続きは、7月26日発売の『CONTINUE SPECIAL Gのレコンギスタ』にてお読みいただけます。
富野 女性スタッフに、アイーダはかわいくないって言われたこともある。もちろんこれはルックスの話じゃないんですよ。可愛げが見えてないということです。文芸ってやっぱり色気、色艶なの。その部分がやっぱり匂ってこない。そこは年齢を突きつけられた感じがありましたね。だから劇場版で、おじいちゃんにもう一度頑張らせてくれ! と思って頑張りました。なので、アイーダお姉さんについては、「どうもこの男と寝たらしいよ」っていう描写は入れました。
──(笑)。お話を聞いて『∀ガンダム』のディアナ様は、そういう意味ではかなり特別な存在だったんだなと思いました。 富野 あれは本当にそうですね。高橋理恵子さんが来てくれたおかげで、あの声に惚れたっていうのも大きかった。アニメっておそらく実写以上に制作者がキャラクターに感情移入ができるし、してもセクハラにならないで済むというメディアなんですよ。 ──すると、ディアナ様は最後の恋人という感じですね。 富野 そうね。アニメキャラならいくら思い入れても、週刊誌に書かれる心配はない。……それでいま、強制的に思い出されたんだけれど、ファーストガンダムのときの女性キャラクターはみんな幸せでしたね。今年受けた取材なんだけど、アニメとは全然関係ない仕事をしている40代の男性に「なんでマチルダさん殺しちゃったんです?」って言われたのよ。「……不自然じゃないでしょう? 戦争だったらああいう局面もあるでしょう」って話しても、「いやだけども! なんでマチルダさん殺したんですか?」って本気なのよ。
もし僕の仕事の仕方にそうしたものが見えるのだとすると、それは僕の作るものが名作だからです(笑)。 色気のない言い方をしますが、みんな生活のためにやってますね(笑)。新人を使うというのは、こちら側にかなり余裕がないとできないんです。 アニメの世界で髪の毛をグリーンにしたのは僕が最初なんですよ。 『G-レコ』は5年後に観ても30年後に観ても古びませんので、死ぬまでに一度観ておいてください(笑) 本当に女ってのは化け物だから、描きようがいくらでもある。あるようでない。底抜けなんです。そういう意味で、素材として面白いし難しい。だから男はずーっと“女のハダカ”を描きたいんだ、という気がしています。 歳を取るとは、ものすごく簡単なことです。墓場に向かって歩く。……その自覚がなくなるから、底抜けにバカな政治家になったり、マーケットの拡大しか考えない経営者になったりするわけです。累進的にすべての物事が上昇していくという資本主義論はどこにもないと知るべきです。 僕の経験でいうと、失恋は一生忘れられません。『あの人のことは忘れた』という言い方ができるのなら、それは恋をしていたわけではない。単なる男女の遊びごと…俗に言う色ごとでしかないんです。……泣き寝入りするしかないんです。……失恋させてくれるくらいの人に出会えたのは幸せなことだと思ってください。 それは無理です。僕は近々死にますから(笑)。
巨大ロボット物というジャンルだからこそ、近未来も明るく楽しい物語にして描けるのではないかと考えて創りました。この映画で地球を見下ろしている夜の部分の電気の光の量は、20世紀はじめのように少なくしてあります。宇宙エレベータについては、宇宙世紀を受け継いだ技術によって、現在考えられている以上の大きな質量のものが運用されています。それらの意味はどういうことなのか、と、子供たちには考えていただきたいと考えて、ベルリとアイーダの物語を創ったのです。大人の理屈だけで考えてしまいますと楽しいアニメ映画にはなりませんから、本作は楽しく観ていただきたいのです。その上で、未来的な問題がどこにあるのかに考えを巡らして、その解決策を考えてくださる子供たちを待ちたいのです。
『Gのレコンギスタ』というタイトルには「ガンダム」というタイトルが付いていますが、基本的にガンダムとは関係が無い作品です。ですから『ガンダム』という作品を知っている人には「理解ができない」と嫌われました。
