、砂時計の底にいる僕を埋めてしまう。体も記憶も。罪も想いも。何もかも。跡形もなく。
黒い上着の袖についた結晶は、肉眼でも明瞭に視認できる、端整な六角形をしていた。
薄く積もった雪を踏んで、僕は再び歩き始めた。

町の大通りには、人影が少ない。
今日は電気供給停止日だ。商店は軒並み休業している。
もっとも、休業は単に、売るべき商品が払底しているせいかもしれなかった。
政府の経済予想を裏切って、慢性的な物不足は一向に回復の兆しを見せない。
それでも、クリスマスにはできれば子供にプレゼントを贈りたい、食卓にケーキとチキンを並べたい。そう願う人々が、肉や卵や乳製品や玩具の購入を急いだために、元々在庫不足気味の商店はここ数日、軒並み品切れを出していた。
今日あたりは闇市の方が賑わうだろう。
単色に沈んだ町並みの中で、唯一の原色は、クリスマスリースだ。赤、金色、銀色、緑。
だが、そのリースも、よく見ればすでに褪色していた。
無理もない。1999年以前のものを、倉庫から引っ張り出して、毎年使用しているのだろう。今時こんな贅沢なリースは入手困難だし、手に入ったとしても、非常に高価だろうから。
まして、華麗に瞬くクリスマス・イルミネーションなど、夢のまた夢だ。
深刻な電力不足にかんがみて、一切の電飾を許可制とする、いわゆる「イルミネーション条例」は、他の多くの自治体と同様に、当市でも施行されていた。

雪が激しくなってきた。
がらんとした灰色の町は、まるでゴーストタウンだ。
ゴーストタウン。幽霊の町。幽霊の町を彷徨う僕も、あるいはすでに幽霊なのかもしれない。
そんなことを考えながら、足元に落としていた視線を上げた。
そして、僕は息を飲んだ。

鮮やかな桃色のコートを着た少女が、雪の中に佇んでいた。

──彼女だ。

少女と呼ぶのさえ憚られるほどにあどけない、まだ十歳前後の女の子。
くるみボタンのついたサーモンピンクのコートに、揃いの白い毛糸で編まれたマフラーと帽子と手袋。足元は、茶色のショートブーツだ。栗色の髪が、肩を柔らかく覆っている。

彼女は、やや胸を反らすように後ろで手を組み、こちらに横顔を見せて、大きな瞳で宙を見上げていた。吐く息までが、白く再生されている。

Deck the halls with
bought of holly,
Fa la la la la la,
la la la.

どこからか、クリスマスソングが聞こえてくる。
録音ではない。変声期前の子供か女声か、素人のソプラノが歌う、生の歌だ。
この歌は知っている。「Deck the halls」、邦題は「ひいらぎ飾ろう」だ。
昔、彼女がクリスマスの飾りつけをしながら、楽しげに歌っていた。無論、それは日本語だったけれど。

ひーいらぎ かざろう
ファラララララ ラ・ラ・ラ

現実の歌と、記憶の中の歌が、ひとつに重なる。
そうか。彼女の出現の端緒は、この歌だ。

Troll the ancient
Yule tide carol,
Fa la la la la la,
la la la.

キャーロルを うーたおーう
ファラララララ ラ・ラ・ラ

彼女は、くるりとこちらに背を向けると、スキップを踏んで雪の道を進んでいった。足跡はつかない。
通りの奥に、教会があった。歌はそこから聞こえてくる。
彼女の姿は、その教会の扉に吸われて消えた。

See the blazing
Yule before us,
Fa la la la la la,
la la la.

かーがやく こーの よーる
ファラララララ ラ・ラ・ラ

「どうぞ! クリスマスには、子供達がキャロルを歌います」

教会のアプローチのステップに片足を乗せたところで、不意に、手の中にビラを押し込まれた。
首を回して、配布主を確認する。
白髪まじりのつやのない髪を団子に結った、小柄な中年女性だ。寒さのためか、小皺の浮いた顔は紙のように白い。ひび割れた唇に、まだらに塗られた口紅だけが、唯一の粧いだった。

「中に入ってもいいですか」

「え? ええ、と……そうねえ、今は練習中なんだけれど、部外者の方に入ってもらっていいものかどうか。いいのかしら? うん、いいことにしましょう、クリスマス前だもの、あなただけ、特別よ、特別」

「ありがとうございます」

僕は階段を上がり、扉を押した。
教会内部に足を踏み入れると、クリスマスソングが、大音量で弾けた。

だが、子供達の熱唱に興味はない。僕は素早く聖堂内を走査した。
──いた。
彼女は、すぐに見つかった。薄暗い教会の中、彼女の姿だけが、戸外と同じ鮮明さで白く浮き上がっていたからだ。
クリスマスツリーの天使の飾りの下に、さっきと寸分違わぬ、宙を見上げたポーズで立っている。吐く息は、相変わらず白い。

僕は、彼女が一番よく見える位置まで移動すると、壁に凭れた。
触れることはできない。言葉を交わすことも、意思を通わすこともできない。あれは、再生された過去の記憶だから。
それでも、彼女が現れた時には、その幻影が現実の風景に溶けて消えるまで、ただ見守るのが、僕の常だった。
その須臾の間のみ、僕は解放される。絶え間ない罪悪感と無力感、強迫観念といった病状が後退し、湯を注がれたように、ひび割れた心が、わずかながらもほぐれる。

今日は、幸運な日だ。最後に、彼女の姿を見られた。

Joy to the world,
the Lord is come.
Let earth receive
her King!

歌が変わった。
有名な賛美歌112番、「もろびとこぞりて」だ。

諸人こぞりて、迎えまつれ。久しく待ちにし主は来ませり、主は来ませり、主は、主は、来ませり。

「ねえ、あなた、キャロルが好きなの?」

すぐ隣で声がした。さっきビラを配っていた女性だ。

「よかったら、クリスマスのミサに来ない?」

樅の木の下の彼女から一瞬でも目を離すのが惜しくて、僕は視線を固定したまま、曖昧に頷いた。

「考えておきます」
実際には、クリスマスにミサに出るなど不可能だ。なぜなら僕は、その頃には消滅しているのだから。
だが女性は、声のトーンを上げて、よかった、と言った。

「是非いらしてね。当日は牧師様の貴重なお話を聴けるのよ。牧師様は、『楽土』から帰られた、徳の高い方なの」

僕は初めて、傍らの女性に目を向けた。
重たげな瞼の下の瞳が、狂熱をたたえて輝いていた。
「あなた、楽土のことは知っている? もちろん知っているわね、誰だって知っているわ、楽土では、選ばれた人々が、何不自由ない暮らしを送っているの。電気もガスもきれいなお水も好きなだけ、それこそ湯水のように使えて、お肉もお菓子もお洋服も、それ以外のどんな物だって、スーパーに行けば簡単にいくらでも手に入る。清潔で、治安がよくて、豊かで、何の心配もない世界。私だって、以前はそんな暮らしをしていた。あの暮らしに戻れるなら、私はどんなことでもするわ」

女性は甲高い声で、口早にまくしたてた。
どうも、困難な状況に追い込まれたらしい。この教会は、楽土主義者の巣だ。

「そういう都市伝説なら、聞いたことはありますが──」

「都市伝説なんかじゃない! 楽土は本当にあるのよ!」
金切り声で女性が叫ぶ。

仕方ない。折を見て逃げ出そう。
僕は、クリスマスツリーの方に目を戻した。とりあえず、彼女の幻影が消えるまでは、この人に好きに喋らせておくしかない。

「だって、牧師様は楽土へ行ったのだから! 選ばれた人間だけが、楽土に入ることを許されるのよ。信じられる? 楽土では、アレはなかったことになっているの。そこではどんな夢だって叶う、だから、牧師様はガーディアンを求めて楽土へ旅立った。結局、ガーディアンには会えなかったけれど、楽土の素晴らしさを広く世に伝えるために、牧師様はあえて、恵まれた暮らしを捨てて、お戻りになったんですって。私には真似できないわ、私が楽土にたどり着いたら、石にかじりついてでも、絶対にそこを離れない──」
ガーディアン。
僕は反射的に左耳に手をやった。女性は、その動作を目敏く見とがめた。

「ねえ、最初から気になっていたのよ、あなたのそのピアス、ガーディアンズ・ストーンでしょう? あなたみたいな真面目そうな子が、そんなピアスをするとは思えないものね。そう、やっぱり、あなたにはガーディアンがいるのね、あててみましょうか、あなたのガーディアンはお母様。違う?」

「違います」

「でも、その石の色は女性でしょう、あなた、ご家族は皆さん無事だったの?」

「無事でした」
「全員? 本当に? それは……運がよかったわねえ、家族全員揃っているなんて! ああ、不公平な話じゃないの、私なんて、息子と夫をいっぺんに亡くしたわ。夫と言ってもとうに離婚していたんだけれど──」

「母は先日亡くなりましたが」

「まあああ、そうだったの? それはお気の毒に。当ててみましょうか、大王病でしょう? あれは、患うと長いのよ、いっそ一瞬で消えた方がマシだったかと思えるくらい。お母様を亡くされたの、そう、それは、寂しいわよね。ねえ、こんな所では何だわ、中で熱いお茶でもいかが?」

And heav’n and nature sing.
And heav’n and nature sing.
And heav’n, and heav’n and nature sing.

少女の幻は消えかけていた。甘やかなピンク色が、暗い教会の壁に滲んでいく。
僕は、壁に預けていた体を起こした。帰るそぶりに気付いて女性がすかさず腕を掴んでくる。

「外は雪よ、小やみになるのを待つ間、お茶を──」

楽土主義の拡大は、こういった執拗な勧誘員の存在に負うところが大きいのだろう。
だが、今の僕には、勧誘につきあっている時間はない。
「放して下さい。用があるんです」

「そんなに急いで、どんな用事なの」

「自殺です」

女性は目を見張ったが、それでも腕は離さなかった。

「ま、まあ。何を言いだすの、どんなに辛くても死ぬなんていけないわ、神様はいつも見ているのよ、何がそんなに苦しいのか、話してみ──」

「神も楽土も、必要ない。僕にはガーディアンがいる。それ以外の救済など、不要だ。
見えますか、僕のガーディアンが。そこに──そのツリーの下にいる、あの小さな女の子が」
「えっ……」

怯んだように、腕を拘束する力が緩んだ。
宗教の勧誘員にとっても、童女の幻覚を平然と語る若い男は不気味なものらしい。

僕の指の先で、彼女は消えた。サーモンピンクのコートが闇に溶け、後には現実の風景、薄暗い聖堂の壁だけが残る。

僕は扉を押して、外へ出た。
女性は追ってはこなかった。クリスマスソングだけが、名残りを惜しむように、しばらく僕に従ってきた。
外は、激しい降りになっていた。
やはり、今日を措いて決行の日はない。自殺をするには最適の天気だ。

この雪が、僕を殺してくれる。

それは、甘美なイメージだった。
砂時計の底に倒れ伏した僕を、降り積もる、降り止まぬ白い時のかけらが、埋葬してくれる。体も記憶も。罪も想いも。何もかも。跡形もなく。
::
Joy to the world,
the Saviour regains.
Let men their songs
employ.

──世界にとってのよろこびだ、救い主は復活した。
さあ、歌を。

不規則に舞う飛雪。吐き出した言葉さえ、今なら一瞬にして凍結し、風に散らされて、誰の耳にも届かない。

「救い主は、現れない……」

何故なら、彼女は僕が殺したから。

だから、今度は、僕が、僕を殺す。

亡き母は、僕に限りない愛情を注いでくれた。
だから、母の存命中は死ぬこともできなかった。死病を得た母を、逆縁の不孝で鞭打つのは忍びなかったので。

だが、その母も臨終を迎えた。周囲に助けられて葬儀を執り行い、簡単にだが遺品も整理した。僕を繋ぎ止めるものは、もはやこの世に存在しない。
やっと念願かなって、自分を罰することができる。
彼女の元へ、逝くことができる。

単色の町を、僕は雪を踏んで歩んだ。
頭蓋の内では、朗らかなキャロルがこだましていた。

諸人こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 来ませり。

山は、町とは比較にならないほど雪が深かった。
歩くたびに膝まで埋まる。

「こんな日に何をしに行くんだい」とバスの運転手に怪しまれながら、終点の停留所で下り、林の中を歩いてきた。
たいした距離ではないのに、随分時間と体力を消費してしまった。

突然、足元が抜けた。
雪溜まりに腰まで没して、僕は転倒した。
梢に積もっていた雪が、大量に落下してくる。

……もう、ここでいいか。

この天候だ。車道から少し入っただけの林の中であっても、これから行うことを、誰かに発見阻止される可能性は低い。
雪に沈み込みながら、僕はナイフを取り出した。
襟元をはだけ、指先で頸動脈の位置を確認する。このままでも凍死は可能だろうが、確実な方がいい。

首筋に吸いつく、ひやりとした金属の感触。

僕は、ナイフを引いた。
どくん、と異常な強さで脈が跳ねた。

鮮血が、熱で雪を穿って、赤い斑点を散らす。

頸動脈が激しく脈拍つ。心臓が肩口に移動したかと錯覚するほどだ。
痛いというよりむしろ、皮膚の内側から、木槌で乱打されるような律動を感じた。
ぬるぬると、首から肩、肩から胸へと、熱い液体が広がっていく。だが、予想よりも出血に勢いがない。寒さのせいか、あるいは刃を充分に引ききれなかったのかもしれない。
かといって、重ねて自傷を繰り返すほどの気力は残っていなかった。

僕は目を閉じて、雪に体を預けた。
このまま横になっていれば、目的は果たせる。

さらさらと、どこかの梢から雪が流れる音がする。

雪。
それに、太陽の光。月の満ち欠け。星の運行。降る雨。吹く風。流れる雲。
天文と気象。天に属する存在は、すべからく人に時間の経過を認識させる。
太古の人々は、時を計るために、例外なく空を見上げた。

再び、砂時計のイメージが脳裏に浮かぶ。
正しくは、「雪時計」と言うべきか。ガラスを伝って流れ落ちる雪が、時計の底に倒れた僕を、埋葬していく。

さらさら さらさら さらさら
どれくらい、そうしていたことだろう。

鈍磨した感覚が、不意に異様な気配を捕らえた。
荒い息遣いと、乾いた生臭さ。

僕は覚醒した。

目の前に、獣がいた。

野犬だ。骨が出るほど痩せこけた、大型の雑種が二匹。
薄汚れて元の毛色も判別できないが、一匹は黒っぽく、もう一匹は白っぽい。
血の臭いに惹かれてやって来たのだろう。

一瞬、僕は躊躇した。
死体が喰われるのは、構わない。だが、生きながら犬の餌になる事態は、さすがに回避したかった。
僕は、ふらつく体を起こし、ポケットから再度ナイフを取り出した。
黒犬が飛び掛かってきた。
宙に血の花が咲く。
高く鳴いて、鼻面を切られた犬は後退した。
だが、その隙を衝いて、もう一匹が腕に噛みついてきた。
うなじを狙って、ナイフを叩き込む。
白犬は体躯を躍らせて絶命したものの、牙は深々と腕の肉に食い込んだままだ。

失血と寒さで眩暈がする。思うように体が動かない。
腕に突き立てられた牙を剥がそうと、悪戦苦闘する間に、黒犬が目前に迫っていた。やられる。

すぐ近くで、バァーン、と花火に似た金属音が弾けた。

火薬の臭いが鼻を突く。黒い獣がくずおれた。
僕は顔を上げた。

舞い飛ぶ雪の中に、黒衣の人影が立っていた。
黒いコート、黒いズボン、黒い靴、黒い手袋を嵌めた手に、握られた拳銃までもが黒い。死神を連想させる姿だ。
ただ、背の中ほどまで流れる髪は鮮やかな金色をしていた。

黒衣の人物は銃をしまうと、近付いてきて、僕の傍らに膝をついた。
間近に観ると、彫像のように整った目鼻立ちをしている。
無表情な白い顔に、瞳だけが嵌め込まれたように青い。
コーカソイドの年齢はわかりにくいが、まだ二十代だろう。
喉元に絡まるカメオの、真紅の林檎を抱いた蛇の意匠が、妙に禍々しく印象に残った。

「傷を見せろ」

命令と同時に、雪に顔を押しつけられた。
言葉は日本語だ。訛りはほとんどない。
僕の首の傷を点検して、黒衣の青年は舌打ちした。

「どうせ切るなら、手首にしろ。止血しにくい」

手品のように、雪の上に救急キットが並べられる。素人離れした手際の良さで、青年は応急手当を始めた。
どうやら、この人物の登場で、僕の自殺は未遂に終わったようだ。
しかし、この青年は誰だろう。お節介な通行人にしては、用意周到すぎる。かといって、パトロール隊員にも見えない。

「あなたは、誰だ」

「私は、キング」
本名なのかあだ名なのか不明だが、それが名前らしい。
首の止血をなんとか終えたキングは、続いて、腕の圧迫点に紐を巻き始めた。

「……こちらも、酷いな。
まったく、狼が犬に喰われてどうする、洒落にもならん」

上腕を絞め上げられながら、僕は眉を寄せた。
僕の名字の「真神」は、「狼」を意味する古語だ。多分「オオカミ(大神)」と語源は同じだろう。この青年は──

「あなたは、僕を知っているのか」

魔物のような青い瞳が、ちらと一瞥をくれた。

「知っている。お前は、真神朋来だろう」
「私は、お前の母親に頼まれて来た者だ。彼女は、自分が死んだ後、遺言に気付かないまま、お前が早まって死を選ぶのではないかと案じていた。
母親の勘恐るべし、だな。お前が携帯の電源を入れていなければ、手遅れになるところだった。バス停からの足跡が、雪ではっきり残っていたのも、幸いした」

なるほど、ではキングは、携帯電話の位置確認サービスで、僕の居場所を確知したのだ。

近年の犯罪の急増を受けて、裕福な家庭の子供を中心に、普及しているサービス。母がどうしてもと言うので、そういえば数カ月前に加入していた。
応急処置を済ませると、キングは立ち上がって膝を払った。

「下に車を停めてある。歩けるか」

「ああ」

足を引きずりながらも、僕はキングの肩を借りて、なんとか歩き始めた。

拳銃を所持し、流暢な日本語を操る外国人。応急手当ての手際の良さ、加えて、相当距離があったのに、黒犬を一発で仕留めた腕の冴え。どう考えても堅気ではない。
この黒衣の青年は、未知の世界から、何か異様なメッセージを携えてきた使者なのだろう。
その内容を確認するまで、ひとまず死ぬのは延期だ。
僕は尋ねた。

「母の遺言とは、何だ」

「詳しくは知らん。
だが、それを知ればお前が死のうとするはずはないと、お前の母親は考えていた。私もそう思う」

「見当もつかない」

「赤い石」

耳朶に息が触れた。僕に肩を貸したまま、キングが顔をこちらに向け、耳のピアスを凝視しているのだ。
黒衣の使者は、囁くように、告げた。
::::::

「お前のガーディアンは、生きている」

──世界が、転回した。

雪時計が倒立する。僕の上に(堆積/たいせき)していた時間のかけらが逆流し、音を立てて剥がれてゆく。
天は地へ。地は天へ。時計の底辺で死滅寸前だった僕の心もまた、虚空に投げ出され、天の穴に吸われてゆく。
転回。倒立。逆流。

彼女が、生きている?

