#1 - 2019-10-9 13:04
渡りの詩
プロローグ
真・メタ女正史(抜粋)第三版
筆者・梅小路タキ

壱. メタ女設立の事

 今は昔、時を遡る事、壱千と弐百年余。
光仁天皇は、其の命を律令政治の再建に尽くしたといふ。
肥大した朝廷組織、日増しに発言力を強める仏教僧共。
これらを一蹴し、真の政を再建するといふ彼の悲願はしかし、私利私欲に溺れた僧勢力の反発により路半ばにして挫折の憂き目にあうのであった。

 更に幾年かの後、先代天皇の意思を継いだ桓武天皇は、淡路島に漂着した亜戸蘭手州(※1)人の超物理学者トポロジー博士を関白に迎え、無視できぬ程までに勢力を伸ばした僧侶共に対抗する為、思い切った政策を取ってきたのであった。
 すなわち、仏に変わる新しい秩序『超科学(※2)』の導入と、『遷都』である。

 七百九拾四年(延暦壱百参年)。現在で言ふ京都に、新しい都『平安京』が誕生した! 合理化された組織、毅然とした政治、そして超科学。
 世に言ふ、平安時代の幕開けである!
 だが、遷都反対派の僧勢力によって起こされた暗殺未遂事件で、立役者トポロジー博士は右腕と右眉を失う。

 事件後、彼は関白職を辞し余生を今度は自分の理想の為に尽くすこととなった。其の理想とは、都繁栄の為に最も重要な要素、優秀な女性の育成である。この考えに基づき、彼は平安京の南に女子高校を建立した。
 それが、遥か亜戸蘭手州の教えであったのか、真意は今となっては知る術もない。

 建立されし女子高校、名を『府立メタトポロジー大学付属女子高校』といふ。七百九拾七年(延暦壱拾六年)、メタ女は厳かに開校し、今まさに伝説の始まりを迎えようとしていた。

 ※1 文献によると、『トポロジーなるもの水没都市亜戸蘭手州より来たる』とある。
 ※2 超位相幾何学と超物理学のこと。

弐. 平安四大倶楽部誕生の事

 メタトポロジー大学付属女子高校は、開校当時より学内での自由な倶楽部活動を認められていた為、生徒増加と共に倶楽部数までもが天文学的に増加していった。この事態に憂慮したトポロジー博士は八百壱拾七年(弘仁壱拾七年)、当時生徒数の弐千~伍千倍(※3)あったとされる倶楽部の統廃合を指示する。
 この指示に従い、新たに四ヶの倶楽部が誕生した。

・バイオ、ナノテクノロジー、バイオトポロジー研究等の関連統合部『バイオ部』
・天体学、メタ天文物理学、量子力学、ラプラスデモン研究等の関連統合部『天文部』
・上記以外の文科系倶楽部の統合部『文化部』
・スポーツ関連全般倶楽部の統合部『運動部』

である。
 これを平安四大倶楽部体制と呼び以後70年間余をメタ女の歴史の中で一番平和であった時期とされている。

 ※3 似たような倶楽部が多く、ほとんどの生徒が信じられないような数の掛け持ちをしていたと推測される。

参. 弐大勢力の台頭の事

 トポロジー博士暗殺を企てた僧派一党は、反天皇・過激勢力として遂に奈良仏教界からも追放されてしまう。
 彼等は復讐の矛先をメタ女に向け、平安京に移り住み其の子女をメタ女に送り続ける。その甲斐有ってか、反天皇派の「藤原定是(ふじはらのさだこれ)」が三女「藤原桜姫子(ふじはらさくらきし)」は『天文部』の部長に就任、倶楽部首脳陣を次々と反天皇派で埋めて行く。

 そして、遂に八百九拾四年(寛平伍年)『天文部』は武装決起し『文化部』を吸収し、メタ女粉砕へと動き出した。
 しかし、メタ女指導部も、『バイオ部』と『運動部』の弐部によるメタ女自衛会結成で対抗、龍学橋の園(※4)の戦いで『天文部』を破る。
 この敗戦により藤原桜姫子体制は崩壊、内部の裏切りにより藤原桜姫子は殺されるのである。

 戦勝部である『バイオ部』と『運動部』は、半ば強引にであったが統合され『νバイオ部』へ、『天文部』は『文化部』を包括したまま、以後伍拾年の間『天文同好会』へと格下げされた。
 両勢力は互いに牽制しあいながら、メタ女防衛という建前を掲げ、武装を強化していくのであった。

 ※4 現在の旧校舎前中庭

四. 激突の歴史の事

 こうして、武力を高めていった弐大勢力は、やがて一触即発の状態を迎える。
 壱千壱百八拾弐年(寿永元年)。当時、平家出身の執行委員が多かった『νバイオ部』に対し、源頼朝の援助を受けた『天文部』が挙兵。メタ女全校を揺るがす大乱戦に発展した。
 結果は『天文部』の大勝に終わり、『νバイオ部』執行会は全員都落ちの落ち部員となった。

 翌年、メタ女指導部の勧告で完全中立中道の全校生徒会議(※5)が結成され、これのとりなしで両倶楽部間に不可侵条約が締結。
 一時期ではあったが、平安四大倶楽部に次ぐ安定期を迎える。