『G-レコ』に関しては、最初からアニメファン、ガンダムファンを相手にしていませんから、同じことしか言っていません。巨大ロボットも出てくるし、宇宙を舞台にしているんだけれども、「宇宙開発絶対反対アニメ」なんですよ。 ガンダムファンは『G-レコ』に見向きもしませんでした。実際ファンに付いてくれたのは、二十歳前後ぐらいまでの人だったんです。 宇宙エレベーターを「キャピタル・タワー」という言い方にしています。キャピタル、つまり資本を発生させるためのものになっている、そういう物流を発生させるという設定になっています。 『G-レコ』の世界では地球で天然ガスや石油も何もかも一切採れなくなってしまっているので、エネルギーを別のところから手に入れる必要がある。 今の資本主義社会で実業家、あるいは技術者に対して「あなた達にはこんなことできるわけないよね」という言い方をしているわけです。 「子どもに向けて未来に希望のある物語を作りたいから始めたことなんです」 地球はあと150年ぐらいしかもたないと思っている。今の時代を舞台にして孫たち、ひ孫たちに、「明るい未来があるから、お前たちも頑張れよ」という言葉を、僕は見つけることができなくなっちゃったんです、もう20年以上前に。 ガンダムを作ることをやめたという言い方があります。そして、20年後に『Gのレコンギスタ』を何とか思いついたのは、既存のガンダム世界、宇宙世紀の延長線上で考えると絶望しかない。つまり、宇宙戦争が終わった後に、地球はどうなっているかといえば、めちゃめちゃになっている。 子どもたちに明るい未来がある物語をウソでも作ろう、アニメだからウソでいいだろうと思ったわけです。 だから「ビジネスパーソン向け」と言っているメディアには、似合わない話なんだよ。もう、この取材はやめなさい。 人口縮小が脅威なのではなくて、その方が永続性のある社会をつくることができるとか、地球を保全することになるかもしれないという、つまり“縮小していくためのビジネスをやっていく”というところに行かなくちゃいけないんじゃないの? いっそ太平洋に浮島を造ってでもいいから、 エレベーターを動かしたからといって、物流のための交通手段になんかならないんだよね。そういうことではなくて、もっと社会性と実用性を兼ね備えつつ、ペイできるシステムを考えていくところに、そろそろ技術者も行かなくちゃいけないんじゃないの? という話をするためにも、『Gのレコンギスタ』みたいなものを作っておけば話をしやすいでしょうと、それだけのことなんだ。 孫やひ孫たちに、「一応問題は全部列挙したから、『G-レコ』を見たうえで解決策を見つけてくれない?」とお願いしているのがこの作品なんです。 田地・田畑をこれだけ休みにさせているというのは、税制や所有権の問題などがあるんだから、その辺をもう少し有効に使っていって欲しいんですよ。 スペースXを作ったイーロン・マスクは天才かと思ったんだけど、「人口減がこれだけ進んだら、日本なんていう国はなくなる」と平気で言う。まともじゃないと思いません? だけど今、中国では銀行の取り付け騒ぎみたいな大問題が起こっているわけ。ということになると、投資家を保護することがどこまで善なのか、つまり金融資本の問題になってくるということを、そろそろきちんと我々が言葉にして、それはおかしいと言わなくちゃいけない時代が来ているんじゃないですか? 80のジジイにさ、あと3年も生きないかもしれないような人にさ、新作の構想があるわけないじゃねえか(笑)。 それを聞こうとしているのは、メディアの在り方のクセで、機械的に聞きたがっているだけ。本気で「富野さんという人の才能はとても偉大だから、やっぱりあの人のやっていることは死ぬまで目が離せないから、いろんなことを全部聞いておこう」というふうに思えるようなキャラクターに見えないんだから、聞くな!。 『宇宙戦艦ヤマト』をつぶしたいという話をしているわけね。 「ふうん、いいんじゃないの。海の向こうの要するに蛮族の国で」というぐらいの認識しかあるわけがないのよね、当時の中国なんて。 中国では銀行の取り付け騒ぎみたいな大問題が起こっているわけ。ということになると、投資家を保護することがどこまで善なのか、つまり金融資本の問題になってくるということを、そろそろきちんと我々が言葉にして、それはおかしいと言わなくちゃいけない時代が来ているんじゃないですか?