まさか。嘘だ。嘘に決まっている。

だが、もしも。万にひとつ、それが真実なら──。

それからしばらくの間の記憶は空白だ。

問いを発することすら忘れ、茫然自失したまま、気がつくと車に着いていた。

「掛けていろ」

後部座席に横たわり、渡された毛布を被った。毛布には煙草の臭いが染みついていた。

「お前の母親が入院していた病院で、いいな」

エンジンがかかる。
カーステレオから、音楽が流れてきた。この時期のラジオ番組は、右も左もクリスマスソングだ。
::::
Joy to the world,
the Saviour regains.
:
──世界にとってのよろこびだ、救い主は復活した。

傷が熱を持って疼いてきた。僕は目を閉じた。
助かりたい、と心底から思った。
まだ死ねない。今死ぬわけにはいかない。確認しなければ。彼女は、ガーディアンは、本当に──。

諸人こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 来ませり

主は 主は 来ませり

いつか、僕は無意識に、その歌詞を口ずさんでいた。

繰り返し繰り返し。祈りのように。



2 「Letters Left」

目を覚ますと、病室にいた。
ベッドのぐるりを囲むカーテンレールが、冬の陽を受けて、白い天井にぼやけた影を隈取っている。
僕は、どうしてこんな所に……。

ああ、そうか。

もろびとこぞりて。
皮膚を裂く刃の感触。
雪の上に散った血痕。
金色の髪をなびかせた死神。

一瞬にして、ここに至る経緯が脳裏に蘇る。
僕は首筋に手をやった。傷があるはずの場所は、ガーゼ地の包帯で覆われていた。
麻酔はすでに切れたようだが、鎮痛薬が効いているのだろう。皮膚の感覚はあるものの、縫合された傷の痛みはさほど感じない。遠くで響く太鼓のように、沈んだ疼きだ。
代わりに、上げた腕に軽い痛みを覚えた。皮膚の下に食い込んだ異物感は、点滴の針か。点滴……何の点滴だ?
僕は、枕の上で頭を巡らせた。
そして、そこで初めて、病室に僕以外の者の姿があるのに気付いた。

ベッドから離れた壁際の椅子に座り、こちらを凝視している、中年の男。
屋内だというのに、喪服の上にコートとマフラーを重ねている。不機嫌そうに腕を組んで、眼鏡の奥の瞳は、見るものを射殺すような銀光を放っていた。相当に怒っている。
会うのは一年ぶりだろうか。
この人を怒らせる理由なら、たしかに僕には心当たりがあった。それもひとつではない、数えきれないほど。

「……父さん」

呼びかけると、父は緩慢な動きで椅子から立ち上がった。
次の瞬間、目の奥に火花が散った。

「……う」

抜く手も見せず、力任せに平手打ちされたのだ。
俯いた顔を、胸倉を掴んで上向かせられた。眩暈がする。

仮にも医師の怪我人に対する態度ではない。この人にしては珍しく、理性を飛ばすほど激怒しているようだ。

「頸動脈をかき切っただと? どういうつもりだ!」
「死ぬつもりだった」

正直に答えると、今度は反対側の頬を張られた。

「貴様っ……さんざん親に迷惑をかけておいて、挙句の果てが、それか?
お前が発症してから、母さんは看病のために仕事を休んだ。俺と暮らすのがお前のストレスになるからと、俺は単身赴任した。ガーディアン症候群の権威にかかるために、母さんはお前を連れてこの町に引っ越した。おかげで俺は、嫁の死に目にも会えなかった。
それもこれも、全部お前のためだ。なのに、自殺だと?
ふざけるな!」

「……父さんにとっても、都合が良かったはずだ」
「何?」

僕は昂然と顔を上げた。

「家族に煩わされず研究に没頭できる環境は、父さんにとっても好都合だったはずだ。
神経症の僕も、死病を患った母さんも、あなたには邪魔でしかなかったろうから」

「お前、本気で言っているのか? 俺は医者だぞ!」

「だから? 家族の病気は自分の手で治したかったとでも言うつもりか。臨床医でもないくせに。
父さんの知識は人を救わない。単なる自分の欲を満たすための手段だ。僕にしろ母さんにしろ、父さんには救う意思も、救える手立てもなかったはずだ」
「それが親に向かって言う台詞か! ……まったく、減らず口は相変わらずだ」

父は病衣から手を離すと、荒い息をつきながら僕を睥睨した。冷たい眼だった。

「なるほど? 離れている間も、私への怨みつらみを、その腐った腹の中で、たっぷり発酵させていたわけだな。転院治療はまったくの無駄だったということか。
自殺未遂も、私に対するあてつけか?」

父の一人称が、「俺」から「私」に切り替わった。冷静さを取り戻してきたらしい。
僕は首を振った。
「それは違う。僕が死んでも、父さんにダメージを与えられるとは思っていない。
僕はただ、生きていたくないから、死のうとしただけだ」

「ひとり息子を亡くして、本当に私が何の痛痒も感じないと思っているのか」

「仮に父さんが痛痒を感じるとしても、それは僕には無関係な、どうでもいい事情だ。自殺を中止する理由にはならない。
その点は、母さんとは違う。母さんが生きている間は、僕は自由に死ぬこともできなかった」

「母さんが生きている間は死ねなかった、か……」

父は大きく息を吸い込むと、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「その母さんの死を、私に伏せたのは、何故だ。
主治医の説明を受けた。母さんの病状の悪化から死までは、間があったそうだな。
お前が速やかに悪化を伝えていれば、私は充分臨終に間に合ったはずだ。なのにお前は何らの手段も講じず、病院側には、私は海外での仕事で来られないと、嘘までついた。
今回、お前の傍迷惑な自殺未遂で病院から連絡を受けるまで、私はつれあいが死んだことすら知らなかったんだぞ!? こんな馬鹿な話があるか!
お前が私を憎むのは勝手だが、桜は私の妻だ。お前は、私が伴侶の最期に立ち会う機会を奪い、彼女と最後に交わせたはずの言葉を奪い、葬儀に参列して彼女の死を悼み受け入れる手続きまで奪った。お前にそんな権利があるのか、朋来? 嫌がらせにしても度を超している!」
僕は、ため息をついた。
多分、父なりに母を愛していたのだろう。その意味で、母の読みは当を得ていたと言える。

「嫌がらせではない。母さんの希望だ」

「何?」

父は怪訝な顔をした。この様子では、手紙は未読らしい。

「母さんに、頼まれた。自分が死んで灰になるまで、父さんには何も報せるなと。僕はそれに従っただけだ。
母さんは──」

僕はそこで、一度言葉を切った。
「母さんは、自分のクローンが作られるのを、恐れていた」

父の顔が、歪んだ。

──ねえ、朋来。オルフェウスの話を知っている?
そう、亡くなった奥さんを返してもらおうと、地獄まで訪ねていったっていう、天才詩人の話よ。
私、若い頃は、なんてロマンチックなお話だろうと思っていたわ。そこまで愛してくれる旦那さまなら、きっと素敵だろうって。
でもね、最近、思うのよ。オルフェウスは、傲慢で恐ろしい男だったんじゃないかって。死者を蘇らすなんて、本来は人間には許されないことでしょう。日本にも黄泉比良坂の話はあるけれど、あれは神様だったじゃない。でも、オルフェウスは人間でありながら、自分の才能をもってすれば可能だと思ってしまったのね。そして実際、できてしまった。
オルフェウスの後について地上への道を歩きながら、奥さん、どんな気持ちだったのかしら。もしかしたら、オルフェウスが禁を破って振り返った瞬間、ほっとしたのかもしれない。
──私は怖いのよ、朋来。まさかとは思う、考えすぎだと笑われるだろうけれど、あの人ならやりかねない。
私はそんなことは望んでいない、私は安らかに眠りたい。その点で、私は朋来に賛成よ。個体クローンの産生は、人間の尊厳を傷つけるわ。
だから朋来、お願い、お父さんには報せないで。私の体が焼かれて、体細胞の核がひとつ残らず塵に還るまで。
そして、すべてが終わったら、その時はこの手紙を渡して、伝えてちょうだい。私は、それでも──

「母さんから、口頭で伝言を預かった。
『愛している、ごめんなさい』とのことだ。
詳しいことは、父さん宛ての手紙に書かれていると思う。一昨日投函したから、もう到達している頃だろう」

父はよろめくように椅子に腰を下ろすと、頭を抱えた。
相当衝撃を受けている。攻めるなら今だ。

「父さん」

「何だ」

「小夜ちゃんに、会わせてくれ」

父は、完全に意表を衝かれた様子で、顔を上げた。
「……母さんに、何か聞いたのか?」

僕は天井を仰ぎ、大きく息を吐いた。
鎌に獲物がかかった。やはり。

「ありがとう、父さん。今の言葉で確信できた。
彼女は、生きている。そして、父さんはその居場所を知っているんだな」

父は舌打ちをした。

「何を言っている、あの子は亡くなった。いい加減諦めろ」
「それができれば、ガーディアン症候群になどなっていない。
教えてくれ、父さん。もし僕の死が僅かでも父さんに苦痛をもたらすというなら、教えてくれ、どうしたら彼女に会える。
彼女は僕の生きる希望だ。たとえクローンだとしても、彼女に再会する望みがある限り、僕が自ら死を選ぶことはない。
教えてくれ、父さん、彼女はどこにいるんだ!」

父は立ち上がると、肩を竦めた。

先刻までとうって変わった冷笑が、その頬に浮かんでいる。傲慢で沈着で、そして手強い。いつもの父だ。

「小夜音ちゃんなら、天国にいるのだろうさ」

「父さん!」
「お前は考え違いをしている、朋来。小夜音ちゃんのクローンなどいない、そんなものを探しても時間を無駄にするだけだ。
私はそろそろ帰る。母さんに線香を上げていきたいが、マンションの鍵はここか? 借りていくぞ。後で返す」

父は腰を上げると、ハンガーに懸かった僕の上着のポケットから、勝手に鍵を取り出した。
そして、病室のノブに手をかけたところで、何かを思い出したように、振り返った。

「そういえば、朋来。
お前を病院まで運んだのは、まだ若い、長いブロンドの外国人だったそうだな。名乗りもせずに去ったそうだが」

「ああ」
「どういう関係だ」

「どう……と言われても、答えようがない。無関係だ。通りすがりの善意の第三者だろう」

「エデンの蛇を、知っているか?」

僕は虚を衝かれた。

「エデンの蛇……?
旧約聖書に登場する、禁断の果実を食べるようイブをそそのかしたという蛇のことだろうか。それがどうかしたのか?」

「いや。知らないなら、いい」

言うと父は、扉を閉める音も高く、出て行った。
部屋にひとり残された僕は、眉を顰めて考え込んだ。
エデンの蛇……。
これは、父が故意に暗示した手がかりだ。
何だろう。何かが引っかかる。その言葉を想起させる物を、ごく最近、目にしたような。
僕は目を閉じると、記憶の中にある画像を検索し始めた。

蛇。
知恵の実。禁断の果実。
雪の白。
コートの黒。
髪は金色。
そして、
喉元を飾るのは、真紅の林檎に絡まった蛇の──カメオ。
記憶の再生にポーズをかけ、僕は目を開いた。あった、これだ。
「キング」と名乗る青年が、身につけていたアクセサリー。

あれが父の言う「エデンの蛇」に関連する徽章の類だとしたら、やはりあの青年は何かを知っている。本人も、「お前の母親に頼まれて来た者だ」と述べていた。
早急に探し出して、話を聞かなければ。

そう結論が出たところで、僕は枕に頭を戻した。とにかく今は、回復に専念することだ。目的もなく生を持て余していた頃とは違う、もはやこの体は、死んでも傷ついてもいい抜け殻ではないのだから。
ベッドのぐるりを囲むカーテンレールが、冬の陽を受けて、白い天井にぼやけた影を隈取っている。
僕は、天井に向かって手を伸ばした。
光の中に失った、僕の魂。

「小夜ちゃん……」

僕の退院許可は、クリスマス過ぎまで下りなかった。
頸部の傷が意外に深かったことに加え、退院後に再度自殺を図るのではないかと、神経科の主治医が危惧したせいである。
父は本当に、母に線香を上げると即刻、単身赴任先に帰ってしまった。仮に僕が退院しても、自宅には迎える家族はいない。人恋しいクリスマスに無人の家に戻すのは危険だと、主治医は判断したのだろう。
通院治療で僕の病状を具に診察してきた医師だ。今さら、もう死ぬ気はないと強調しても、仲々信用してもらえない。年末年始は祖父母宅に招待されていると伝えて、やっと本日退院を許可された。

「お世話になりました」

そして今、総合病院の一階で会計を済ませ、僕はようやく自由の身となった。
病院のホールを縦断しながら、レシートをポケットにねじ込む。中にガサリと触れた先客があった。引っ張り出してみると、一枚のチラシだ。

そうか。あの日、教会の入り口で、楽土主義者の女性に渡されたビラだ。ポケットに突っ込んだまま、失念していた。
僕は何の気なしに、ビラを裏返した。

「↑ ↓ α ∪ ω ∴ ∞」

心臓が、躍り上がった。

そこだけ切り取ったように、まっすぐ眼に飛び込んできた、記号の羅列。
世界を覆う光。彼女を奪う光。
点が弾け、無限へと拡散していく。
ホワイトアウト。

そうだ、たしかに、あれを表すには文字よりも記号の方が相応しい。あの声はむしろ、熱いとか眩しいとかの、五感を通じた刺激に近かった。
その使用言語を問わず、聞く者の意識に直接烙き付けられた、声なき声。圧倒的な意思。
── ↑ ↓
天から振ってきた

── α ∪ ω
アルハにしてオメガ
始まりにして終わり

── ∴ ∞
而うして無限であるものが

「──あんた」/

「あんた、落ちましたよ」
嗄れた声が、僕を現実に引き戻した。
杖をついた老人が、僕に向かってビラを差し出している。自失している間に手から零れたものを、拾ってくれたらしい。

軽く頭を下げて、僕はビラを受け取った。

「××牧師 クリスマス特別座談会
『私のたどりついた楽園』
↑↓α∪ω∴∞──あの声を聞いた、同胞のみなさん。
つらいこと、苦しいこと。あなたの思いを語って下さい。
話すことで、道が見えてくることもあります。」

僕は、音を立ててビラを裂いた。
二片を四片に、四片を八片に、さらに十六片に。粉々になるまで引き裂いてから、ゴミ箱に紙吹雪を散らす。
呑まれたようにその様を凝視していた老人が、ほっと嘆息した。

「なあ……ワシゃよう知らんけど、その数学の式みたいなの、アレのことじゃろ。若い人はそういう書き方するんだってね。
あんた、アレに誰か取られたんかい」

「……はい」

「そうかい。ワシんとこも、二人取られた。婆さんと、孫。
あんなことは、もうないと思うとったんだがねえ……。
ワシ、若い頃は東京にいたんよ、兵隊と大空襲で家族取られてね、一緒だね、ああいうもんには逆らえんよ、いくら真面目に生きとっても、相手を選ばんとかっさらっていきよる」
呟くと、老人は杖を鳴らしつつ、外来受付へと向かった。

「取られる」、か。
世界大戦を体験した老人らしい言い回しだ。
戦争、地震、津波、疫病。人災天災問わず、個人の力で回避不可能な(災禍/さいか)は古来、擬人化されてきた。当たるを幸い、人の命を爪に掛け引いていく、怪物あるいは無慈悲な神。
僕の望みは、あるいはその神への反逆に当たるのかもしれない。

それでも僕は、彼女に会いたい。
ただひと目でいい、会いたいんです。

腰を屈めた老人の後ろ姿を見送りながら、僕は誰に言うともなく、胸の内でそう呟いていた。

自動ドアを潜り、僕は総合病院の建物の外に出た。
風は冷たいが、天気は好い。空は澄んだ水色を湛えている。
さて、どうやって家に帰ろう。
賃貸マンションからは普段、自転車で通院していた。歩けない距離ではないが、体力が低下している今、徒歩での帰宅は避けた方が無難だ。
となると、バスで帰るか、あるいはタクシーか。

車寄せで思案していると、滑るように目の前に黒いセダンが停車した。パワーウィンドウが下がる。

「乗れ」

言って、運転席の青年はサングラスを外した。
そんなことをしなくとも、忘れようも見間違えようもない顔だ。金髪碧眼、秀麗な目鼻立ち。
僕はドアを開けると、後部座席に乗り込んだ。

マンションのリビングに通すと、キングはまず、母の遺影に手を合わせたいと申し出た。
正座して合掌する様は、意外に板についている。日本語の流暢さといい、日本暮らしが長いのだろう。
もっとも、詳しいのは日本文化に関してだけではないようだったが。
病院からの道順を説明するまでもなく、キングは僕の家を知っていた。聞けば、毎日のようにマンションへ僕の帰宅を確認に来ていたという。
「今日はたまたま病院へも足を向けてみたら、お前を拾えた。運がよかった」
と、キングは言った。
病院への訪問を極力避けたのは、人目に立つのを警戒してのことだそうだ。この容姿では無理もあるまい。
ともあれ、一刻も早い会談を切望していたのは、僕だけではなく、相手も同様だったらしい。
キングが遺影の前を離れ、ソファの向かいに腰を下ろす。それを待って、僕は前置きもなく切り出した。

「生前、母を訪ねたことがあったそうだな」

キングは長い髪をかきあげて、眼を細めた。サングラスは外している。

「看護婦に聞いた。病院の喫茶室で話しているのを見たと」

「覚えられていたか……。
ああ、一度だけ直接会った。それ以前から、様々なチャンネルを通じて接触は試みていたが。
吸ってもいいか?」

「どうぞ」
キングは馴れた仕草で煙草に火を点けた。
紫煙が宙に上昇する螺旋を描く。青い瞳が僕に据えられた。

「桜に会った際に、頼まれた。自分が死んだら、息子を導いて欲しいと。
遺書は読んだか?」

「遺書? 母さんのか?」

「他に誰がいる。
どこかに残っているはずだ、遺書と、必要なデータが」

「待ってくれ。思い出してみる」
僕は眼を閉じた。
母が遺書を書いたなら、入院中だ。だが、病院から引き取った遺品の中に、それらしき封書はなかった。
「遺書と、必要なデータ」とキングは言った。
母はノートパソコンを病室に持ち込んでいた。何のデータか知らないが、遺書と「データ」がセットだと言うなら、パソコン内か、あるいは記録媒体に保存されている可能性が高い。
記録媒体。CD、DVD、USB、FD、SD。
USBとSDに関しては、母は持っていなかったはずだ。したがって、この二つは除外していい。また、ノートパソコンは、FDドライブを内蔵していないタイプだった。
遺書という事柄の性質を考えても、使うなら、事後的なデータ改変がしにくいCDかDVDだろう。だが、あれはどこへでも隠せるというものではない。ならば。
僕は記憶を再生する。
母の病室に流れていた、流麗なドイツ語の歌曲。

Knabe sprach;
ich eche dich,
Roslein auf der Heiden,
Roslein sprach;
ich steche dich,dass du
ewig denkst an mich,
und ich will′s nicht
leiden.

