宝田明 宝田明

  • 简体中文名: 宝田明
  • 别名: たからだ あきら
  • 性别:
  • 生日: 1934年4月29日
  • 血型: O型
  • 身高: 183cm
  • 逝世: 2022年3月14日

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    职业: 演员

    宝田 明(たからだ あきら、1934年〈昭和9年〉4月29日 - 2022年〈令和4年〉3月14日)は、日本の映画俳優、タレント、声優、司会者。

    父は技師であり、越後国村上藩藩士の末裔で朝鮮総督府で海軍武官を務めていた祖父の勧めで朝鮮総督府鉄道に勤務した。6人兄弟(兄3人、姉、弟)。2歳の頃に、父の南満州鉄道(満鉄)への転勤のため、満州へ移る。終戦後、12歳でハルピンから引き揚げ。博多から、本籍地の新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)に移り、同市大工町にある寶田家の菩提寺笠原山善行寺に身を寄せる。寺の四畳半で2年間暮らし、村上本町国民学校に通った。

    1953年、東京都立豊島高等学校卒業後に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート。同期には佐原健二、河内桃子、藤木悠、日活に移籍した岡田眞澄がいる。同年、映画『かくて自由の鐘は鳴る』でデビュー。翌年、特撮映画の金字塔である『ゴジラ』で初主演を果たす。長身・美形の二枚目俳優として東宝映画の若手トップスターとなり、数多くの映画に主演。全盛期には連日連夜銀座に繰り出し夜遊びに精を出していた。

    1959年の日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子と1966年4月29日(32歳の誕生日)に結婚し 、1974年1月の次男誕生までの8年間に2男1女をもうけたが1984年に離婚した。1991年に『ジプシー』がヒットした歌手・女優の児島未散は長女で、明子との最初の子供である。

    1960年代は、東宝と香港のキャセイ・フィルムとの合作映画(『香港の夜』他)で、香港の女優・尤敏(ユーミン)とコンビを組んで、香港、台湾など、アジア地域で絶大な人気を博した。1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演している。

    特撮(怪獣)映画には『ゴジラ』の翌年の『獣人雪男』以来疎遠だったが、1964年の『モスラ対ゴジラ』の主演で復帰。以後も昭和から平成まで多く出演し、日本の特撮映画の代表的なスターと称される。

    明るく華やかな雰囲気であり映画では『100発100中』の、最初からフランス語のセリフで登場し、ヒーローなのか悪人なのか分からないまま終わるキャラクターなど持ち味を存分に発揮している。また、映画斜陽期以降はミュージカルの世界にも活動の場を広げ、『マイ・フェア・レディ』などで人気を集め、日本におけるミュージカル俳優の草分け的存在としても活動した。1980年、東京都中野区江古田に日本初のミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」を開校するも、1983年5月末で閉鎖となった。

    俳優活動以外にも、ミス・ユニバース日本代表選出大会では1991年まで司会を担当していた。1990年代以降は、気障な二枚目というキャラクターを逆手に取り、バラエティー番組への出演や、金鳥の入浴剤「音浴湯」のCMでのコミカルな演技で新しい境地を開拓した。

    2016年6月10日、政治団体「国民怒りの声」より、第24回参議院議員通常選挙の比例区候補として立候補することが公表されたが、17日には立候補を取り止めたことが発表された。立候補を取り止めた理由として「後進の道を阻むのではないかと自問自答した」と述べている。

    晩年は入退院を繰り返していた。2022年3月10日、同年4月公開の映画『世の中にたえて桜のなかりせば』の舞台挨拶では、腰痛が悪化したため車椅子姿で登壇したが、同作品が遺作となり最後の公の姿となった。翌11日に体調の悪化を訴え12日に入院、13日の夜に容態が急変し、14日0時31分、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳没。訃報は4日後の同月18日に所属事務所から公表された。児島明子との離婚後に再婚した一般女性が喪主を務めたことも明らかにされた。

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