――そのシーンの話をもう少し続けさせてください。絵コンテには、そのシーンでの女性の胸の揺れに対して、細やかな指示が書き込まれています。 富野 その記憶は全くない。 エロチックに一切行かない、媚びていない走りの資料を探すだけで2、3日かかりました(笑)。 一番重要なのは連続性です。人というのは、親子という連続性がずっとあることで続いて来ている。リアルな戦場の写真を見ると、ヌード写真を置いてあるのは珍しくない。あれがなんなのかをもうちょっと考えていくと、親子の連続性に突き当たります。「人として何かを維持する」という努力の連続性が見えないところにいると、人間はきっと不安になるんですよ。だから今回の『G-レコ』で描いたレベルの宇宙で生活している人を示すために、その不安から逃れるために、人の連続性を絶えず意識させるものを画面に置くことを設定していったのです。 『ガンダム』ではスペース・コロニーというものを描いてみせたけど、あれは嘘八百の設定なんです。「シラノ-5」みたいな居住用の構造物も登場させて、「このくらいチマチマとやらなければ宇宙空間では暮らしていけないんだ」と示してもみたけれど、あれはつまり無理だということですよ。宇宙では人が暮らしていけないんだとアピールするための作品が、『G-レコ』だった。宇宙開発を信じている政治家と、経済人と、宇宙開発大好き人間に対して、「それ、そろそろやめたら?」って話をしたかったわけです(笑)。 だから『G-レコ』の作品評価は、表向きは「50年後にはわかる」と言ってるんだけど、本当は100年くらいしないとわかってくれないなって思っています。だけど50年はさておき、100年作品が残るかあまり自信がないんで、一応控えている、謙虚な老人を演じているつもりでいるんです…… 生き死にに隣接している人の生命観は、セクシャリティに表れるんじゃないかとは思っています。それの行き着く先は、ジット団のクン・スーンの妊娠です。あれは絵コンテを描く段階ではあまり予定していなかったんです。でも『G-レコ』5部作を大きな話としてとらえて、そのエンディングを撮っていくときに、作らざるをえなくなった。それは「人の関係ってこうだろう、そして、それは決して絶望ではない」と見せるために必要なものだったんです。あそこのセリフを思いついたとき、僕は『G-レコ』を作ってよかったなって、すごく思えた瞬間でした。 宇宙生活者を全部地球に帰還させられればいいのに、そこまではあのラストではたどり着けていない……つまり『G-レコ』という物語は、本当の意味でハッピーエンドになっていないんです。それがあのシーンのことをこうやってしゃべることによって示せるという意味でも、やはりクン・スーンにキア・ムベッキの子を妊娠させたのは間違いなかった。 ノレドの扱いは、一切合切触っていません。TV版のままですよ。ままだからこそ、最後にベルリがノレドを取るという方法をやらざるを得なかったんです。劇場版にはドリカム(DREAMS COME TRUE)のテーマソング(「G」)があるわけだから、それに対応させたものを作らなければ、ドリカムにナメられる! ナメられるならまだしも、曲を書いた中村正人に絶対にバカにされる! ――監督としてはあの「V」のラストは、違う描き方もありえた? 富野 出来上がったからこうやってしゃべれるんだけど、一時期、制作進行と揉めました(笑)。何人かの意見を入れた上での総合的な回答があれです。ゴビ砂漠に行くところまではよかったんだけど、ゴビ砂漠で真っ先にベルリが出会う、砂漠のガイドツアーを出そうと考えていたんです。ガイドツアーがいて、何人かのお客さんを案内してゴビ砂漠に来ているところにベルリが合流して……と。なんでガイドツアーなのかというと、その役で吉田美和さん(※DREAMS COME TRUEのボーカル、「G」の作詞も担当)が出演してくれると嬉しいというスケベ根性があったわけ。でもそれをまわりに言ったら、「それはダメでしょ」と返されて……。 「吉田さんのあとにノレドを出すんじゃダメなの?」って言ったら、「ダメ!」ってみんなからくそみそに言われてさ……(笑)。そうした思案もあって、揺れ幅があった上で、ノレドとベルリに集約していったから、自分としては「こんな簡単なルートにするのは、便利すぎないか?」という気持ちがあった。だって、地球で再会できたといっても、どう考えてもベルリはGPS付きの何かを持ったりしているわけだし、追いかけてきたノレドはそんなものは使いこなしているでしょうよ。20年前……いや、50年前の作品なら話が別かもしれないけど、今の時代だって、合流しようと思ったらできるよね! それで盛り上がるの?と僕は思った。でもまわりは、「できるんだから、いいんですよ!」ってね。 『G-レコ』のそうした技術論はかなり他人事に捉えている部分があって、しょうがなく使っているので、ドラマの本線に響かない扱いにしていますね。根本的に僕が巨大メカの性能論に関して興味がなくなっている部分があるんです。 この作品は「ガンダム」ではない、「ガンダム」離れをしていると僕はいうけれど、結局モビルスーツもどきが出てきて、それがドッキングしたりしなかったり、新能力が出てきたり、武器が変わるとどうのこうのとかね、G-セルフのデザインを発注したときに安田朗がビッシリ性能表を描いてきた。それを見たとき、ほんとゲッソリしたのね! まさにゲーム世代の感性だと。