「ここの歌詞、好きだわ」と、母が言った。
母自身は歌舞演奏の才能が皆無の、いわゆる音痴だったが、音楽は好んで鑑賞していた。
死の数日前もCDをかけながら、母はその曲の歌詞について、僕に語った。

──この詩は、ゲーテの作よ。ちょっとしたお話風になっていてね、一番で少年がきれいな薔薇を見つけて、最初は見ているだけで満足だったのに、二番では我慢できなくなって、薔薇に言うの。「お前を折ってやる」って。
でも、それに対する薔薇の答えがふるっているじゃない。
「それなら、あなたの指を刺しましょう、永遠に私を思い続けずにいられないように」ってね。
忘れられないように、相手の指に棘を突き立てる。大人しく死んではやらない。すごい発想だと思わない? あんまり感心したから、この歌詞、パスワードに使ってしまったわ。

言って母は、痩せこけた頬におっとりした笑みを浮かべた。
何歳になっても、どこか夢見がちで少女のような雰囲気を残した人だった。それは死の直前まで変わらなかった。

──私がいなくなったら、朋来はどうするの? お父さんとはやっぱり暮らせない? ……そう。
ああ、気がかりだわ。私も、せめて朋来を現実に縫いとめておけるように、棘のひとつも残して死んでいけたらいいのに。

僕は立ち上がると、本棚からCDラジカセを取り出した。母が入院中愛用していたものだ。
プラグにコンセントを差し込み、CDのイジェクトボタンを押す。
吐き出されたトレイに載っていたのは、CD-Rだった。
白いレーベル面に油性マジックで、母の署名と日付が記されている。筆跡もたしかに母のものだ。
「それか?」

「わからない。確認してみる」

僕は、ノートパソコンをリビングのテーブルに据え、起動した。
CDをドライブにセットする。自動的に開いたウインドウに、いくつかのファイルとフォルダのアイコンが表示された。

「……当たりだ」

間違いない、これだ。母の遺書。
一度深呼吸してから、僕は「朋来へ」と名前のついたファイルを、クリックした。

「 朋来へ

あなたがこの手紙を読む頃、私はもうこの世にいないと思います。
長い間、看病をありがとう。朋来を看病するはずの私が、逆に朋来に看取られることになってしまいました。ごめんね。
私の財産は、すべて朋来に遺します。大した金額ではありませんが、なんとか大学へ行けるくらいはあるでしょう。
できればお父さんと仲良くしてもらいたいけれど、もしどうしてもお父さんの世話になるのが嫌だというのなら、そのお金を費って下さい。
お願いだから、学校にはきちんと通ってね。学校の勉強は朋来には退屈なだけかもしれないけれど、学校で得られるのは、学課の知識だけではありませんから。
何から話せばいいのでしょう。
実は、この手紙を書いているのは、朋来への感謝だとか、学校のことなどを伝えるためではありません。勿論それもないわけではないけれど、それ以上に私には、朋来に言い残したことがあるのです。
今まで、どうしても言えませんでした。
今でも、こんなものを遺すべきかどうか、悩んでいます。
だからこの遺書は、少しわかりにくい形で残しておこうと思います。見つけられなければ、それはそれでいいわ。
朋来にはできれば、あんなものには関わらず、前を向いて歩いていってほしい。その歩みを惑わせるだけなら、黙ってお墓まで持っていった方がいい秘密ですから。
けれど一方で、問題の根幹に向き合うことが、かえって朋来の生きる力になるのかもしれない、とも思います。
覚えていますか。朋来は昔、私に言ったことがありましたね。死にたい、と。
あれほど胸を抉る、悲しい、つらい、情けない言葉を、私は一生のうちで他に聞いたことがありません。頭を殴りつけられたような気がしました。
勿論、私は死にもの狂いで止めました。小夜音ちゃんのことは、とてもいたましく思います。けれどそれでも、朋来が生きていてくれることの方が、私にはずっとずっと大事だった。
世界中のすべてを犠牲にしても、自分の子供が無事ならばそれでいい。醜い考えだとは思いますが、親の本音です。死を思うまでに朋来を追い詰める小夜音ちゃんを、怨みさえしました。あの子はあなたのガーディアンだというのに。
あの時私が、朋来が死んだら生きている甲斐はない、お母さんも死ぬ、と言うと、あなたは呟きました。「じゃあ、母さんが死んでから、死ぬことにする」と。
あの、朋来の昏い瞳が、今でも忘れられない。
それでも、私が死ぬまでには何十年もある、だから大丈夫だと高をくくっていました。
でも、どうやらもう間もなく、私は死ぬようです。あなたを残して。
気がかりで気がかりで、たまらない。万一私が死んで、私という(重石/おもし)が取れた朋来が、自殺でもするようなことがあったら。そう考えると、死んでも死にきれません。
それで、朋来にもしものことがあった場合に助けてくれるよう、ある人に頼んでおきました。もしかしたら、もう会っているかもしれません。若いけれどしっかりした人です。きっと力になってくれるでしょう。

前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。
朋来。
小夜音ちゃんは、生きています。
「楽園」と呼ばれる場所で。
…………………………………………
…………………………………………」

読み進めるうちに、自分でも顔色が変わるのがわかった。
こんな。こんなことが、まさか。
父の言葉が耳の奥に甦る。「小夜音ちゃんなら、天国にいるのだろうさ」。

やがて、遺書を読了して顔を上げると、キングが灰になった煙草を携帯灰皿に食わせているところだった。何本目のものかは不明だ。

「終わったか?」

僕は頷いた。

「ああ。君は、この内容を知っていたのか」
まさか、とキングは肩を竦めた。

「具体的な遺書の中身までは知らん。ただ、『楽園』絡みの情報については、ありがたく提供を受けた。桜の死後、お前が死なないよう見張ることを交換条件に」

「それも、『エデンの蛇』の活動か?」

キングは一瞬目を瞠って、それから、ふ、と微笑した。

「まあな。
もっとも、桜との交換条件がなくても、私はお前に接触した。お前を経由した方が、『楽園』へは近道だ。
行くんだろう? ガーディアンに会いに」
耳元で澄んだ音が転がる。石が鳴いている。ちりちりと。
僕は耳朶を押さえた。ピアスが熱を帯びていた。

倉敷博士が、すんなり僕と話をしてくれるとは思えない。
父の出方も気になる。
事は容易には運ばないだろう。それでも。

「ああ。彼女に、会いに行く」

「同行しよう」

当たり前のように言って、キングは新しい煙草に火を点けた。



3 「Pilgrims」

母の遺書を読んだ後、僕がまず試みたのは、倉敷博士に連絡を取ることだった。
電話と、メール。だが、それらは虚しい結果に終わった。
電話は取り次がれず、メールの返信はなしのつぶて。ついには着信を拒否されるに至った。
最後の手段と、節を枉げて父に仲介を依頼したが、「会いたくないそうだ」の一言で切り捨てられた。
倉敷博士の怒りは、五年以上を経過してなお、少しも衰えていないらしい。当然だろう。

「直接乗り込むしかないな」

と、キングは言った。

「だが、訪ねて行ったところで、はたして博士が会ってくれるだろうか」
「まず、門前払いだろうさ。その場合は、強行突破になる」

「犯罪だな」

「犯罪だ」

僕は腹を括った。できれば穏便に事を運びたかったが、他に手段がない以上、やむを得まい。
母が知れば泣くだろうと思った。逆にこの事態を予測したゆえに、母は瀬戸際まで口を閉ざしていたのかもしれない。

キングは、マウス片手に研究所のデータを縦覧しながら、手際良く侵入計画を立てていった。
「『楽園』の守りは強固だ。決行は、職員の数が減る年始が適当だろう。警備員も正月休みを取って、セキュリティはコンピュータ任せになる」

研究所の見取り図にセキュリティの内容、職員の配置とシフト。
すべて母が職務規程に違背して遺してくれた、貴重なデータだ。無論、研究所の研究内容自体についても、詳細な資料が揃えられていた。
「産業スパイの才能がある」とキングは評したが、休職中の身でこれだけの情報を収集できたのは、たしかに一種の才能だろう。優しげで人当たりのよい、あの母が背任を犯しているなど、疑う者は皆無だったに違いない。
あるいは、才能などではなく、母はただ単に必死だっただけかもしれなかった。子供を生き延びさせるためなら、女親は死力を尽くすものだと、世間は言う。
「年末年始も、倉敷博士は研究所から出ないのか?」

「おそらく、出ない。私達も見張っているが、今のところ倉敷は一歩も外に出てこない。この引きこもり状態は、暮れだろうが正月だろうが、多分変わらないだろう。家族を亡くしたやもめには、『楽園』以外に帰る場所などないさ。
会議などには出ているらしいが──」

「倉敷博士の次の出張予定は、三月だ。そんなには待てない。
第一、会議の具体的日程は未定、警備の規模内容も不明。そんな状態で、博士と確実に接触の機会を持てるとは思えない」

「その通り。一方、研究所の情報は掴んでいる。出先で捕まえるより、本拠地に乗り込む方が確実だ」
「では、『楽園』への侵入予定日は一月一日。出発は明日。発つのは早朝ということで、いいな。大晦日の帰省ラッシュに巻き込まれたくない」

「わかった。
だがキング、このセキュリティをどう突破する気だ?
いくら警備員が休暇中でも、異状が伝われば警備会社からは人が駆けつけるだろう。何より、コンピュータは年中無休だ。倉敷博士の組んだセキュリティシステムを破れる人間がいるとは、僕には思えない」

例の教会の女性のような楽土主義者、キング達のような反楽土主義者を問わず、都市伝説の舞台である「楽園」を目指す輩は多い。研究所のセキュリティシステムは難攻不落だった。

「それに関しては、心配ない。助っ人を用意している」
「助っ人? ハッカーか」

「ハッカーというより、壊し屋(クラッカー)だな。変わり者だが、腕はいい。
壊すことしかできないが、どんなシステムでも、チーズのように切り刻む。その筋では『最終兵器』と呼ばれていた。
倉敷が創造の天才なら、あれは破壊の鬼才だ。倉敷とお前が話す時間を稼ぐくらいは、やってくれるだろう」

翌十二月三十一日、早朝。
僕は「最終兵器」と顔を合わせた。

吐く息が凍る、寒い朝だった。路上に刷かれた薄雪で、闇の底がほのかに白い。
人通りが極端に減少するこの時間、節電のため街灯は四本中三本までが消されている。まばらに灯った水銀灯の下、銀色に切り取られた闇の内側に、スノードームのように小雪がちらついていた。
街灯の下で、迎えに来た車のトランクに荷物を積載して、僕はキングを振り返った。

「ひとりか?」

「いや。昨日言っただろう、助っ人を連れてきている」
そう言われても、スモークガラスで車内の様子は確認できない。キングは後部ドアを開けた。

「今朝は早かったせいで、すっかり眠りこんでいるようだ。
ここで紹介しておいた方がいいな。──きゅぴ~ん」

きゅぴ~ん?
呟きの意味を訝しんでいると、車内からさらに意味不明の、甘い声が上がった。

「うう……きんぐちゃん……? きゅぷー」

女だ。それも若い。というより、この声、まさか子供……?

「起きて、朋来に挨拶をしなさい。
まだ日は出ていない、外へ出ても大丈夫だ」
「きゅー、きゅー……きゅぴ~ん!」

後部座席で毛布の塊が蠢動し、やがて眠そうに目をこすりながら、一体のアンティック・ドールが車から降り立った。

「ふぁーあ、きゅぷぷぷ……
きゅっぴ~~~んん!!!
きゅぴ~んだよ、きゅぴ!」

脳天に突き抜ける高音で、人形は叫んだ。
意味がわからない。

「きゅぴ~ん、こちらは真神朋来だ」

言葉を失くしている僕に代わって、キングが紹介する。
これは人形ではなく人間の少女で、「きゅぴ~ん」というのが名前らしい、と僕はやっと認識した。「変わり者」だとキングは言っていたが、予想を超越した奇人ぶりだ。
僕は少女の目線に合わせて、腰を屈めた。

「よろしく。真神朋来です」

僕は改めて、少女を観察した。
少女も僕を、しげしげと凝視した。
僕の胸に、馬鹿げた疑問が去来した。

これは、人間か?

人間だろう。だが、モノトーンの光に照らされ、鏡を砕いたような粉雪を纏ったその姿は、ひどく人形じみている。
年齢は十歳前後。瞳の大きな愛くるしい顔立ちだが、その表情はどこか不安定で、微妙に狂った印象を与えた。
服装も奇妙だ。襟の詰まったワンピースにボンネット、ブーツに手袋で、顔以外の肌を隙間なく覆っている。喉元を飾るのは、キングと同じ、林檎を囲む蛇のカメオである。
ゴスロリと言うのだろうか。身に着けた服飾品のどれもが、レースを多用したデザインで、夜明け前の暗さが僕の色調の認識を誤らせているのでなければ、黒一色で統一されていた。
水銀灯の照明のせいか、肌は異様なほど白い。ウエーブした長い髪も、闇の中で白く輝いている。だが、それが人工の脱色・染色でないことは、間もなくわかった。瞳に光が映り込んだ瞬間、赤く輝いたのだ。真紅の瞳。アルビノか。
先天的に色素を生成できないアルビノにとって、紫外線は大敵だ。「まだ日は出ていない、外へ出ても大丈夫」とキングが言ったのも、だからだろう。肌を覆う服装も、あるいはそのためかもしれない。

赤い瞳の人形じみた少女は、僕を指差すと、不意に笑った。
アルビノの唇がこんなに赤いものだとは、初めて知った。

「とーます!」

「え?」

「きかんしゃ、とーます!
きゅぴ~ん、とーますのお歌、歌うね。
♪がんばれ 負けるな とーます!
強いぞ 負けるな とーます!
ゆけゆけ きゅぷるぷ きゅぷ きゅっぴ~ん
きゅぷるぷるぴ きゅぴ きゅっぴ~ん♪」

困惑する僕をよそに、きゅぴ~んはでたらめな歌を歌い続けた。どう反応していいかわからない。
「よかったな」

と、大してよくもなさそうに、キングが声をかけてきた。

「お前の名前は『トーマス』に決まったらしいぞ」

「決まったと言われても、困る。何故トーマスなんだ」

「知らん。朋来とトーマス、『ト』が合っているだけマシだろう。私などはひと月の間、『ピカチュウ』と呼ばれ続けた」

「何故、ピカチュウ」

「さあ。髪が黄色いからじゃないか?」

「『きゅぴ~ん』は、名前か?」
「ああ。きゅぴ~んが自分で自分につけた。
とにかくこの子は、勝手な名前でしか人を呼ばない。それ以前に、どうでもいい人間は意識にも入れない。名前をつけられたということは、お前はそれなりに気に入られたんだろうさ。
それと、きゅぴ~んは人の話もほとんど聞かない。まともな会話は無理だと思ってくれ」

「この子が『最終兵器』なのか」

「そうだ」

僕は首を振った。

「人形かと思った」
途端に、それまで機嫌よく歌っていたきゅぴ~んが、ぴたりと口を噤んだ。そして、キングのコートの裾を掴むと、不安げに顔を上げた。

「きんぐちゃん、きゅぴ~ん、人形?」

「きゅぴ~んは人間だ。心配するな。もう車に乗りなさい」

「はーい」

きゅぴ~んは大人しく後部座席に乗り込んだ。ドアが閉められる。
キングは僕を振り返ると、低く抑えた声で、告げた。

「朋来。きゅぴ~んに『人形』は禁句だ。二度と言うな」
「了解した、すまない。だが、何故だ?」

「人形師の母親に、『お前は人形だ』と言い聞かされて育ったらしい。最近まであの子自身、自分を人形だと思っていた」

ああ、そうか。
僕は納得した。少女から受ける印象の奇怪さは、それが原因だったのだ。

キングは車の前部扉を開けると、助手席に転がっていた分厚い道路地図を僕に渡した。頁に何枚も付箋が挟まれている。

「お前は隣に乗れ、朋来。ナビを頼む」

僕は頷いた。
「わかった。三分だけ時間をもらえるか。
この暗さでは、走行中は地図を読めない。明かりのある場所で、先に地図を記憶しておく」

「楽園」に向かう途中、僕達は山中のコテージに一泊した。
何故こんな場所に投宿するのか、疑問に思ったが、特に異を唱える理由もない。キング達がフロントに顔を覚えられるのを嫌ったため、宿泊手続きは僕が済ませた。

「予定より早く着いたな」

部屋に荷物を下ろしながら、キングは言った。
コテージに到着したのは、午後二時半頃だった。短い冬の日も、さすがに暮れてはいない。

「大晦日だから、もっと混むかと思ったが。お前のおかげで、迷わず着けた」

「ナビは得意だ。覚えた地図を、ただ頭の中に呼び出しておけばいい」
「当たり前のように言う。普通はそんな芸当はできん」

「そうらしいな。
僕にとってはこれが普通なので、よくわからないが」

僕は、意識すれば写真的な精確さで、視覚情報を細部まで記憶することができた。印象的な場面は、無意識に覚えこんでいることも多い。
「直観像」と呼ばれる特殊な記憶力だが、そのメカニズムは大部分が未解明だという。
今回、キングは高速道路を避け、地道を利用した。「高速は足がつく」と言っていたから、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)や検問を警戒してのことだろう。
おかげで随分と入り組んだ経路をたどることになったが、僕は最初の三分間で必要な情報を記憶した後は、一度も道路地図を開かなかった。
「便利な記憶力だな」

「そうとばかりも言えない。不便なこともある」

「例えば?」

「忘れたいことが、忘れられない。
ことに、意思と無関係に過去の映像が再生されると、幻覚を見るはめに陥る」

「幻覚? どんな幻覚だ」

「彼女が現れる。昔のままの姿で、繰り返し」

「ガーディアンのことか? お前は──」
キングは険しい顔になって何かを言いかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。

「まあ、いい。
とりあえず、陽のあるうちにやることをやっておこう」

言ってキングは、楽器でも入っていそうな黒いケースを開いた。中から現れたのは、楽器ではなく猟銃だった。

「夕飯の材料を獲りに行く。朋来、お前も来い。
きゅぴ~んは留守番だ、誰が来ても鍵は開けるな」

「はーい」

きゅぴ~んはTVから振り返ると、勢いよく手を挙げた。
きゅぴ~んは先刻から、歌番組に夢中だった。
一緒に歌っているつもりらしいが、歌詞も曲もどう聞いても歌手の歌っているものとは似ても似つかない。

「わるものが来たら、しびび?」

「ああ、スタンガンで攻撃して構わない。
では、行ってくる。大人しく留守番ができれば、今夜は肉が食べられるぞ」

きゅぴ~んは歓声を上げた。

「きゅっぴ~~~ん!!
♪お肉好き好き、おいしいよー。
血を抜いて、皮はいで、食べちゃうぞー。
ごちそう、ごちそう、ごーちーそーーー♪
きんぐちゃん、とーます、いってらしゃーい」



山道は雪に覆われて、歩きにくかった。

タン、タン。タン。

進むうちに何度か、低く雲が垂れた空に、乾いた硬い音が響くのを聞いた。最初は何の音とも判別つかなかったが、じきに思い当たった。

「銃声か」

「ああ。この付近は猟区になっている。少々銃を撃っても怪しまれない。練習場所にいいと思って、立ち寄った」

「何の練習だ?」
「射撃だ」

「君が?」

「私が今さら練習してどうなる。お前だ、朋来。
この辺りでいいか」

林の中のやや開けた場所で、キングは立ち止まり、コートの懐から銃を取り出した。
漆黒の拳銃。肩に担いだ猟銃とは、無論別物である。

「明日の楽園突入の際に、お前にこれを預ける」

「銃を……使うのか」
「逆だ。できれば使うな。
楽園では何が起こるかわからない。念のため銃は持っていた方がいいが、かといって、やたらにぶっ放されては収拾がつかん。銃を手にしても頭に血がのぼらないよう、せめて撃ち方は身につけておけ」

キングはそこで、一度言葉を切った。

「ただし、これは人を殺す道具だ。お前が嫌なら、手にする必要はない。明日は丸腰で行け。
どうする?」

迷ったのは、数秒間だった。
彼女と手を繋いで、木漏れ日の中を駆け抜けた。目も眩むばかり輝きに満ちていた、あの夏の日。
あの日々から、なんと隔たった場所に、僕は来てしまったのだろう。
彼女に会うために、こうしてまた一歩、僕は彼女から遠ざかる。

「撃ち方を、教えてくれ」

キングは頷いた。

「わかった。
だがその前に、ひとつだけ答えろ」

撃鉄を起こす金属音が、冷気をかすかに振動させた。
キングの手の中で、銃口が微動だにせず僕を狙っていた。

「お前は、ロリコンか?」
「……………………………………………」

一瞬、何の冗談かと思った。だが、キングは冗談を言っている顔ではない。

「違う」

「子供の頃のガーディアンの姿を、幻に見ているのだろう」

「だから小児性愛者だというのは、いくらなんでも論理の飛躍が過ぎる。子供に興味はない。それ以前に、老若を問わず、積極的に異性を欲する情動自体が、僕には欠落している。
僕が求めているのは、彼女だけだ。年齢も美醜も関係ない、彼女しかいらない。彼女以外は心底どうでもいい」

険しい顔のまま、キングは銃を下ろした。
「なるほど、別の意味で重症だな。
ガーディアン症候群だとは聞いていたが」

「医者も匙を投げた」

「きゅぴ~んに手を出したら、殺す」

「出さない」

キングは、僕の手首を掴むと、強い力で引き寄せた。

「では、預ける。裏切るな」

耳元で囁かれ、掌の上に拳銃が載せられた。
拳銃は意外に小さかった。いわゆる回転式拳銃(リボルバー)だが、銃身もグリップも短い。コンパクトなデザインだ。
片手に収まる小さな凶器は、だが、紛れもない鋼鉄の密度でずしりと僕を圧迫した。

「小型で比較的扱いやすいタイプの銃だ。重量は600グラム弱。500ml入りのペットボトルより少し重い程度だな。
装弾数は五発。それ以上の弾数はお前には必要ないだろう。
銃身の上に突起があるのが、わかるな」

「ああ」

「それで照準を合わせる。とりあえず、構えてみろ」

それから一時間にわたって、僕は射撃の基礎を教示された。
姿勢。照準の定め方。撃鉄の操作法。シングルアクション。ダブルアクション。特に姿勢については、再三注意を受けた。
──肩の力を抜け。こんなに強張っていてどうする。腕を伸ばせ。違う、こうだ。それでいい。

実際に銃を撃つまでに、半時間近くを費やした。さらに半時間を経て、弾倉が空になる頃には、腕が痺れてまともに上がらなくなっていた。冬だというのに、下着は汗で濡れていた。

「上達が早いな。こんなところか」

涼しい顔で言うと、キングは携帯灰皿に煙草をねじこんだ。

「そろそろ仕上げに入ろう。移動するぞ」

僕は雪の上に座り込んだまま、顔だけを上げた。

「どこへ行くんだ」
「この先の池に、鴨が集まる」

「鴨?」

「夕飯だ」

「ああ」

そういえば、そんなことを言っていた。
キングは微笑すると、僕に向かって猟銃を差し出した。

「他人事のような顔をするな。撃つのはお前だ、朋来」

紅白歌合戦を最後まで見ると主張していたきゅぴ~んは、レコード大賞が終わる頃には、TVの前で寝息を立てていた。
きゅぴ~んをベッドまで運んでいったキングは、リビングに戻ると、掘り炬燵の角を挟んだ隣に脚を入れた。

「よく眠っていた。普段は宵っ張りなんだが」

「早朝から車で移動して、疲れたのだろう」

「ああ。それに、よく食べていたしな。お前の分まで」

忘れていた悪心がぶり返して、僕は胃腸の辺りを押さえた。今日の夕飯が、まだもたれている。
夕食の席で、鴨鍋を前に米飯と野菜ばかりを口に運ぶ僕を見て、きゅぴ~んは誤解したらしい。
「とーます、ねぎ好き? きゅぴ~ん、お肉好き」と、自分の器から僕の器へネギを移動させて、キングに叱られていた。

「肉はろくに喉を通らない様子だったが。嫌いか」

「好きでも嫌いでもない。ただ、自分が殺した肉だと思うと、食べられなかった」

飛び道具でも、獲物を仕留めた手応えをああも生々しく感じるものだとは、思ってもみなかった。
僕は銃を撃ち、鴨に命中させた。羽毛に吸われた弾丸が肉を裂き、骨を砕く感触を、あの時たしかに僕の手は知覚した。
群れが飛び立った後の池に、ただ一羽瀕死の鴨が残された。鴨は、全身を朱に染め、左右非対称に上下する羽根で、水面を激しく打った。
その時の僕は、銃声から鼓膜を保護するための耳栓をしていた。減音された世界で、断末魔の鳥の舞踏は、キングが僕から猟銃を取り上げて、止めを刺すまで続いた。
猟銃の操作は、リボルバーとは異なる。
狙いそのものも、地に伏せた僕に覆いかぶさるようにして、キングがつけた。
リボルバー射撃を学ぶためだけであれば、あの狩猟は必要なかった。キングはただ、自分の手で命を奪う行為がどういうものかを体験させるために、僕に引き金を引かせたのだ。

TVでは、若い歌手が賑やかなナンバーを熱唱している。
キングは灰皿を引き寄せると、煙草に火を点けた。

「肝に銘じておけ。鳥一羽でそのザマだ、人を撃てば、背負うものの重さはこの比ではない」
「一度血が流れれば、取り返しはつかない。トリガーを引くのは、最後の手段にしておくんだな。
それでも、どうしても人に銃を向けなければならなくなった時は、できるだけ手足を撃って動きを止めるようにしろ。頭や胴は的が大きい分狙いやすいが、体の枢要部を撃てば、法廷でも殺意ありと認定されて文句は言えん」

可能ならば、そんな事態は回避したいものだった。

「僕はただ、彼女に会いたいだけだ。彼女に顔向けできなくなるような悪行には、なるべく手を染めたくない」

「いい心がけだ。望みを叶えるのに犠牲はつきものだが、安くつけばそれにこしたことはない」

僕は、改めてキングを見た。
金色の洗い髪を背に流し、白い横顔を見せて、煙を吐いている。黒のタートルセーターに黒のジーンズという何の変哲もない服装で、キングはそれでも美しかった。
こうして話していても、思考は意外に常識的で、言葉も明晰だ。こんな人物が何故、懐に銃を呑み、非合法な活動に従事する境遇に身を置いているのか。考えてみれば不思議だった。

「質問してもいいだろうか」

横顔がこちらに傾く。

「何だ」

「望みを叶えるには犠牲がつきものだと、君は言った。
ならば、君の望みはなんだ? 君は、どんな望みのために、楽園を目指している」
キングは笑った。だが、瞳には剣呑な光があった。

「今さらだな。こちらの素性をまったく詮索する様子がないから、てっきり興味がないのかと思っていたが」

「彼女に会うためなら、悪魔とでも手を組む。それに、『エデンの蛇』については、ネットで少々調べた」

「何が出た」

「第一。『エデンの蛇』は、反楽土主義組織のひとつだ。
第二。『エデンの蛇』は穏健派だと言われているが、その実態と活動内容はほぼ不明。そんな組織はそもそも存在しないとの見方も強い。
第三。近年結成され、各国で議席を伸ばしている××党と、『エデンの蛇』には繋がりがある」
「第四。今秋、S市の×××研究所が閉鎖した裏には、『エデンの蛇』の暗躍があった。
第五。『エデンの蛇』には、金髪の美男美女ばかりを集めた外国人の特殊部隊が存在する」

キングは軽く噎せた。

「なんだそれは」

「流言か?」

「少なくとも今の日本には、白人は私しかいない。頭を染めた者や、アジア籍の人間ならいるが。
特殊部隊なんぞあれば、私がこんな苦労をしているものか。目立たないよう気を配ってはいたんだが」
要は、ひとりで特殊部隊伝説を創るほどに、八面六臂の働きをしたということだろう。優秀な人材に仕事が集中するのは、どこの組織も同じらしい。

「きゅぴ~んは、日本人なんだな」

「純粋の日本人だ。
優秀なハッカーがいると聞いてスカウトに出向いたら、白骨化した遺体と一緒に、子供が暮らしていた。母親が死んだことが理解できなかったらしい。
懐かれてしまったので、今は主に私が面倒を見ている」

凄惨な話だ。

「他にも、ネットの情報に誤りがあれば指摘してもらいたい」
「細かいことだが、『穏健派』というのは、違うな。
無闇に暴れはしないが、必要があれば実力に訴える」

「それは、行動を共にしていてわかった。他には?」

「さて、何かあったか。
お前こそ、私といて、何か他にわかったことはないのか?」

はぐらかして、キングは逆に探りを入れてきた。
僕の方には、答えを出し惜しむ理由はない。

「今までの観察から、僕が断言できるのは、以下の二点だ。
第一。『エデンの蛇』は反楽土主義組織の中でも、『楽園』の存在を肯定した上で、『楽園』を排除することを最終目標とする団体だ」
「楽園」「楽土」「天国」「浄土」。

人により宗派により呼び方は様々だが、いずれも約一年前から爆発的に流布した都市伝説の、理想郷のことである。
いわく。この世のどこかに、前世紀のままの営みを継続する町がある。そこでは大王降臨によって奪われた命が蘇り、誰もが豊かで安逸な昔通りの生活を送っている。
甚だ信憑性に乏しい話ではあるが、この伝説を信じる者の数は、瞬く間に膨れ上がった。そして彼らは、楽園の存在を信仰し、楽園の一員となることを切望する団体を多数形成した。

「楽土主義者」。様々な派があるが、一括してそう総称される。
まったくの新興宗教もあれば、例のビラを配っていた教会のように、キリスト教・仏教等の既存宗教に寄生するケースも見られる。
だが、楽土主義が驚異的な広がりを見せる一方で、弁証法的に、楽土主義に対立する勢力も台頭してきた。こちらは「反楽土主義者」と呼ばれる。

反楽土主義者は、楽園の存在を否定する。ただ、その否定の仕方は、大きく二通りに分かれた。
第一は、楽園の存在自体を信じず、否定するもの。
第二は、楽園の存在自体は肯定した上で、楽園を破壊すべきだと唱道するもの。
「エデンの蛇」は、反楽土主義組織の中でも、間違いなく第二の派に該当するはずだった。母と僕を利用し、楽園に侵入した上で、内部から楽園を瓦解させようとしている。

僕は言葉を続けた。
「第二。現在のところ、『エデンの蛇』は、他のどの団体より『楽園』に肉薄している。明日には楽園の中枢へ侵入を果たす予定だ。以上」

乾いた拍手が響いた。

「ブラボー、その通りだ。
そう、S市の研究所は単なる関連外郭施設だったが、今度は間違いない。楽園の『脳』に踏み込める。
しかし、そこまでわかっていて、よくも私達と協力する気になれたものだ」

「言っただろう。彼女に会うためなら、悪魔とでも手を組む。同床異夢は承知の上だ。
それより、僕の最初の質問には答えてもらえるのだろうか」
「君の望みはなんだ、キング。楽園を目指すことで、君は何を得ようとしている。答えたくなければ、それでもいい」

キングは天井を見上げると、煙を吐いた。長く細く、一直線に伸びた紫煙が宙を裂く。
白い指の間で、煙草はゆっくりと灰になっていく。

僕はリモコンを取ると、いい加減うるさくなっていたTVの電源を落とした。大晦日の静寂が、霜のように部屋に降りた。

「殺したい相手が、いる」

やがてぽつりと、キングは言った。

「楽園にいる人間か?」
「さあ。いるのかいないのか、生きているのか死んだままなのか、それすらわからない。
あれは、お前達と同じ、楽園の『子供』だった。お前達より薹は立っていたがな。ああ、通っていた研究所は別だ」

キングは煙草を強く灰皿に押し付けた。揉み消された火が転移したかのように、瞳に蒼い鬼火が灯る。

「もしも記憶再生クローンとして復活しているのなら、私は奴を殺さなければならない。
だが、たとえクローンでも、人を殺せば殺人だ。できれば楽園にいる内に片をつけたい。二度と蘇らないよう、DNAの塩基情報の最後のひとかけまで、この手で完全に、完膚なきまでに、存在を抹消してやる」

低い声に凄まじい憎悪がこもる。僕は寒気を覚えた。
「何があったんだ」

「虐待を受けた。十歳から六年間、私は人間ではなく肉の塊だった。くる日もくる日も、屠殺場でミンチにされた。
奴は、人の皮を被ったモンスターだ。あの男を殺さないことには、私は生きていけない。
……朋来」

名前を呼ばれて、本能的に僕は身を引いた。
靭やかな指が、僕の耳に触れる。
魔物のようなシアンの瞳が、妖しい艶を帯びた。

「お前はどうして、そこまでガーディアンを求める?」

耳朶の上で、爪がピアスの形を柔らかくなぞった。
美形ではあるが色気はむしろ希薄だという、キングに対する認識を、僕は改めた。今まではただ、牙を隠していただけだ。

「私は、お前のようなガーディアン症候群の患者を見ると、どうしようもなく腹が立つ。
ガーディアンを至純の魂として神聖視し、崇め、恋い慕い、心を病み、しまいには自己嫌悪から自殺を図る。
馬鹿か、お前は? ガーディアンは守護天使などではない。
彼らがお前達を護ったのは、自分の欲のためだ。薄汚い執着から出た行為に過ぎない。清らかな愛が、聞いて呆れる」

「そうまで断言できるのは、君もガーディアン持ちだからか、キング」
「ああ。二千夜にわたり私を苛み続けた男が、私のガーディアンだ。
お気に入りの玩具を護って、奴は石になった。濁った、不透明な、出来損ないのオパールのような石だった。そして奴は、今も私に取り憑いている。
求めるのはガーディアンだけ、それ以外には欲情しないと、お前は言った。お前が恋している相手は、幻だ、朋来。偶像に操を立てて、一生を不能で過ごす気か?」

肉食の魔性が、艶やかに牙を剥く。
唇が重ねられた。

「よせ」

僕はキングの体を押し戻した。呪縛が解ける。
キングは髪をかき上げて、笑った。

「靡かないか。つまらん」

「靡いたらどうする気だったんだ。君は、男嫌いだろう」

「さて。別に寝てもいいが、愉しめんぞ。私は不感症だ」

「遠慮しておく」

僕は首を振った。それにしても。

「よくもこんな、壊れた人間ばかりが集まったものだな」

僕の慨嘆に、ああ、とキングが首を傾げた。
「今回の旅の道連れのことか? 当たり前だろう、そうでなければ、楽園への巡礼に出ようなどとは思わん。
案山子は脳味噌、ブリキの樵は心、ライオンは勇気、そして迷子の子供は帰郷。
真っ当な方法では埋められない欠落を抱えているからこそ、満たされようとエメラルドの都を目指す」

「まやかしの都だ」

「仕掛け人をカーテンの後ろから引きずり出せば、お前の勝ちさ。オズの魔法使いも、そろそろ色眼鏡の細工に限界を感じている頃だろう」

「だといいが」
僕は耳のピアスに手をやった。
最後に会った時の、倉敷博士の絶叫を思い出す。

──返せ、どうしてお前がそれを持っている、返せ、返せ!

あの日から。
彼女を欠いたあの日から、世界は色彩を喪失した。

空もなく海もなく、日も照らず雨も降らず、ただ砂を噛むように単調な単色の虚無が、不断に連続する。
無声の慟哭は剃刀まじりの烈風となり、干涸びた体から血と肉を引き毟って吹き荒ぶ。叫んでも、声は自分の中の空洞にこだまするだけで、どこへも届かない。時間は僕から剥落するように過ぎ、夜と朝の境界も分明ではない。

思えばあの夏から、僕はずっと、この石を唯一の支えに、あてのない巡礼の旅を続けてきた。

「お前の石は、美しい色をしている。きっと気立てのいい娘だったのだろう。
試すような真似をして悪かった。おやすみ」

煩悩落としの鐘の音を待たず、僕達は眠りについた。

明日になれば、新しい年が明ける。
永かった旅路も、漸くひとつの決着を迎えるはずだった。



4 「Into the Capsule」

ある日、あなたが思い立って部屋の整理をしたとする。

やがて、あなたは押し入れの奥から、ひとつの段ボール箱を発見する。
中から転がり出たのは、七年前に亡くなった肉親の、思い出の品が、三点。

その人の写真と、
その人からもらった手紙と、
その人の声が録音されたMD。

さて、この三つの品の中で、もっとも故人の面影を生々しく蘇らせ、あなたに涙を流させる物は、どれでしょう。
答えは「MD」なのだそうだ。
無論、個人差はあるだろう。
人によっては、いや手紙の方が泣ける、という人だってあるかもしれない。
ただ、僕が見たテレビ番組では、その実験に参加した五組の被験者のことごとくが、亡き人の声を耳にした瞬間に最も激しく泣き崩れていた。だから、100パーセントの真実ではないにしろ、それなりに普遍性のある答えだとは思われる。

声、というのは、不思議なものだ。
通常は、肉体が存在して初めて発される。そして、発した次の瞬間には、跡形もなく消え去っている。
生身の体がその時その場所で、自分に真向かって生きてあることの証明。それが声だと、僕たちは無意識のうちに思い込んでいるのだ。
声は実体に付随する、とのこの思い込みは、エジソンが蓄音機を発明してから一世紀以上経った今でも、僕たちの中に確固として根を下ろしているらしい。

だからこそ、人は泣くのだ。
もはやこの世から消滅した肉体の置き土産。懐かしい、愛しい亡霊が、機械越しに語りかけるのを聞いたときには。

目の前で大事な人が語っている。それが単なる録音再生、機械によるまやかしだと、現代人の理性では理解しながらも、感情では納得しきれずに、だから人は、涙を流す。

研究所の廊下で棒立ちになりながら、僕の脳裏に去来したのは、そんな、この場にはそぐわない、感傷的とも言える考察だった。

『非常事態です。当研究所内のセキュリティに問題が発生しました。外部から侵入者があった模様です。
異状エリアは、Dブロックです。
現在、異状エリアの隔離が行われています。
警備員はただちに現場に急行して下さい。
一般職員は、避難プログラムに従って、すみやかに避難もしくは待機して下さい。
個別の避難ガイドは、各部屋のパソコンの「EMERGENCY」の赤いアイコンをクリックすると、立ち上がります。
これは訓練ではありません』

天井に取り付けられたスピーカーから淀みなく流れるのは、あらかじめ用意されていたに違いない、エマージェンシーガイドだ。
だが、奇妙なことにその声は、まだあどけなさの残る、小さな女の子のものだった。

その第一声を耳にした瞬間。
僕は、動けなくなった。

彼女だ。

間違いない、彼女の声だ。
あの夏に失われた、僕の守護者(ガーディアン)。

……ああ……。
僕は額を押さえて、呻いた。
ああ、また、あれが始まった。

見たものをあまさず覚え込む「直観像」の能力が、壊れたDVDプレイヤーのように、やみくもな「再生」を始める現象。
例のフラッシュバックが、また、始まってしまったのだ。

僕は目を閉じた。
そうしないと、現実の視覚と記憶の視覚が二重写しになって眩暈を起こすからだ。
閉じた瞼の裏のスクリーンに、細密な記憶画像たちが、凄まじい高速で無作為にフラッシュしていく──。

画像、1。
緑が濃い影を作る獣道で、すりむいた膝を抱えて、べそをかく彼女。
画像、2。
うららかな陽のあたる研究所の子供部屋で、小さな手をひらめかせて、組み木のパズルに興じる彼女。

画像、3。
公園のベンチで、足をぶらぶらさせながら、大きな麦藁帽子の影で、アイスクリームを舐める彼女。

画像、4。
朝顔模様の浴衣を着て、川原から橋の上の提灯行列を、無心に眺める彼女。

画像、5。
机上のマイクに向かって、伸び上がるようにしながら、朗読ソフト用のサンプル音声を、吹き込んでいる彼女。
目当ての画像にたどりついたことで、やっとフラッシュバックが止まった。
そう、これだ。

(画像、5。
机上のマイクに向かって、伸び上がるようにしながら、朗読ソフト用のサンプル音声を、吹き込んでいる彼女。)

彼女は、父親が開発中の朗読ソフトのサンプルに、声を提供していた。僕もその場で見学していたから、はっきり覚えている。
今流れている声も、あの時録音したものに違いない。
つまり、倉敷博士は、以前にサンプリングした幼い娘の声を、研究所のコンピューターの音声として使っているということなのだろう。

何故、いきなり研究所のスピーカーから彼女の声が流れてくるのか。
その理由はわかったが、しかし、理由がわかったところで、僕の動揺はやまなかった。

浅い呼吸を繰り返しながら、僕は壁にもたれかかった。

苦しい。
立っていられない。
全身の毛穴が一斉に収縮していくのがわかる。
真冬だというのに冷たい汗が腋を伝い、激しい動悸がドクドクと全身を揺さぶる。こめかみの脈打つ音が頭蓋に響いて、嘔吐しそうだ。

体が灼ける。
肺が爛れる。
自分のものではないように麻痺した全身の感覚の中で、懐の拳銃の質量だけが、奇妙なほど明瞭に知覚された。

駄目だ。動けない。

僕は焦った。
きゅぴ~んの試算によれば、コンピュータをどう騙しても、研究所の警備プログラムが非常事態を宣言してから、警備保障会社の応援が駆けつけるまでの所要時間は、十二分。警察の到着は、それより五分後。
新手が現れてもしばらくはキング達が保たせてくれるだろうが、「完全な撃退は無理だと思え」と予め言われている。

「私達にできるのは時間を稼ぐことだけだ。十五分以内に片をつけろ。それを過ぎれば、私達は撤退する」と。
十五分以内に、僕が倉敷博士のもとに到着し、彼を説得し、こちらに取り込まないことには、八方塞がりである。

こんな所で暢気に衝撃にひたっている暇などない。あと少しで目的地だ、動かなければ。

動け。
動くんだ、僕の体!