能力論ではなく、感性。スペックを作りたがって、平気で描いてくるのよ。却下しろ!って言いたかった。だけど70歳も過ぎて、若い人向けに作ろうとしているときに、こうやって描かれてきたものを全部使ってみせるくらいのことをしないと、ゲーム世代やそのもっと下の世代にバカにされるんじゃないかと思って、本当にしょうがなく使ったわけです。 ――だからベルリは、超兵器の威力に一瞬動揺しますけど、比較的すぐ立ち直る。決定的な影響は受けない。 富野 まったくそうです! 僕も無責任に使っています。どうして無責任に使ったかというと、「メカものの演出をずっとやってきた、プロのトミノさんなんだから、使うことくらいはできるよ?」って示しているだけ。だけど、全然興味はないの、おジイちゃんは。 そういう風にもっともらしく何かを描くことは、まさにアニメの、絵空事でやっているから笑い話で済んでいるんだけど、もっともらしく何かを描くことは、現実でもその場しのぎにはなってしまう。これはかなり危険なことなんです。現実の出来事でもフェイクの話が山ほど出ているわけじゃない? 流している側も、フェイクとわかってやっていたりする。そのメンタリティは、実を言うと既にフェイクではなくなってるのね。リアリズムなの。フェイクで戦争しているわけだから、フェイクを扱ったリアリズムなの。そうやってフェイクが現実に滑り込むことで、どこかの世界では人の死が正当化されてしまう。こういう物の見方は、現在とっても重要なんじゃないの? みなさん方が触っているSNS。TikTokのような動画を扱うものも含めて、誰もがデータを加工していますよね。そして加工したものを、「これが私よ!」といって表示する。僕たちは「そんなにお前のお目々はでっかいのかよ!?」とわかるけれど、そのうち、加工済みの「私」を、自分も他人もフェイクじゃないと思う世代が出てきてしまうでしょう。 フェイクを積み重ねた先に、フェイクをフェイクと感じないメンタリティを持ってしまう可能性がある。そうした世界に、我々はついに足を踏み込んでしまった。だから『G-レコ』でトミノさんがスペック表を使ってみせただけ!というのは、アニメの中だから済んでいることなんです。そしてフェイクを使いこなし、暴走させることなく、ひとつの物語を終わらせたのは、かなり上手なことだった。それに気がつけた人は、僕のことを褒めてください(笑)。 現在の世界情勢を見ていても、『G-レコ』が予見している「未来は明るくないんだよ」という話を、そろそろ真実のものとして取り上げていくようなセンスも、世の中には欲しいんだけれどね。こんな話をしながらも、絶望的になってきているなって感じがする。僕としては『G-レコ』的に、一度人類が絶滅しそうになったという前提を外さずに、未来を考えることができなくなりつつあります。早ければ30年後には、『G-レコ』が語っていることがどういうことか、世界的に認識される気がして、嫌ですね。 現在の人類はそのくらい脆いと思う。困るのは、人間が頭でものを考えられるかぎり、差別はなくならないであろうということです。 例えば動物愛護運動にしても、「愛護」の対象は選ばれる。動物愛護団体に向けてそんなことをいったら、その瞬間に袋だたきにされるでしょうがね。 人間の知恵そのものが持っている偏向は何に根ざしているかを考えたときに、それの解明が僕はできないから、差別に対して言えることはあまりないんです。実際に我々はお魚にしても生物を食べているわけだし、野菜にしたって生物を食べている。そうすると菜食主義者の方が善みたいな言い方をされると、「ちょっと待て」と言いたくなる。でもそれを正当に言い切れない知恵の問題はどう考えたらいいの?と言いたくなってもしまう。知恵が中途半端に進化してきた問題は、ものすごく大きい。中世以前のものの考え方でストップしていた方が、人生は幸せだったのかもしれないと思ってしまうときもあります…… 初期設定を考えていた段階では、クンタラという集団を具体的に出そうと思わないでもなかったんだけど、今みたいな話に絶対滑り込むのね。これはいくらなんでもめんどくさいし、子ども向けのアニメにはならない。絶対に設定から生じる物語が自家中毒を起こしてしまうから、そこからは逃げました。マスク(ルイン・リー)の描写止まりにした。 初期設定を考えていた段階では、クンタラという集団を具体的に出そうと思わないでもなかったんだけど、今みたいな話に絶対滑り込むのね。これはいくらなんでもめんどくさいし、子ども向けのアニメにはならない。絶対に設定から生じる物語が自家中毒を起こしてしまうから、そこからは逃げました。マスク(ルイン・リー)の描写止まりにした。この現実的な条件のあるジャンルでやれる新規のものがなく、真っ白な状態から、まったく条件のない状態で新規の企画を作ることができない自分もきちんとわかってしまった。 その「富野由悠季の世界」をやったときに、勘が働いたんですよ。「嘘でもいいから何か企画を持っていると、この場で開示することで、作れるようにするしかない」と。そこから『ヒミコヤマト』というタイトルが出てきた。こうしてタイトルを世に出してしまったことで、構造的に巨大ロボットものを作るときと同じ条件ができた。 だからそこに戦艦大和の復活をくっつけて、『宇宙戦艦ヤマト』を潰そうという外圧を入れようと思っているわけ。 もともと10年前にこの企画の原型を考えたときは、実はまずそこから考えたのね。