けれど、焦慮に歯噛みする一方で、その時の僕は、新鮮な驚きと、そして、奇妙な安堵をも噛みしめていた。
声を聴いただけで、動揺のあまり、身体が動くことすら拒絶する。
ここまで強烈な、ほとばしるばかりに激しい感情が、僕にもまだ残っていたのか。ああ……よかった、と。
──典型的な、「ガーディアン症候群」。
──「ガーディアンによって、生きながらその魂を
死の国にさらわれた」症例の一つ。

僕をそう診断した、かかりつけの神経科医がこの状況を知ったら、なんと言うことだろう。
快復不能な感情鈍磨に陥っていたはずの僕が、今や、嵐のように強い感情に心身をもみくちゃにされている、などとは。

懐かしさ。
愛しさ。
切なさ。
怒り。
渇望。
よろこび。
悲しみ。
これとひとつに名付けることすら不可能な、混沌とした狂おしい感情に、胸をつまらせて、ほとんど泣き叫びかけているなどとは。医師は到底信じないだろう。

僕の心は、死んだわけではなかった。
こんな場合だというのに、そうとわかったことが、嬉しかった。

そう。
彼女さえ、守護者(ガーディアン)さえ取り戻せれば、あるいは僕はもう一度、笑うことを許されるのかもしれない。
そのためにも、今は動かなければならなかった。楽園はすぐそこだ。動いて、走って、彼女にたどり着かなければ。
動くんだ、動け、体!
ありったけの気力を振り絞って、僕はよろよろと壁から体を引き剥がした。

と、

『Emergency.
A trouble has occurred in this laboratory.』

不意に放送が英語に切り替わった。

やはり僕の知っている人間からサンプリングしたものだろうか。聞き覚えがある声だったが、少なくとも彼女ではない。
知的で明晰な、大人の女性の声だ。
彼女の声にほとんど金縛りになっていた僕は、それでやっと呪縛から解放されて、再び走り始めることができた。

蛍光灯の光を逆しまに映し出す、のっぺりした廊下に、トレッキングシューズの重い靴音が刻まれていく。

『Something wrong in block D.』

研究所の職員はほとんどが休暇中のはずだ。数少ないワーカホリックもすでに避難したのだろう。白衣の影すら見えない廊下に、放送だけが律儀に流れる。

見覚えのない廊下だ。
つまり、ここから先には、幼い頃の僕は一度も入ったことがないということになる。

さて、どう進もう?

  a.右手の扉を開ける
  b.進んで左手の扉を開ける
  c.廊下を右に曲がる
  d.廊下を左に曲がる
  e.廊下をまっすぐ進む
  f.仲間にきいてみる


d.廊下を左に曲がる
しばらく迷ってから僕は、廊下を左に曲がることにした。

僕は廊下を左に曲がった。

どこまでも続く、合わせ鏡のような廊下に不安を覚えだした頃、目の前に青く塗られたエレベーターの扉が聳えた。

地下へと降りるエレベーターだ。乗降ボタンは、下向きのものしかついていない。ボタンの横には、カードを通すキースロットが設置されている。
これか。

f.仲間にきいてみる
しばらく迷ってから僕は、仲間にきいてみることを思いついた。

闇雲に動いても、正しい道筋はわかるまい。
それより、現在セキリュティルームを制圧しているはずの仲間に尋ねてみた方が確実だ。研究所内の見取り図も把握していることだろう。
そう思いついて、僕は携帯電話を取り出した。
だが、耳に当てた携帯からは、雑音しか聞こえてこない。
仕方ないか。そう諦めて、携帯をしまった時だ。
それまで流れていたエマージェンシーガイドの放送が、不意に、ブチッというノイズとともに断ち切られた。

『♪きゅぅぅっっぴぃぃぃ~~ん!』

場違いに明るいソプラノが、天井のスピーカーから降ってくる。

「きゅぴ~ん、か?」
他に誰がいる、とは思いながらも、一応声に出してそうきいてみる。
だが、どうやらこちらの音声は届いていないらしい。

『きゅぷるぴー。
とーます、聞こえてるー?
きゅぴ~んのお声が聞こえたら、ぶんぶん、ってしてー』

気がついて、僕は廊下の天井に取り付けられたカメラアイに向かって手を振った。
音声は駄目でも、映像は見えているのだろう。

『わーい、聞こえてるってー。
ねえねえ、せいこうしたよ、きゅぴ~ん、えらい? えらい?』
『ああ。たいしたものだ』

『えへへへへぇ~』

放送にいまひとり、大人の声が加わる。キングだ。
スピーカーからは、きゅぴ~んのハイトーンに代わって、キングの抑揚の少ない声が流れてきた。

『見たところ無事らしいな。何よりだ。
状況を説明する。
こちらの進行は順調。現在、所内に通信妨害をかけているところだ。この子のやる仕事だから、威力は必要以上に強い。携帯は当分の間、単なるストラップホルダーだと思え。
こちらからの連絡にしても、この所内放送くらいしか手段がない。私達からは、防犯カメラを通してお前の姿をモニターできるが、声は聞こえない』
『私の言うことに、イエスなら右手を挙げノーなら左手を挙げろ。
お前の用件は、倉敷博士の所在を知ることか?』

僕は右手を挙げた。イエス。言わなくても、こちらの意図を察してもらえるのはありがたい。

『では、伝える。
お前のいる場所から廊下を左手に進むと、エレベーターがある。下りて正面の部屋に博士はいる。ひとりだ。
エレベーターは直通になっている。乗り込む際には、おそらくパスを要求されるだろう。
通れない場合はまたこちらに合図しろ。手近なカメラアイに向かって手を振り続ければいい。
他には何かあるか?』
僕は左手を挙げた。ノー。何もない。

『この放送はおそらく倉敷博士の耳にも届いている。相応の準備をして待っているはずだ。用心して行け』

キングは無駄なことは話さない。以上で用件は切り上げられた。
代わって、興奮気味のきゅぴ~んの声が、再びマイクを占領した。

『とーます、がんばれー。きゅぴ~ん、おうえんのお歌、うたったげるー』

そして、きゅぴ~んは歌いだした。歌うのに時も場所も選ばない、それがきゅぴ~んだ。

『♪がんばれ 負けるな とーます!
強いぞ 負けるな とーます!
ゆけゆけ きゅぷるぷ きゅぷ きゅっぴ~ん
きゅぷるぷるぴ きゅぴ きゅっぴ~ん♪』

きゅぴ~んが気の済むまで歌った後、放送は始まった時と同じく、乱暴なノイズを残して途切れた。

もちろん僕は立ちつくしてきゅぴ~んの歌に聞きほれていたわけではない。
放送が終わる頃には、走って廊下の端まで到達していた。

目の前に青く塗られたエレベーターの扉が聳えている。
これか。

a.右手の扉を開ける
しばらく迷ってから僕は、右手の扉を開けることにした。
用心しながら、細くドアを開け中の様子を窺ってみる。

人がいる。
チェックの短いスカートと白いブラウスを着た小柄な女だ。こちらに背を向けて、トランクの上にかがみこんでいる。
荷造りでもしているのだろう。ぎゅうぎゅうと荷物を押し込むたび、ポニーテールが揺れていた。
こちらにはまったく気付いていない。

作業に没頭している女の注意を促すため、僕は開けたままの扉をコツコツとノックした。

女はびくっと肩を震わせると、振り返った。
後姿ではよくわからなかったが、振り向いた顔は僕と同じ年頃の少女に見えた。着衣も高校の制服風だ。
僕の姿を認めたことで、少女の口がぽかんとOの字をかたちづくる。同時に、勝気そうな瞳がみるみる見開かれた。

「きゃ………………。
きゃーーーーーーっっっ!!!
きゃーっっ、きゃーーーーっっ、いーやーーっっ、テロリストーーー!!
こっち来ないで、触らないで、犯さないで、マワされてヤク射たれて売り飛ばされるなんて、いーやーーーっっっ!!」

少女は叫びだした。
どこから出ているのかと思うような金切り声だ。耳が痛くなる。
さらに、ただ喚くだけでは足りないと思ったのか、少女は、せっかくトランクに納まりかけていた荷物を手当たり次第こちらに投げつけ始めた。
色とりどりの服に雑貨、安物の化粧品にアクセサリー、ミリオンセラーのCDや雑誌の切り抜き。
物流事情の悪い中、よくもこんな大量のガラクタを買い集められたものだと、僕は感心した。
もっとも、これらがはたして非常時に持ち出すべき貴重品であるか否かの選択基準に関しては、疑問を感じずにはいられなかったが。

少女はどうやら、相当に錯乱しているらしい。こちらに飛んでくる砲弾の中には、下着まで混じっていた。
頭から邪魔なショーツを振り払うと、僕は一気に間合いを詰め、少女の喉を押さえつけた。
ひゅっ、と壊れた笛のような音とともに、叫び声がぴたりと止む。
「危害を加えるつもりはない。ただ、教えてもらいたいことがあるだけだ。
倉敷博士を探している。どこにいるか、知っているか」

目を見つめて、ゆっくり言い聞かせる。
怯えた瞳のままで、それでも少女はこくこくと頷いた。
承諾を確認して喉から手を放すと、少女は、顔を顰め、盛大に咳をしてから、口を開いた。

「けほけほけほーーーっ。ひっどーい、女の子にこんなことするー? 声出ない、サイテー」

「それだけ出せれば充分聞こえる。質問に答えてくれ。倉敷博士の居場所は」

少女は気分を害した様子で、ぷっと頬をふくらませた。
「うっわ、ムカつく。それが人にものきく態度?」

「答えろ」

礼を尽くしている余裕はない。僕が態度を改めるつもりがないことを悟ったのだろう、彼女は肩を竦めた。

「わーかったわよ、もう。ショチョーなら、地下にいるし」

「地下? 地下へはどう行くんだ」

「さあ。多分、エレベーターか何かで下りるんじゃない?」

「エレベーターの場所は」

彼女は頬に指を当てて、考え込むそぶりを見せた。
「どこだったかなあ……んー、ローカを右……あれ、左だったっけ? どっちだっけ。左っぽい? この先にローカが分かれてるとこあったでしょ、あそこ左に行くとあるんじゃない? 多分だけど」

自分のいる建物の構造を思い出すのに、何故こんな手間がかかるのだろう。他人には直感像がないことをわかっていてさえ、どうにも理解に苦しむ。

ともあれ、頼りないものではあるが、情報は得られた。
これ以上ここで時間を浪費するわけにはいかない。僕は息をつくと、彼女から離れた。

「ありがとう。用はそれだけだ、邪魔をしてすまない」

「あっ、ちょい待ち!」
部屋を出ようとした僕の腕に、少女が飛びついてきた。
両腕で僕の腕を抱きかかえるようにしているせいで、少女の胸が肘に当たっている。単に無防備なのか、それとも故意の行動なのかは不明だ。

「放してくれ」

「あんたって、もしかしてショチョーの娘を連れにきたの? でしょでしょ? やっぱそう? やりぃー」

自分のした質問に自分で答えを出して、少女がぱちぱちと手を叩く。拍手の理由はわからないが、おかげで僕の腕が解放されたのはありがたい。
少女は妙に興奮した様子で、両手に拳を握った。
「あいつ、ウザくてしょーがなかったんだ。もー、サッと行ってパッと連れてってよ。応援してるし!」

そう力説されて、僕は確信した。
こんな年頃の少女がこの研究所にいるからには、理由はひとつしかないとは思っていたが。

「君は『プリテンダー』だな。彼女の知り合いか?」

彼女はくしゃみをする寸前のような顰め面になると、口を尖らせた。

「ブーッッッッ。あたしはたしかにプリテンダーだけど、あんな女の取り巻きなんかじゃないっていうの。つか、会ったこともないし。でも、敵だったりするわけよ。わかる?」
僕は首を振った。わからない。ただ、

「彼女の悪口は言うな。聞き苦しい」

少女の目を見据えて言い置くと、僕は部屋を出た。

立ち去る僕の背中に、少女の毒づく声が投げられる。

「なーによ、あんたもやっぱりあの女ラブなのー? ちょいイケだと思ったのにー。あーっちょっ待ってー、ねね、そのピアスって、もしかしてガーディアンの? 暖色系は女が多いっていうけど、相手、女? あの女が──」

僕は扉を閉めた。

廊下に出た僕は、半信半疑のまま先ほどの角まで戻ると、左に曲がった。

少女のあやふやな説明は、幸い間違っていなかったらしい。
廊下を進んだ果てに、やがて青く塗られたエレベーターの扉が聳えた。
これか。

b.進んで左手の扉を開ける
しばらく迷ってから僕は、廊下を進み、左手の扉を開けることにした。

しばらく迷ってから僕は、廊下を右に曲がることにした。
四つ辻を通り過ぎると、左手にドアがあった。
用心しながら、ドアを細く開く。

中は病院の検査室のような部屋だった。
CTスキャンの装置に似た、機械に取り囲まれた空の寝台が見える。無人なのだろうか。
僕は扉を開け、中に踏み込んだ。
次の瞬間、殺気を感じた。

「やーーーーっっ!!」

甲高いかけ声とともに、棒のようなものが空を切る。
反射的バックステップでそれを避けて、僕は襲撃者を確認した。

まだ若い女性だ。和服姿で、薙刀を手にしている。
古風な顔立ちの美人だが、その服装も武器も異様と言うしかなかった。研究所にはあまりに不似合いだ。

「やーーーーっっ!」

虚を衝かれている僕に向かって、女が再び気合とともに踏み込んでくる。
首を捻ってそれを躱してから、僕はまず薙刀の刃を掌で受け止めた。次いでもう一方の手で、柄の部分を掴む。
思った通り、薙刀はスポーツ用だった。刃は刃引きされており、刃物としての切れ味は持っていない。
それでも、勢いを乗せた刃を受けた掌は、衝撃に軋んだ。痛みに顔を顰めながら、僕は腕に力を込めた。

「きゃあっ!」
力比べならこちらに分がある。
薙刀を介したしばしの綱引きの末、女は悲鳴とともに柄から手を離した。
床に手をつき、肩で息をしている女を見下ろして、僕は言った。

「危害を加えるつもりはない。ただ、教えてもらいたいことがあるだけだ」

「嫌よ」

考える様子もなく、女は即座に撥ねつけた。
白いうりざね顔を上げて、僕を睨む。
「どんな質問でも、私はあなたに答える言葉は持ちません。
あなたはここを壊しに来たんでしょう。どうしてそっとしておいてくれないの。あの子を私から取り上げないで。今のままで幸せなの、今のまま何ひとつ変わらないでいてくれたら、それでいいのよ。……お願い、帰って。お願いよ……」

徐々に哀願口調になって、最後はしっとりと涙さえ浮かべながら女は言った。
その様子に、僕は自分自身が取りつかれているのと同質の感情、すなわち妄執を、見て取った。
この女は職員ではない。

「『プリテンダー』か?」

僕の呟きに、女は細い肩をびくりと震わせた。図星だ。
「誰についている?」

女は両手で顔を覆ってかぶりを振った。
秋の花が強風に震えるような仕草だ。

「倉敷博士を探している。どこにいるか知っているか」

女は首を振り続けた。話にならない。
ざっと部屋を見回してから、僕はパソコンデスクに歩み寄った。
プリンターのトレイに、プリントアウトが放置されている。手に取ってみると案の定、緊急時の避難経路を示した所内の見取り図だ。

「返して!」
女が慌てた様子で立ち上がる。
僕は、女がプリントアウトを奪い取るにまかせた。
見取り図はもう記憶に写し取った後だ。忌まわしい思い出を焼き付ける直観像も、こんな時には役に立つ。
震えながら胸にプリントアウトを抱いている女は、すでに僕に情報が渡った後だとは思ってもいないのだろう。ならば、真実を教える必要もない。

「邪魔をした」

きびすを返し、僕は後ろ手にドアを閉めた。

部屋を出た直後から、僕の頭の中には、先ほど見た地図が再現されていた。
脳裏に映った地図と照らし合わせながら、このフロアで最も怪しいと思われる地点を目指していく。

「現在地」から、右手の角を右に曲がって直進すると、つきあたりに用途不明の扉がある、はずだが──。

僕は足を止めた。
目の前に青く塗られたエレベーターの扉が聳えている。
これか。

c.廊下を右に曲がる
廊下を右に曲がってしばらく進むと、左手にドアがあった。
用心しながら、ドアを開いてみる。

扉は、防音仕様になっていたらしい。
そうとわかったのは、ドアを開けた途端、明るいオーケストラの楽曲が大音量で弾けたからだ。
それだけでも相当に非常識な話だったが、目の前に広がる光景は、さらに非常識だった。
八畳ほどの広さの部屋に、豪華なソファセットが置かれている。卓上の花瓶には、造花ではない薔薇が生けられている。優美な形状の間接照明が、バイオリンを弾く男の肖像を柔らかく照らしている。

そして、非常識のきわめつけは、小指と薬指をぴんと立て、金縁のティーカップを傾けている男の姿だった。
二十代後半くらいだろうか。
すらりと手足の長い、貴族的な容姿をもつ男だが、どういうわけかその髪は矢車菊のように青かった。桜色のシャツとの色映りは、まるで春の花壇だ。

僕は後ろを振り返った。

背後にあるのは、無愛想な白い壁とリノリウムの床、それに剥き出しの蛍光灯。
たしかにここは研究所だ。何かのトリックで異空間にログインしたわけではない。

食べるのにも事欠く人が多い時代に、よくもこれだけ趣味に走った部屋をあつらえられたものだと、僕は半ば感心した。
しかし、どう考えてもこれは、まともな神経の持ち主ではあるまい。
いっそこのまま扉を閉めて回れ右をしようかと、迷う僕に向かって、だが男は、にっこりと微笑みかけた。

「やあ、はじめまして。真神朋来くん」

その一言で、我ながら表情が険しくなったのがわかった。

「何故、僕の名前を知っている」

男はわざとらしく驚きの表情を作ってみせた。

「何故だって! ああ、無論知っているに決まってるじゃあないか、タミーノくん。所内は君の噂でもちきりだ。お姫様をさらいに楽園を目指す王子! ロマンだねえ。まるで幼稚な筋立てに一流の音楽がついたオペラのように、感動的だよ」
「ところでキミ、いつまでそんなところに突っ立っているつもりだい? まあ、かけるといい」

「……………………」

僕が動かないのを見て取って、男は大仰な仕草で肩をすくめた。

「うん、立っているのが好きだというなら、いいよ、立っておくといい。電車でも、席が空いているのに棒のように佇んでいる人間はいる。ボクはいつも、彼らを捕まえてきいてみたくなるんだ。一体、目の前に空いた席があるのに、その前に立ちふさがるようにして吊り革にぶらさがっていることに何の意味があるんですか?とね。うん、しかし、それだって個人の自由だ、無論そうだとも、他人がとやかく言うことじゃない──」
「避難勧告の放送が聞こえなかったのか?」

奔流のような男のお喋りを遮断して、僕は尋ねた。
この音量で音楽を流していれば、その可能性はある。男の暢気さは、今の状況をわかっていないとしか思われなかった。

男はけろりとして答えた。

「聞こえたとも。これでも耳はいいんだ。どうやらこの研究所は、君と、君の物騒な仲間に乗っ取られたらしいねえ」

「それがわかっていて、何故」

男は紅茶を一口啜ってから、僕をまっすぐ見つめた。
「キミは、『理想』の対義語を知っているかな?」

「『現実』」

突然飛躍した話に戸惑いながらも、僕は答えた。
男は満足そうに両手を広げた。

「その通り! 君は賢いね。『理想』と『現実』は対義語、つまり永遠に覇権争いを続ける、相容れない敵同士なんだよ。
『現実』というのは、いわば、自分の半径三メートル以内でしか物事を考えられない、嫉妬深い女みたいなものでねえ。『理想』が外へ拡張しようとすると危機感を覚えて、必死でひきとめにかかる。元々、そういう性質なんだね。
では、その『現実』の攻撃に遭ったとき、『理想』はどう対処すべきか? その答えが、今のボクだよ」
「ボクは『理想』に生きると決めた。決めたからには、醜く下世話な『現実』に踊らされる気はさらさらない。『理想』に殉じてやる覚悟さ。
今さら避難してなんになる? 映画の『タイタニック』を見たかい? ボクの理想は、船が沈むまで演奏を続けた、あの楽隊だよ。
ほら、聴いてごらん。なんて美しい音楽! これさえあれば、他に何が必要だろう? あたうことならボクも、死の瞬間までこの手で、ミューズを愛撫していたかった……」

夢見るようにまくしたて、男は宙に手を差し伸べた。その手の指が相変わらずまっすぐ立てられたままであることに、僕は気付いた。
この男は。

「倉敷博士は、地下だよ」
だしぬけに僕に向き直って、男は言った。

「ここを出て右向け右。そのまままっすぐ歩け、歩け。そうすると、直通エレベーターがある」

「何故、教える」

男はうーん、と首を傾げた。

「なんとなく、だよ。感性だね。説明するのは難しい。あえて言うなら、ボクは少しばかり退屈していて、ここいらで何か変化が欲しいと思っていたから、かな? 第一、王子が目的に手も届かないうちに撤退、じゃあ、あまりに散文的だ。盛り上がりに欠けるよ。
そう、だから、オペラにたとえるならさしずめここは、王子が道中で予期せぬ協力者に出会う一幕、だね」
「ならば、『魔笛』のタミーノ王子を叱咤する夜の女王のように、ボクも助言を与えねばなるまい。

Und werd'ich dich als Sieger sehen,
so sei sie dann auf ewig dein.

キミが勝利を収めれば、彼女は永遠にキミのものになる、とね。
倉敷博士は夜の女王よりも過保護で、楽園の守りは、ザラストロの理想郷よりも固い。せいぜい頑張って、『理想』と『現実』の相剋に苦しみ、試練に耐えて、ボクを面白がらせてくれたまえ」

男の言うことは半分も理解できなかったが、ともかく必要な情報は得られた。
僕は黙礼すると、サロンのような部屋を後にした。

目の前に再び、無機質な廊下が伸びる。

男に言われた通り、僕は部屋を出て右に向かった。

先ほど曲がった角を通り過ぎさらに奥へ進むと、やがて目の前に青く塗られたエレベーターの扉が聳えた。
これか。

e.廊下をまっすぐ進む
しばらく迷ってから僕は、廊下を直進することにした。

廊下をまっすぐ進むと、つきあたりにドアがあった。
用心しながらドアを細く開いてみる。

中は病院の検査室のような部屋だった。
人の気配はない。
いや──。

CTスキャンの装置に似た、機械に囲まれた寝台の上に、白い病衣を着た人物が横たわっていた。
頭部は金属の分厚い筒に覆われていて、顔はまったく見えない。だが、ほっそりした体つきと滑らかな肌から推して、おそらく年は若い。
まさか、彼女だろうか。

僕は寝台へと近づいた。
その時、
「不用意に触らんでくれよ」

突然声をかけられ、僕は身構えた。
懐から銃を抜き、声の方を振り返る。

銃口の先に、白衣を着て眼鏡をかけた若い男が立っていた。

「職員か?」

「まあね。バイトだが。
言っとくが俺は、バイトに命をかける気なんてこれっぽっちもねえんだ。ただ、寝てるモンを不用意に叩き起こされると、障害が残りやすい。そいつを安全に起こしたら、とっととここから退去するつもりだったんだよ。
だから、お前さんに抵抗する気はマジでない。撃つなよ」
銃をつきつけられながら、臆した様子もなく喋る。
僕は銃口を下ろし、男に尋ねた。

「倉敷博士を探している。どこにいるか、知っているか」

「倉敷サンなら、地下だぜ。ここ出て最初の角を右へ行くと、青い扉の直通エレベーターがある。もっとも、地下へ行けるのは限られた職員だけだ。ペーペーの俺なんざは、上司の付き添いがなきゃ入れない」

拍子ぬけするほど素直に、男は話した。
僕は傍らの寝台に目をやった。

「もうひとつ質問がある。これは、誰だ?」

男は首を傾げた。
「んー……、なんならカルテ見せるけどな。
ま、でも俺のカンだと多分、お前さんがお探しの人物じゃあないと思うぜ。めくってみろよ、男だ、そりゃ」

言われて僕は、病衣の裾をつまんで中身を確認した。
香水だろうか、花に似た甘い香りがふわりと漂ったが、たしかに男だ。彼女ではない。

「どうして、僕が探しているのが女だとわかった」

男はにやりと口の端を歪めた。

「だってお前、真神サンの息子だろが? すぐわかったぜ、笑えるくらい親父さんに瓜二つじゃねえの」

「………………」
「おっと。んなコワい顔すんなって。父子仲悪いって、マジだったんだな。
ま、あれだけ派手にアプローチかけてたんだ。そのうちなーんか仕掛けてくるだろうとは思ったが……まっさか、直接殴り込みかけてくるとはねぇ。いやいや、恐れ入ったぜ。若さって、コワイ」

男は可笑しそうに忍び笑いを洩らした。

どうにも肚の読めない相手だ。
戸惑っている僕に向かって、男は片目を瞑ってみせた。

「おら、少年。何グズグズしてんだ、お姫様を取り戻しに来たんだろ? あの子のことなら、俺もちっとは知ってる。さっさと迎えに行ってやれ」
僕は銃をしまうと、一礼して部屋を後にした。
奇妙な話だが、男の激励は本心からのものだと、思われたからだ。

男に言われた通り、部屋を出て最初の角を右に曲がると、やがて目の前に、青く塗られたエレベーターの扉が聳えた。
これか。


息を整えてから、僕はエレベーター脇のスロットに、磁気カードを通した。
今でも有効であることを祈りながら、母に託されたパスワードを打ち込む。

Dass du ewig denkst an mich:1999

「永久に私を想い続けるように」。
ゲーテの詩の一節だ。偶然にしろ、母はなんという言葉を遺したのだろう。

緑色のランプが点灯する。
短く電子音が響いた。

「おはようございます、真神桜博士。ご無沙汰しておりました」
機械音声が挨拶した。
それも、舌足らずのソプラノで。

研究所のコンピュータは彼女の声で喋るのだと、先程の放送でわかっていたはずなのに。不覚にも不意打ちをくらって、僕の呼吸は四秒ほど止まった。

鼻先で、重い唸りを上げ青い扉が左右に開いていく。
真っ暗なエレベーターの内部で、節電のために切られていた明かりが、数秒間の逡巡の後に、しらじらと灯った。

僕はひとつ大きく深呼吸すると、そのエレベーターに乗り込んだ。







そうして僕は、青い函に梱包されて、下りていった。
「楽園」の胎内へ。
僕自身の過去へ。
僕が彼女を失った季節へ。

すべてが灼熱の奈落に墜ちていく過程で、目も眩むばかりに光り輝いた、あの夏の記憶へと、向かって。





5 「Time Capsule」

一般に、「cruel summer」と言えば、あの夏のことを指す。
1999年8月。

残酷な夏。
狂える夏。
喪失の夏。

あらゆる有機物が黒い腐敗に侵食され
溶け崩れる季節の中、
球形だった世界が
目も眩むばかりの光の奈落へと失墜し、
ひび割れ、歪み、壊滅した
あの日。

↑ ↓ α U ω ∴ ∞
1999年8月。
「恐怖の大王」降臨の瞬間を、僕は彼女と迎えた。

その夏、僕が家出を決意したのは父との諍いが原因だった。

両親の勤める研究所で、僕達がサンプルとして協力していた研究は、ヒトクローン産生を最終目標としたものだった。
それも、単なる個体クローンではない。オリジナルの記憶を複製した、記憶複写クローンである。
僕が、彼女が、友人達が、そんなおぞましい研究に協力させられていたことを知って、当然のごとく僕は反発した。
反発したといっても、小学生の子供にできることなど、たかが知れている。研究の担当者だった両親に抗議する以外、当時の僕は有効な手段を持たなかった。

──僕が死んだら、僕と同じ顔で、僕と同じ記憶を持つクローンを作る気か!?
そんなのは嫌だ、そんな気持ち悪いことは我慢ができない、こんな研究は間違っている!

そうまくしたてる僕に、母は怯んだ。元々、研究の倫理的側面に疑問を感じていたこともあったのだろう。
だが、比較的容易に説得できそうな母に比べ、父の方は、手強かった。

──気持ち悪いだと? そんないい加減な理由で、研究を中止できるものか。
何もわからない子供が、口出しすることじゃない。
──研究のサンプルになっているのは、僕達だ。
僕と、小夜ちゃんと、雄大と、ヒコ。
僕達には口を出す権利がある。今すぐ、すべてのデータを抹消してくれ。僕だけじゃない、全員のデータを。

──お前が研究から抜けるのは勝手だ、朋来。そこまで強制はできない。
だが、データ抹消は無理だ。どうしてもと言うなら、二十歳になってから申し出ろ。そういう契約になっている。

──そんなには待てない! データ抹消が無理ならば、研究を中止してくれと言っているんだ。

──私にそんな権限はない。
──働きかけることは、できるはずだ。
ヒトクローンに対する世間の危機感は高まっている。
研究所の倫理委員をどう誤魔化しているか知らないが、もう潮時だ。手を引いた方がいい。

──断る!
お前はわかっているのか、これがどれだけ画期的な研究か!
私はこの研究に心血を注いできた、ようやく目処がつきかけた今、止められるわけがないだろう。

──それが本音か。父さんは結局、自分の知識欲を満たしたいだけなんじゃないか!
どうしてもというなら、あそこでの研究内容を、ネットで公表する。
──貴様、親を失業の憂き目にあわせる気か!? 誰の稼ぎで食っていると思っている。
言っておくが、お前が集めた証拠は、すべて隠滅した。

──な……いつの間に、汚いぞ、父さん!

──それはこちらの台詞だ! 親の目を盗んで、産業スパイまがいの真似をしおって。まったく、末恐ろしい子供だ。
親子喧嘩は熾烈を極めた。
父が手を上げた時は、さすがに母が泣いて止めに入ったが、情に訴えるだけの仲裁で、対立が解消されるわけもない。
むしろ父子間の溝は日毎に深まり、ついに僕は家出を決意するに至った。
家出をすれば、頑固な父も折れて、僕の要求を呑んでくれるかもしれないと考えたのだ。
今になって分析すれば、そうであってほしいとの願望もあったのだろう。当時の僕は、父の愛情を真剣に疑っていた。息子の家出で父が心配する姿を確認したいとの気持ちが、動機の根底になかったとは言えない。
また、たとえ父の動揺を引き出せなかったとしても、僕が家出をすれば、母は間違いなく取り乱す。
母も研究チームの一員だ。母が父を説得すれば、もしくは、父の意向に反しても研究に反対の声を上げれば、事態は動くと予想された。
こうして振り返ってみれば、僕の家出は、結局親への甘えに根ざしたものだった。子供の浅知恵というよりほかにない。
だが、たちの悪いことに、僕は浅薄であると同時に、小賢しい子供でもあったのだ。
家出をするにあたって、僕は綿密な計画を立てた。大人を欺いて、長期にわたる潜伏を可能にする計画を。その計画に従って、準備を万端整えた。
そして、さらに小賢しいことに、僕は、決行直前に、彼女に計画を打ち明けたのである。

──私も行く。朋くんと一緒に、家出する!

彼女がそう言ってくれたとき、口では「そんなのは駄目だ」と反対しながら、僕は嬉しかった。
彼女を巻き込むべきではないと理性ではわかっていたのに、心のどこかで彼女が同行を申し出るのを期待していたのだ。

そう。僕は、どこまでも卑怯で臆病な人間だった。
だから、ひとりで戦うこともできず、あの涯の山へと、彼女を連れていったのだ。
それが、どんな結果を招くかも知らずに。

そして、あの日。
1999年の、よく晴れた夏の日。
僕と彼女は、大きなリュックサックを背に、手を繋いで、山へと分け入った。

蝉が鳴いていた。鳥も鳴いていた。木漏れ日が踊っていた。渓流の音が涼しかった。
横溢する緑の中、世界には彼女と僕の二人しかいない。ピクニックのように楽しかった。
物心ついた頃から、彼女は自分のものだと信じて疑わなかった。誰よりも近くにいて、誰よりも愛しい存在。
これから彼女と二人きりの生活が始まるのだと思うと、胸がときめいた。ある意味で、あれは早熟な駆け落ちだった。

目的地の閉鎖されたキャンピングセンターにたどり着くと、僕達は林間の草地にピクニックシートを広げた。そこで、彼女の作ってきてくれたお弁当を食べた。ままごとのように幸せな時間だった。
食事を終えて、僕は彼女に、それまで伏せていた家出の理由を語った。ヒトクローン研究のこと。父との確執のこと。
そして──

そして、僕が語り終えたとき。

それが、舞い降りた。

その瞬間天は、直視できないほど強く烈しく輝き、僕を盲いさせた。
白一色に塗り潰される視界。

閃光が、空を裂いて、地に満ちる。
降り注ぐ光。
降りやまぬ光。

これはなんだ、これは──

↑ ↓ α U ω ∴ ∞
言語以前の圧倒的な意思が、脳に直接灼きつけられる。
これは──

↑ ↓ α U ω ∴ ∞

↑↓  天から降ってきた
αUω アルハにしてオメガ、始まりにして終わり
∴∞  而うして無限であるものが
↑ ↓ α U ω ∴ ∞

天から降ってきた、アルハにしてオメガ、始まりにして終わり、而うして無限であるものが。

↑ ↓ α U ω ∴ ∞
↑ ↓ α U ω ∴ ∞
↑ ↓ α U ω ∴ ∞

天から降ってきたアルハにしてオメガ始まりにして終わり而うして無限であるものが天から降ってきたアルハにしてオメガ始まりにして終わり而うして無限であるものが天から降ってきたアルハにしてオメガ始まりにして終わり而うして無限であるものが

これは、「危機」だ。

白い、ただ白い光の中で、僕は漠然と、だが明快に、そうと認識した。
理性よりも本能で、論理よりも直感で、僕は悟った。これは危機だ、天より恐るべき災厄が降ってきたのだ、と。

小夜ちゃん。小夜ちゃんを、助けないと──

「朋くん!」

だが、僕が行動を起こすより一瞬早く、柔らかな存在が、僕を抱きとめた。

彼・女・が・僕・を・庇・っ・た・の・だ・。

(ああ、神様。
この人を、助けて。
どうか。
どうかどうかどうか。)

温かな祈りが、水の膜のように展開する。
ゼリー状の、無色透明な花弁に似たシールドが、蕾のように僕を包み込んだ。
その透き徹った盾の外で、光と、風が、世界を薙いだ。

──小夜ちゃん!

凄まじい衝撃波。
生きとし生けるものを打ち倒す、圧倒的な力。
終わりの光。滅びの風。

──小夜ちゃん!

小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜















唐突に、光と風が、止んだ。

頭上には入道雲を背負って、からりと青い夏空が広がっている。何事もなかったかのように。
夢だったのか。
今のは夢だったと、誰か言ってくれ。
だが、ピクニックシートも弁当箱もどこかに飛ばされてしまっていて、見当たらない。周囲の草木も、台風の後のように薙ぎ倒されている。
何より、彼女の姿が、忽然と消えていた。

彼女がいたあたりには、小さな虹が立っていた。雨上がりのように、宙に無数の水滴が漂っているせいだ。
破れるほど瞳を見開いた僕の眼前で、水滴は、きらきらと光りながら、やがて一点に凝結していった。

そして、何もない中空から押し出されるようにして、ルビーに似た、透き通った赤い石が生成された。
この石は。ああ、この石は──。

石は、涼しい音を立てて、草の上に転がった。
膝立ちでいざり寄り、震えながら、僕はその石を掌の内に包み込んだ。
赤い石は、ほのかに温かく、そして、微弱ながらもたしかに音を発していた。さざめくように、ちりちり鳴っていた。
声が出ない。息もできない。体内を駆け巡る脈動の音が耳障りで、何も聞こえない。
それでもようやく喘鳴の間から絞り出した声で、僕は掌中の珠に向かって、囁いた。

「小夜、ちゃん……?」

リーーーーーーーーーーン。

問いかけに応えて、石が、泣いた。



がくん、と下降が止まる。
エレベーターの扉が開いた。

僕は軽く頭を振って、回想を振り落とした。
辺りの様子を窺ってから、銃を手にエレベーターを出る。だが、その第一歩目で、僕は早くも足を止めた。
地階の廊下の先に、小さな女の子がいた。
実体ではない。彼女の幻影だ。
あの日と同じ、夏服に帽子を被った姿で、こちらに背を向けて、後ろ手を組んでいる。ちょうど「休め」の姿勢だ。
彼女は肩越しにちらりと僕を振り返ると、軽やかなスキップで、近くのドアに溶けていった。

その部屋か?
その部屋に、僕を導こうというのか。

招かれるまま廊下を進み、ドアのノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。

僕は扉を開けた。
銃声が轟いた。
とっさに壁に身を潜め、拳銃を両手で握りなおす。

銃声は、さらに連続した。
二発、三発。
壁一枚隔てて、弾が爆ぜる金属音が響く。
扉の隙間から響くのは、銃声だけではなかった。
場違いに明るく澄んだクラシック曲も流れてくる。モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークだ。
倉敷博士は、モーツァルトを愛好していた。娘に「小夜音」と名づけるほどに。アイネ・クライネ・ナハトムジークは、日本語に翻訳すれば「小さな夜の音楽」になる。
間違いない。この中に、倉敷博士がいる。

弾丸が尽きたのか、やがて銃撃は止んだ。
扉を大きく蹴り開けて、僕は室内に飛び込んだ。
同時に、構えた銃の照準を、部屋にいた唯一の人物に合わせる。

「どうして、当たってくれないんだ」

コンピュータのコントロールパネルを背に、ため息まじりの声で、彼は言った。まるで、進んで弾に当たろうとしない僕が悪い、とでも言いたげである。
銃を握った右手をだらりと下げたまま、彼は左手でリモコンのボタンを操作し、音楽を切った。
ゆったり首を振る動作といい、銃を向けられている人間とは思えない無頓着さである。

「やれやれ、耳がキンキンする。銃を撃つときは、耳栓をしないといけないんだったな。忘れていたよ」
僕は相手に届くように、声を張り上げた。

「お話をうかがいに参りました。お久しぶりです、倉敷博士」

……老けた。
正面から対峙して、僕は愕然とその思いを噛みしめた。
倉敷博士の顔には、深い皺が刻まれていた。鬢にも白いものが目立つ。
元々きちんとした人だし、身なりは整えてはいるのだが、白いワイシャツもネクタイも、どこかくたびれて見える。
今の倉敷博士からは、およそ生彩が感じられなかった。妻子を亡くしてからの年月が、彼を(蝕/むしば)んだのだろう。痛々しいばかりの衰え様だ。

「久しぶり、朋来くん。大きくなったねえ。お父さんの若い頃に、そっくりだ」

倉敷博士は疲れたように微笑むと、銃を持っていない左手を掲げた。
予想外の動作に、思わず引き金にかけた指を緊張させる。
だが、博士はただ、指輪に唇を押し当てただけだった。そういえば、それが彼が疲れた時の癖だったはずだ。
けれども、倉敷博士の左手の薬指に嵌められた指輪は、昔と同じものではない。以前は飾りのない結婚指輪だったのが、赤い宝石の付いた指輪に変わっている。この石は──

「それは、奥様のガーディアンズ・ストーンですか」

博士は指輪にくちづけたまま、ちらりと目を上げた。

「そうだよ。君も、小夜音のガーディアンズ・ストーンを、まだ身につけているようだね」
博士の視線が、僕の左耳に流れる。
僕は思わず身を硬くした。最後に会った時、ガーディアンズ・ストーンを力づくで強奪されかけたことを、思い出したからだ。

ガーディアンズ・ストーン。
守護者の石。
倉敷博士の薬指に、僕の左耳に、それぞれ光る石。
僕も、博士も、あの日、大切な者を失くした。
この石は、その証だ。

1999年8月。
その日、世界を未曾有の災禍が襲った。
ノストラダムスの予言になぞらえて、「恐怖の大王」、または単に「大王」と呼ばれる大災厄である。

1999年8月。
その日その瞬間。昼の面であると夜の面であるとを問わず、地球上の全地域で、刻を同じくして、空が発光し、強風が吹いた。
その間、時間にして十三秒。
そのたった十三秒で、人類は人口の三分の一を失った。
年齢・性別・人種・宗教・貧富・地域の一切を問わず、全く無差別に、地球上の人間の三人に一人が、「消滅」したのだ。影すら残さず、かき消えた。
五年以上を経た今に至るも、原因はまったくの不明である。
各国の公的・私的な無数の機関団体が原因究明に乗り出したものの、その報告はいずれも仮説の域を出ない。反証と検証が可能な理論をもって科学的な説明に成功したものは、いまだ皆無だ。
一方で、多くの宗教団体は「大王の降臨は、人間の傲慢に対する神の裁きである」との解釈を述べ、大方の支持を得た。
ともあれ、各種団体が一致して、恐怖の大王について争いない事実と認めるのは、以下の二点だ。

第一。
そこに神の存在を読み込むか否かはさておき、恐怖の大王降臨は、少なくとも人知を超えた現象だった。
第二。
恐怖の大王は、何らかの方法で人間の意思を読み取り、その結果を消滅に反映させた。いわゆるガーディアンズ・ルールがそこには存在した。
ガーディアンズ・ルールとは、何か。
端的に言えば、それは、「護られた人間は生きのびる」という法則である。
大王降臨の際、ある人間(G)が、近くにいる人間(g)を明確な意思のもとに「護った」とする。すると、庇われたgは必ず生き残り、代わりに、庇ったGは必ず消滅したのだ。
全世界で広く見られた、これが無差別消滅の唯一の例外、ガーディアンズ・ルール、守護者の法則である。恐怖の大王は、大切な人を護ろうとするガーディアンの意思を察知し、「三人に一人」の無慈悲な原則に修整をほどこしたのだ。
一般に、庇ったGは「守護者」「護る者」「お守り様」または英語で「ガーディアン」と呼ばれる。一方、庇われたgは「護られた者」「ガーディアン持ち」などと呼ばれた。

ガーディアンの存在は、様々な意味で、神秘に満ちている。
その神秘の最たるものが、「守護者の石」ことガーディアンズ・ストーンだ。

灰すらも残らない通常の消滅と異なり、ガーディアンはその消滅地点に、小さな宝石を遺した。これこそが、ガーディアンズ・ストーンである。
その多くは炭素の等軸晶系、すなわちダイヤモンドと同じ成分・構造をもつ。
ただし、無色透明が基本のダイヤモンドとは異なり、色彩は多様だ。その色に見せる鉱物を含んでいない場合でも、何故か人の目には紅や蒼に映るらしいのである。科学的には説明のつかない現象だった。
科学的に説明のつかないことは、他にもある。
ガーディアンズ・ストーンは、泣くのだ。それも、護られた者にしか聞こえない声で。
調査の結果、鼓膜は振動していないにもかかわらず、護られた者の脳は紛れもなく音を知覚していることが確認された。
ガーディアンズ・ストーンの泣き声は、特定人の脳に直接語りかける、いわばテレパシーに近いものである、というのが、現在の定説となっている。

神秘の宝石、ガーディアンズ・ストーン。
大王降臨後の世界で、ガーディアンズ・ストーンは守護の力を秘めた霊石とみなされ、目の玉が飛び出るような価格で取り引きされるようになった。
そして、その石の価値の急騰は、石の所持者をしばしば経済的な困窮から救済した。
恐怖の大王降臨後の世界は、国を問わず、天涯孤独の人間が生き延びるには厳しい環境になっていた。大王は数多の人工物を壊滅させ、自然界にも劇的な変動をもたらしたからだ。
異常気象で食物は不足し、経済も文明も後退した。生き残った人間も、「大王病」と呼ばれる死病に次々と倒れた。
そんな中、食うに困った孤児が、親のガーディアンズ・ストーンを売って生き延びた例も少なくないと聞く。

ただ、その場合でもガーディアンズ・ストーンは不思議と、輾転移転した末、はからずも最初の持ち主の手に戻ったりするらしい。
この点もまた、ガーディアンズ・ストーンの神秘のひとつに数えられている。守護者の石は、意思を持つのだ、と。

さて、では、ガーディアンに命を護られ、ガーディアンズ・ストーンを託された者達は、その後幸福な人生を謳歌できたのだろうか?
その問いに対する答えが、僕の、あるいは倉敷博士の、現在の姿だ。
護られて生き延びた人間は、必ずしも幸せにはなれなかったのである。むしろ悲惨な末路をたどる例も多かった。
原因は多々あるが、ここでは次の二点を指摘するにとどめておこう。

第一に、護った者と護られた者の間には、通常、密接な関係が存在した。
親子、夫婦、家族、恋人、友人等。最も広く見られたのが、母親が子供を護るパターンである。
したがって、護られた者の多くは、愛する者の命を犠牲に、自分ひとりがおめおめと生き延びた、との罪悪感を抱くことになった。鬱状態に陥り、自ら命を絶つ者が続出した。「ガーディアン症候群」と呼ばれる病態である。
なお付言するならば、ガーディアンの性別比率は、女性の方が有意に多かった。大王の降臨に気付くのが、女性は男性より平均して0.8秒早かったとの調査報告もある。その一秒弱が文字通り死命を決したのだ。

第二に、より現実的な問題として、護られた者の多くが、ガーディアンズ・ストーンを巡る紛争に巻き込まれたことも、彼らを幸福から遠ざけた。

ガーディアンズ・ストーンは、いわばガーディアンの形見である。しかも、非常な高額で売買される。
そのため、ガーディアンの親族以外の者がガーディアンズ・ストーンを手にした場合、遺族から引渡しを請求される事態が頻発したのである。
典型事例は、恋人を護って消滅した子供の親が、その子の恋人に石の引渡しを求める、というものだ。無論、恋人の方も簡単には手放そうとはしない。
日本では2002年に、ガーディアンズ・ストーンの所有権は、無主物先占として拾得者、すなわち「護られた者」の側に帰属する、との最高裁判所判例が確定した。

しかし、そんな法律論で、遺族側があっさりと心の整理をつけられるはずもない。
倉敷博士にしても、そうだろう。

そう。
僕もまた、倉敷博士を対立当事者として、ガーディアンズ・ストーンを巡る典型的紛争に巻き込まれた一人だった。

小夜ちゃんの死後、倉敷博士は僕にガーディアンズ・ストーンを譲渡するよう迫った。
温和で優しかった人が、しまいには悪鬼のごとき形相で、年端もいかない子供相手に、本気で掴みかかってきたものだ。
この紛争によって、すでにガーディアン症候群を発症していた僕の精神は、決定的な傷を負った。紛争の長期化が病状に及ぼす影響を懸念して、両親も医師も倉敷博士に石を渡した方がいいと、異口同音に助言した。
だが、僕は、これを頑なに拒絶した。

──小夜音を殺したくせに。

──泥棒、人殺し。

いかに罵倒されても殴打されても、僕は石を握った拳を決して開かなった。
渡せるわけがない。
死んでも手放すものか。
これは彼女が僕に唯一遺してくれた形見、彼女の化身なのだから。

──小夜ちゃんが護ったのは、僕だ。石を持つ資格があるのは僕であって、おじさんじゃない。
それに、ガーディアンズ・ストーンなら、おじさんはもう持っているじゃないか。おばさんがおじさんを護って、遺していった石が。
この上、小夜ちゃんの石まで僕から取り上げようなんて、欲が深すぎる!
最終的に折れたのは、倉敷博士の方だった。
納得してのことではない。周囲に諫められて不本意ながら引き下がったというのが、実際のところだろう。
あれほど憎悪に満ちた視線で人に見つめられた経験は、僕の人生で他にない。
彼は、僕を許してはいないのだ。

切れば血が滴るばかりに、生々しい憎悪。
その憎悪を、今なお、僕は目の前の倉敷博士から感じることができた。
入室時の銃撃が、その証拠だ。この人は今この瞬間も、殺したいほど僕を憎んでいる。
強張った顔で銃を構える僕を見て、倉敷博士は苦笑した。

「そう警戒しなくてもいい。もう石を返せとは言わないよ」

「では、僕を殺して、石を奪うつもりですか」

倉敷博士は肩を竦めると、手に持った銃を、デスクの抽斗にしまった。

「それも、やめておこう。君が応戦して、流れ弾がコンピュータに傷でもつけたら、大ごとだ」
「さあ、銃を下ろしなさい、朋来くん。ここは、小夜音が眠る場所なのだから。あの子の夢を妨げてはいけない」

言って博士は、ガラスで隔てられたスーパーコンピュータ・ルームを、いとおしそうに見やった。

「そんな石ころなどなくても、私はここで、いつでも小夜音に会うことができる。現実よりもリアルな、私の創った楽園の中で」

僕は銃を下ろした。

「まさかと思っていましたが……では、母の遺言は、真実だったのですね」

倉敷博士は、わずかに眉根を寄せた。
「遺言か。そういえば、桜さんは亡くなったそうだね。大王病だとか。お気の毒に、お悔やみ申し上げる。
それで、桜さんは、君に何をどこまで伝えたんだ?」

「第一に、『楽園』と呼ばれる仮想現実(バーチャルリアリティ)の中で、小夜ちゃん達の擬似人格が生かされていること。
そして、第二に、記憶複写クローンの自殺騒動のために、眠り姫を起こすに起こせなくなったこと、です」

ははは、と倉敷博士は、乾いた笑いを漏らした。

「眠り姫とは、うまいことを言う。君は詩人だな。
ただ、その表現だと、王子が朋来くんだということになるのが、とても、とても気に入らないが」

「すみません」
僕は脳裏に、母の手紙の記憶画像を呼び出した。倉敷博士と取引を行う上での、これが僕の唯一の原資料だ。
手紙の序盤はスクロールし、途中でポーズをかける。
そう、核心部分はここからだ──。

「 朋来へ

…………………………(前略)………………………………

前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。
朋来。
小夜音ちゃんは、生きています。
「楽園」と呼ばれる場所で。

そうは言っても、もちろん、普通の意味で「生きている」わけではありません。
1999年の夏に、小夜音ちゃんは亡くなりました。雄大くんも、天彦くんも、大王に引かれていきました。
共同研究を進めていた他の研究機関でも、サンプルとして協力してくれていた子供達の多くが、幼い命を散らしました。
なんという、いたましいことでしょう。
親御さん達の嘆きを受け、私達研究チームは、大王降臨直後から、彼らを記憶複写クローンとして甦らせることを真剣に検討し始めました。
元々はそのための研究だったのですから、当然です。知っての通り、子供達の多くは、出資者または研究者の子弟でした。

けれど、1999年当時、電磁的に記録された子供達の記憶を、クローンの脳に複写する技術は、未だ確立されてはいませんでした。
むしろ、ようやくとっかかりが見え始めたばかり、という状況だったのです。その研究チームの責任者はお父さんですが、実用化まで何年かかるか、はたして実用化が可能なのかすら、予測がつきませんでした。
そして、仮に十年後にそれが可能になったとして、2009年に、1999年までの記憶しか持たない記憶再生クローンを誕生させることには、問題がありました。
子供達は皆、戸籍上・書類上は、生きていることになっていたからです。
親御さん達は一様に、我が子の復活を信じて、死亡届を出されませんでした。
結果として、十年後には、戸籍上は成人しているのに、小学生なみの知識と経験しかないクローンを世に出すことにもなりかねなかった。
これでは、せっかく甦った子供の将来が危ぶまれます。

その解決策として、倉敷博士が提唱されたのが、子供達の記憶と人格を仮想現実の中で成長させる、という案でした。
知っての通り、私達が携わっていた研究の目的のひとつは、擬似人格をもつ人工知能を創造することでした。
これらの研究成果を応用すれば、この構想は今すぐでも実用化できると、倉敷さんは主張されました。
まず、蓄積したデータを利用して、子供達の記憶と人格そっくりそのままの人工知能を作る。この擬似人格を仮想現実の中で稼動させれば、年齢相応に成長させることが可能だ。
仮想現実についても別チームが研究を進めてきており、すでに枠組みはできている。一年、いや半年あれば、この計画を始動させてみせる、と。
この案は、出資者・研究者双方の会議において、全会一致で承認されました。
おそらく彼らは、倉敷さんも含め、お子さんの不在に耐えられなかったのだと思います。たとえコンピュータの中ではあっても、お子さんが元気に生きて成長していると思えば、まだ慰められますから。

かくして、倉敷博士主導で、「楽園」は創造されました。
楽園の中で流れている時間は、外の世界と一致しています。
楽園創造までの半年余りのタイムラグは、擬似人格に重要なライフ・イベント──例えば入学式や卒業式など──を擬似体験させることで、なんとか辻褄が合わされました。
完成した楽園世界のリアリティは、驚くばかりでした。現実とまったく遜色がないのです。
しかし、楽園にはただひとつだけ、現実と決定的に違う点がありました。
それは、大王降臨がなかったものとされていることです。
あそこでは、大王の手に触れていない、無垢で平和な世界が昔のまま続いています。
現実の町にそっくりだけれど、現実ではない。優しい、懐かしい町。子供達を傷つける因子が慎重に排除された、安全で快適な箱庭。
楽園にはいくつかの町があり、そこを故郷とする子供達がそれぞれ暮らしています。
システムの枢要部は倉敷博士が管理していますが、そこから枝分かれした各町の運営自体は、その町最寄りの研究所に委ねられています。
もちろん、諸子市にそっくりの町も存在します。倉敷博士が所長を務める諸子市研究所が、その運営主体です。
その町で、懐かしいお友達のみんな、小夜音ちゃんも、雄大くんも、天彦くんも暮らしています。
現実世界で生き延びた朋来は、そこにはいないことになっていますけれど、他の子供達は楽園の中で、すくすくと成長しているのです。
自分が現実に生きる生身の人間であることを疑いもせず、学校へ通い、友達と遊び、笑ったり悩んだりしながら毎日を過ごしています。

こうして、仮装の町という外枠が創られたわけですが、子供達の生育のためには、それだけでは不十分でした。
もうひとつ、重要なソフトウェアが必要だったのです。何かわかるかしら?
そう、人です。子供が成長するには、人との触れ合いが不可欠です。無人の町では意味がありません。
もちろん、楽園は一見多くの人間が暮らしているように見せかけられています。しかし、そのほとんどはプログラムド・パーソン、略してPPと呼ばれる、プログラム人格なのです。
ちょっと考えてみて下さい。朋来が毎日親しく言葉を交わす人は、何人くらいいますか?
学齢にある子供の場合、実はその数は、さほど多くはありません。家族、仲のいい友達、特に目をかけてくれる先生など。少なければ数人、社交的な子でも二十人を超えません。
もちろん町に出れば、そこにはたくさんの人がいます。けれど、彼らはただそこに存在するだけで、多くの場合、あなたと言葉を交わすことすらありません。
また、言葉を交わすにしても、例えば店員さんの応対のように──いらっしゃいませ、××ですか、こちらでございます、○○円になります、ありがとうございました、またお越し下さいませ──その内容はたいてい決まりきったものです。
そういった「その他大勢」には、実は複雑な人格は必要ではない。いくつかの応対パターンをプログラムすれば、それで事足りてしまうのです。
ただ、子供達の身近な人物、家族や友達などは、さすがにPPには務まりません。そういった人物は、生身の人間が「演じる」ことでリアリティを持たせています。いわば、役者さんですね。
仮想現実の研究は、元々、人間が仮想現実の中の世界に入り込むことを想定して進められていました。SF映画によくあるように、生身の人間の頭にコードを繋いで、仮想現実に「アクセス」することができるようにと。
そのようにして楽園に入り込んだ役者さんを、私達は「プリテンダー(pretender)」と呼んでいます。
日本語に訳せば、「ふりをする者」「ごっこ遊びをする者」「詐称者」といった意味でしょうか。考えてみれば、あまりいい意味じゃありませんね。
ひとりで何役もこなすのは普通のことですし、研究所の職員が兼任することもあるので、実際のプリテンダーは、楽園内の人数ほどには多くはありません。
また、近年はどこからか噂を聞きつけて、無償でもいい、いやお金を払ったって構わないから、プリテンダーとして是非とも楽園の中で暮らしたい、と立候補する人が後を絶ちません。
さすがにプリテンダーの採用は制限していますが、イベントのある日などには、見学者を有料で楽園に入れることも試験的に行われています。
意外にビジネスとして成立するかもしれないと聞きました。
さて、いくつかの問題はありましたが、このようにしておおむね順調に、楽園は運営されてきました。
けれど、今年に入って、その楽園に転機が訪れたのです。
ほかでもない、お父さん達の研究チームが、クローンに記憶を複写する技術を完成させたためでした。
すぐに全国の研究施設から三人の子供が選ばれて、記憶複写クローンが創られました。体にも老化処理をほどこし、年齢にふさわしく外見を成長させました。
そうして、ついに待望の、記憶複写クローンが誕生したのです!
一度失われた命が、見事に復活を遂げた。なんと素晴らしいことでしょう。
関係者一同は快哉を叫びました。ついに私達は死を克服したのだ、と。
しかし、その喜びも長くは続きませんでした。
ひと月も経たない内に、三人のクローンのうち二人までが、死亡してしまったからです。
技術的な問題ではありませんでした。
彼らは、自殺したのです。

後から、そう、後から振り返ってみれば、無理もなかったのかもしれないと、思います。
子供達にしてみれば、ある朝目覚めてみると、見知らぬ世界に飛ばされていたのですから。元いた楽園とはまるで異なる、荒れ果て、くたびれた世界に。
そして、今まで現実だと信じていた世界が友人が恋人が、すべて虚構だと知らされ。おまけに、自分は望みもしなかった化け物、クローンになっている。
彼らの心のケアには気を配ったつもりでしたが、それでも彼らは夢と現実の間で混乱し、絶望し、自ら命を絶ちました。
遺書には、楽園への望郷の想いが綿々と綴られていました。どうしてあのまま、何も知らないままで楽園にいさせてくれなかったのか。その絶叫は、私達大人の胸を(抉/えぐ)りました。

私達のしてきたことは、間違っていたのでしょうか。
それが子供達のためになると信じて、必死で頑張ってきたのに。当の子供達は、最も悲惨な形でそれを拒絶した。
研究は、事実上頓挫しました。
こんな問題が浮き彫りになった状態で、新たに記憶複写クローンを生み出すわけにはいきません。
もちろん、楽園から引きずり出されても、現実を受け入れて生きていける心の強い子も、きっといるのでしょう。
でも、かかっているのは子供の命なのです。出たとこ勝負では困ります。たしかな勝算がなければ、動くに動けなかった。
また、記憶複写クローンの誕生には、莫大な費用がかかるのです。ひと月で自殺するかもしれない人間を生み出すために、巨額の資金を投入するわけにはいかなかった。
関係者の間では、記憶複写クローン計画はとりあえず凍結して、楽園を存続させてはどうか、との消極論も出されました。
しかし、それもまた、二重の意味で困難でした。

第一の問題は、子供達の成長に、楽園が追いつかなくなってきたことです。
小さな子供のうちはいい。小学生ならば、限られた地区の中でのみ生活していて、ひとりで電車に乗ることすら稀なのですから。
けれど、中学生から高校生、高校生から大学生と成長するごとに、子供達の行動半径も交友範囲も、飛躍的に拡大していきます。まして社会人ともなれば、限界が消えてしまう。
仮想現実である楽園には、成長し続ける子供達の世界をフォローすることは、早晩困難になることが予想されました。立派な翼が生えそろった鳥を、檻の存在に気付かせずに囲い込むなど、どだい無茶な相談ですから。

第二の問題として、楽園に留まる期間が長引けば長引くほど子供達の現実への適応が困難になることがありました。
楽園で長く暮らせば、それだけ楽園世界への愛着が増し、現実世界への拒否反応が激しくなります。
また、人は一般に、年が若いほど新しい環境への適応能力が高いのです。学歴だって外で得ておかないとまずいでしょう。
現実で生きていこうとするのなら、楽園を出るのは一日でも早い方がいい。それは、わかりきっていました。
楽園から、出すわけにはいかない。
けれど
楽園から、出さなければならない。

二律背反の間で、関係者は懊悩し、途方に暮れました。
一体どうすれば。どうすれば、いいのかと。

こんなところで話を切るのは心苦しいのですが、私が事情を知っているのは、ここまでです。
その後どうなったか、気にはなってはいるものの、病気が悪化したせいもあって、調べ切れませんでした。対策会議が開かれたようですが、有効な手が打てたものかどうか。
なお、ここまでの話は、私が実際に見聞きしたこと、人から聞いた話、それに、集めた資料によって書き起こしました。
休職後のことについては、伝聞と資料のみによっていることを、お断りしておきます。
また、集めた資料は、この手紙と同じCDに収録しておきます。参考にして下さい。

この長い手紙も、ついに終わりに近づいてきたようです。
最後に、母親としてのメッセージを。

朋来。
親にとって、子供は未来です。
子供以外の人、例えば配偶者、友人、両親といった存在は、過去なんですよね。これまで同じ時間を共有してきて、私の人生の軌跡を知っている人。自分の生きてきた証。大切な過去。
それに対して、子供は、未来です。
子供を見るとき、人はそこに、あらゆる可能性に満ちた未来を見ます。子供は、希望そのものです。
どんな辛い状況でも、どんなに明日が見えなくても、たとえ自分の死が間近に迫っていても、未来を、希望を信じていられれば、人は幸せでいられるのです。

個体クローンの産生に倫理的な問題があることは承知しながら、私が研究に携わり続けたのも、だからかもしれません。
未来を奪われた親の嘆きを救うためなら、生命倫理を侵すことも、やむを得ないと思ったから。
自分の子供が幸運にも大王の爪を逃れたことも、引け目になってはいました。あ、念のため言い添えておきますが、だからといって私は、あなたが助かった幸運を感謝しない日はありませんでしたよ。

朋来。
あなたがいてくれて、本当によかった。
あなたが私達夫婦のもとに生まれてきてくれてからの年月、一日一日が、たとえようもなく幸せでした。
あなたがいなかったら、この絶望に満ちた時代を耐えることなど、到底できなかった。
死に行く私にとって、あなたこそが未来であり、希望です。
どうか、幸せになって下さい。
それだけが、今の私の願いです。

2004年12月    真神 桜」

記憶のフォルダから母の手紙を読み出した状態で、僕は倉敷博士を見据えた。
この人に向かって、ただ小夜ちゃんに会わせてくれと懇願したところで、勝機はない。ここからが正念場だ。

「自分を王子だなどと言うつもりはありません。
けれど僕は、小夜ちゃんの眠りを覚ます方法を、知っています」

博士の表情が動いた。

「どうやって」

「僕が楽園の中に入って、小夜ちゃんを説得します」

は、と博士は、短く吐き捨てた。
「何かと思えば、そんなことか。
そんな方法なら、他の研究所でとっくに試した!
だが、何の意味もなかった。そんなやり方では、何にもならなかったんだ。
外の世界のことを話して聞かせても、子供達は冗談か妄想としか受け取らなかった。証拠を突きつけると、これは手品だと叫んで、強い拒絶反応を示した。
その後その子は、自己に対する存在不安から神経を病んだ。結果として、子供達の記憶に覆いを被せて、『何もなかった』ことにするしかなかったんだ。
自分のいる世界が虚構だとの仮説を、易々と受け入れる者はいない。認めれば、パニックに陥り、狂うしかなくなる」

「それは、やり方がまずかったせいです。
見ず知らずの人間、あるいは身近な人間が、突然世界の秘密について語りだしたところで、耳を貸すわけがない」
「そんなものは試金石でもなんでもない、あまりに無神経な、人間の自我と実存に対する攻撃だ。
もっと綿密に計算されたシナリオに従って謎をかければ、彼らを正しい認識に導くことは、可能です。否、必ずできる」

僕はポケットからUSBを取り出した。

「こちらに、僕の立案した計画の詳細を記録してあります。
何年かぶりで会う幼馴染が、謎を運んでくる。そういう状況を、まず設定します。
謎を前にすれば、人は必ず答えを探そうとする。謎をかけることで、彼ら自身の好奇心を利用して、自発的な探索により、予定された認識へと導くのです」

言い募る僕の言葉に、だが、博士は気のなさそうなそぶりで首を傾げただけだった。
「たいした自信だな。けれど、その計画にはひとつだけ致命的な欠陥がある」

「何ですか」

「『久しぶりに幼馴染に再会する』という状況設定は、そもそも使えない。小夜音は、君のことを覚えていないのだから」

「そんなはずは──」

「ああ、昔のことだから忘れたという意味じゃないよ。そういう意味じゃあない、記憶自体が消えているんだ。
小夜音の、君に関する記憶は、すべて抹消した。小夜音だけじゃない、雄大くんも天彦くんも、楽園にいる者は誰ひとり、君のことを覚えていない。楽園では、君は最初から存在しない者、幽霊に等しいんだよ、朋来くん」
倉敷博士が、清清しく微笑む。
僕は棒立ちになった。そんなことは、母の遺書にも書いていなかった。嘘だ、まさか、そんな──。
凍りついた僕を、頭上から降ってきた声が、殴りつけた。

『朋来! 聞いているか』

天井のスピーカーから響く、緊迫した声。
僕は我に返った。キングだ。警備室から、所内放送を利用して、こちらに呼びかけているのだろう。

『警備員が門に到達した。間もなく所内に入るぞ。倉敷博士の説得は、まだか』

タイムリミットが近付いている。
それでも僕は、尋ねずにはいられなかった。
「何故です、博士。
小夜ちゃんの記憶から、僕に関する思い出だけを選別して抹消するのは、おそろしく手間のかかることだったはずだ。
それくらいなら、親の転勤で僕は引っ越したとでも言っておく方が、ずっと簡単なのではないですか。なのに、何故」

「何故?
決まっている、お前が、小夜音を殺したからだ!」

僕に指を突きつけて、博士は叫んだ。
コントロールパネル上のインターフォンが、けたたましく鳴り始めた。

「あの子はお前を好いていた。忌々しいことに、ガーディアンになるほどに、小夜音はお前を慕っていたんだ!」
「引っ越したなんてことにすれば、小夜音はずっとお前を覚えている。仲の良かった大好きな幼馴染として、ずっとずっと、お前との思い出を大切に持ち続ける。
冗談じゃない、そんなことは許せない、だから消した、小夜音の中からお前の存在を完全に排除するために。
楽園は、子供達を害する因子を徹底的に取り除いた、私の理想郷だ。だから楽園では、恐怖の大王は訪れなかったし、お前も存在しなかった。
楽園にお前は必要ない、楽園にはお前の居場所はどこにもない、ざまを見ろ!」

インターフォンが鳴り続けている。
呼び出し音が二十秒ほど続いたところで、オンフックのままの受話器から、きびきびした声が流れてきた。
『応答してください。こちら△△警備会社の者です。セキュリティシステムからの通報があったので、急行いたしました』

「信じない……」

僕は、かぶりを振った。

「信じられない、そんなことは、不可能だ。
物心つく前から、僕は小夜ちゃんと一緒にいた。誰よりも傍にいて、誰よりも長い時間をともに過ごした。
その記憶のすべてを消すことなど、できるはずがない。僕との記憶をなくした小夜ちゃんなど、すでに彼女ではない。
消したわけではないのでしょう。あなたはただ、彼女の記憶に覆いを被せて、思い出せないようにしただけだ。
違いますか!?」
先刻、倉敷博士は言っていた。
「結果として、実験中の子供達の記憶に覆いを被せて、『何もなかった』ことにするしかなかった」と。
抹消と隠蔽は、違う。
抹消されたデータの回復には、非常な困難が伴う。ほぼ不可能といってもいい。
一方、隠蔽されただけならば、これは記憶喪失に陥った人間と同じだ。あたかもパソコンに検索禁止ワードを設定するようにして、情報を引き出せないようにしただけなのだろう。
データそのものは存在する。ただ、そのデータを引き出せない。そのような状態であるならば、失った記憶を回復することも、可能なはずだ。
否、そうであると信じたかった。彼女と過ごした思い出のすべてが無に帰したと考えるのは、あまりに辛い。
『応答して下さい、職員の方、応答してください。倉敷所長、いらっしゃいますか』

インターフォンが、名指しで博士を呼ぶ。
それを無視して、倉敷博士は僕を睨んだ。

「……だったら、どうだと言うんだ」

図星だ。

「だったら、かえって好都合です。
記憶が隠蔽されたという、そのこと自体を材料に、小夜ちゃん達をゲームに誘うことができる。
記憶の隠蔽と、楽園世界の歪みは、密接に関連している。それを利用して、揺さぶりをかければいい」
「よく考えて下さい、博士。
あなたは僕が嫌いだろうが、この役は僕にしかできない。小夜ちゃんに会いたくないんですか。甦った彼女の体を再び抱きしめたいとは思わないのですか。
僕ならば必ず、小夜ちゃんを呼び戻してみせる。
僕だけが、彼女を目覚めさせられる」

『ご返答が確認できません。異常事態とみなして対処させていただきます』

『急げ、朋来! 私達はあと数分で引き上げる』

警備会社の呼びかけと、キングの声が交錯する。

倉敷博士は、ふっと嘆息すると、宙を見上げた。
「まったく……この状況で、よくそれだけ臨機応変に切り返せるものだね。
そういえば、君は昔から、そら恐ろしいほど頭のいい子だった。若い頃の真神も、剃刀のような切れ味を持っていたが。
君なら、あるいは……」

『突入開始!』

『門が破られる』

倉敷博士は何かを心に決めたらしい。
別人のように決然とした表情で、僕の目を見据えた。

「朋来くん。もし君が小夜音を起こすのに失敗したら、君の人生を私に委ねると、誓えるか?」
選択の余地はない。僕は首肯した。

「誓います」

倉敷博士は頷くと、インターフォンの受話器を取った。

「こんにちは。所長の倉敷です」

『あっ、倉敷所長? 待て、一旦止め!』

インターフォンの向こうで、慌しく気配が動く。
倉敷博士は、非常事態の片鱗も感じさせない穏やかな声で、相手に語りかけた。
「その声は、△△警備の長谷川さんですか? いつもお世話になっています。
申し訳ない、どうやらまた、警備システムの誤作動だったようで」

『そうですか。しかし一応、中を確認させていただいてよろしいでしょうか』

「もちろんです。今、玄関までお迎えに上がります。では」

受話器が置かれる。
博士はひとつ息をついてから、僕を振り返った。

「契約成立だ、朋来くん。君と、手を組もう」

それから、僕が提案した計画が実行されるまで、半年を要した。
会議や予算の申請、実行に伴う準備など、研究所内部での手続きは、すべて倉敷博士が行ってくれた。
おかげで僕は、計画内容について検討を重ね、シナリオを入念にチェックし、企画書を完成することに専念できた。

当初、僕はこの計画を、「タイムカプセル・プロジェクト」と命名した。
1999年の夏に、僕と小夜ちゃんと雄大と天彦、すなわち研究所に通っていた子供達全員で、朱鷺坂山に埋めたタイムカプセルがある。そのタイムカプセルを端緒に使うところから、つけた名称だ。
だが、それでは長すぎる、もっと短い呼び名もあった方がいいと助言を受けて、「時函」の略称も併記するようになった。
したがって、僕が提出した企画書の表紙には、「タイムカプセル・プロジェクト(時函)」とのタイトルが、記載されている。

「時函」の概要は、ここでは省略する。
ただ、時函において僕が担った役目は、使者として楽園に入り込んだ上で、幼馴染達がタイムカプセルの謎に興味を持ち、その謎を追究するよう、誘導することだった。
彼らが謎を追いかけていくのに合わせ、徐々に記憶の隠蔽を解いていく。そして、記憶を完全に回復させたところで、世界の謎を暴露する第二段階へと進む、という仕組みだ。
他方、もし彼らが謎にまったく興味を示さない、あるいは追究の途中で拒否反応を示した場合は、現状維持を望んでいるものとみなし、計画は中断。時函についての一切の記憶は隠蔽した上で、彼らを半永久的に楽園に留めておくこととされた。
計画の内容や実行の細目については、僕は倉敷博士と、何度も打ち合わせを行った。

「楽園の中での朋来くんの外見だが、1999年当時の姿がいいんじゃないかと思うんだが、どうだろう。
成長した今の姿で現れるより、その方が小夜音たちの記憶を刺激するんじゃないかな。
それに、君が子供の姿のままだという不自然さ自体が、世界の綻びを感じさせる一助ともなるかもしれない」

「それは、たしかに」

「では、子供の姿でモデリングを行うということで、いいね。
それから、楽園内での朋来くんの言動には、制限をつけさせてもらう。監視用のユキボシも飛ばすが、構わないかな」
「どうぞ。僕も、計画の段階に応じて、必要な情報に絞って伝達するよう心がけます。余計な情報漏洩は厳に慎むつもりですので」

「うん、それもあるが、あまり小夜音に近づきすぎないでほしいんだ。君は使者だ。その分をよく弁えてほしい」

「何の心配をしておいでです? 僕が、小夜ちゃんを口説くとでも?
ご安心下さい、僕にそんな資格がないことは百も承知だ。
彼女を……死なせたのは、僕ですから」



そして、2005年7月21日。
タイムカプセル・プロジェクト、通称「時函」の蓋は、開かれた。

最初に感じたのは、頬をなぶる風だった。
次いで、小川がさらさらと流れる音。
膝裏を刺す夏草の感触。

僕は、目を開いた。

瞬間、目に飛び込んできた楽園の景観に、僕は息を飲んだ。
なんという輝き。なんという現実感なのか。
色も音も匂いも触感も、現実そのもの、否、いっそ現実より鮮明なくらいだ。
これが仮想現実だとは、到底信じられない。ここは……ここは、幼い日に遊んだ、あの川原そのものじゃないか。
懐かしさに、胸が詰まる。
感情の高揚に反応して、石が泣いた。

リーーーーーン

そうだ、この川原で、僕達は遊んだ。
この町で、僕達は生まれて、育った。
春も夏も秋も冬も、ここで、この故郷で、僕達は過ごした。
ここで──。

喉元にせり上がってくる熱い塊を嚥下していると、不意にポケットの携帯電話が鳴った。
倉敷博士だ。

『やあ、朋来くん。無事にアクセスできたようだね。
体に異状はないかい』

「ない、と思います。
念のため、今から体を動かして点検してみます」

『うん、それがいい。
中での体は、外の君より小さいからね。最初は戸惑うかもしれないが、出番にはまだ時間がある。夜までにゆっくり馴らしておいてくれ。
しばらくは、楽園の中を見て回っているといい』
「そうさせてもらいます。
……美しい世界ですね、ここは」

僕は目を細めて、周囲を見回した。
天才が精魂を傾けて造った、愛娘のための棺。
大切な宝石を護り育てるための、美しい函庭。

『ありがとう。では、また連絡するよ』

携帯電話をしまって、僕は天を仰いだ。

灼熱の円盤を戴いた蒼穹。炙るような陽射しが、僕を押しひしぐ。
夏空は嫌いだ。彼女を失くした夏を思い出す。
と、青い空にふわりと影が泳いだ。
とっさに手を伸ばし、僕はそれを捕捉した。何だ? 麦藁帽子?

それは、桃色のリボンのついた可愛らしい麦藁帽子だった。
この世界では、帽子が宙を飛ぶといった事態は、あまり起きないはずだ。偶発的・突発的な出来事は、生身の人間、すなわちプリテンダーか子供達だけが、起こせる事柄なので。

まさか。

さやさやと、草をかき分ける音が近づいてくる。
誰かが息を弾ませながら、土手を下りてきていた。
風に甘い匂いが混じった。
「はあ、はあ……。ないわ。どうしよう。
お父さんが買ってくれた帽子なのに……
気に入ってたのに……」

まさか。まさか。まさか。

胸の高鳴りを抑え、僕は振り返った。
時が止まった。

リーーーーーーーーーーーン

石が、ひときわ高く歌う。
音に気付いたように、彼女が、顔を上げた。

(The End)
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