 だが、安定は崩壊の為の準備期間にしかあらずかな、壱千弐百六拾八年(文永伍年)、第七次十字軍派遣の是非で両部が激突。血みどろの戦いが続く。全校生徒会議は仲裁に入ったが、調停会議において戦闘支持派である天文部の壱年生将校がクーデターを起こし、天文部執行部、及び全校生徒会議のメンバーを惨殺。調停会議はおろか全校生徒会議をも活動停止にしてしまったのであった。

 この戦いは、壱千参百参拾伍年(建武弐年)に一旦収束の兆しを見せるが南北朝の争いが飛び火して、壱千参百九拾弐年(明徳参年)にやっと終結となるのである。
 しかし、時代はめぐり戦国の世になると、様々な武将の娘が入校していた為に、再び戦乱がメタ女を支配するようになる。こうして、血を誘ふ悪魔が住んでいるかの様に、終わりの無い地獄絵巻が展開されて行ったのである。

 ※5 U.S.Cと略される事もある、現在の生徒会(メタ女中道真理真聖生徒会)の前身

5. 倶楽部分裂の事

 徳川幕府が開かれると、政の中心が京都から江戸に移った為、メタ女での争いは次第に小規模の物となり、授業がまともに行われるようになった。
 だが、ここに新しい動きが見られるようになる。すなわち、今まで他部撃滅の旗印の元まとまっていた各弐大倶楽部の中で、「文化部」「運動部」の志を引き継いできた者達の倶楽部独立運動である。
 独立機運を一気に高めたのは壱千七百壱年(元禄壱拾四年)に起こった『縄文式土器愛好会討ち入り事件』だといえよう。

 この年、秋に天文部内壱会派、会員数壱千参百八拾弐名を数える『縄文式土器愛好会(サークル)』の会長「お菊」は、新興倶楽部設立の嘆願書を提出するがこれを無下に断られた為、授業中にもかかわらず他教室へ乱入。当時天文部総務課を取りまとめていた老中「吉良昌子」にエレキテル中性子鉄甲弾を乱射する。「お菊」は、第特種校則違反で職員会により拘束。再編成されたメタ女中道真理真聖生徒会議(以後生徒会と略す)の即時お白州によって、切腹を申し渡される。
 この処置をうけて、縄文式土器愛好会は決起を断行。翌年冬に、吉良昌子の詰め先であった天文部地蔵ヶ池出張所(※6)へ討ち入りを行う。

 全く虚を突かれた形の天文部は、一時的に地蔵ヶ池出張所の占拠を許してしまい、結果、吉良昌子は惨殺されてしまうのである。
  なほ、討ち入りに参加した縄文式土器愛好会の員は吉良の殺害で目的をなしたのか、同出張所内にて全員自害した。

 前述の通り、この事件をきっかけにそれまで目立った活動を起こしていなかった弱小倶楽部独立運動が一気に表面化された。伊万里鑑定部、浄瑠璃部、浮世絵部、戦国武将研究部、神道部、からくり部、三味線部、伊達正宗ラブラブ部、剣道部、雪上二枚板走破部(※7)、文学部・・・・・・・。
 数え切れない程の様々な部が、天文部からνバイオ部から独立を宣言し、弐千を超える倶楽部が乱立するに至ったのである。

 其の激動の時代の中、お菊と彼女を信奉し討ち死にした縄文式土器研究会の名は一種神格化され、以後倶楽部道の神として巨大埴輪像の横に播州神社(※8)が建てられ、そこに祭られる事となった。

 ※6 現在の天文部北東支部の辺り。
 ※7 推測ではあるが、現在のスキーだったとされる。
 ※8 お菊の出身地が播州赤穂であった為、こういう名になった。

六. 戦乱の時代永久に・・・・

 そして時はめぐり平成の世、あれほど乱立していた独立倶楽部も、吸収合併合戦の結果「天文部」、「生物部(※9)」、そしてその他の弱小倶楽部に大別できた。
 しかし、彼女達は倶楽部の成り立ちも知らず、憎しみ合っている理由すら知らず、いまだ戦い続けているのである。
 其の最たる倶楽部が「手芸部」である。

 手芸部とは、壱千八百六年(文化参年)ストリングカルテットと言われる「豊川村お定(とよかわむらおさだ)」「越前屋お春(えちぜんやおはる)」「氏部枝横山千姫(しぶえよこやませんひめ)」「三毛羅・クイーン」の四人が立てた学説「スーパーストリング理論(超手芸理論)」が天文部内で認められず、異端扱いされた事を不服として天文部より分離独立した倶楽部である。

 手芸部のゲリラ的行為は、壱千九百壱拾四年(大正参年)に生物部の傘下に加わってからもなほ続き、壱千九百九拾年(平成伍年)には、記憶に新しいビクセン事件を起こすに至ったのである。
 このビクセン事件については、誰もが大規模なメタ女紛争に発展すると危惧していたが、平和路線を強調していた東藤雅子生物部部長(※10)は、手芸部の解体を確約し賠償金の支払いを行った為、事無きを得るのだった。

 ※9 「νバイオ部」は太平洋戦争中第日本帝国側についたため「生物部」と名称を変えた。
 ※10 現在の生徒会会長である

七. 平和への道筋

 生物部の約束通り手芸部は解体され、手芸部執行委員は全員除籍処分となる。
 さらに、壱千九百九拾四年(平成六年)に手芸部書記室幹事長代行代理であったイワドリッヒ静子御前が手芸同好会を興した時も生物部はこれを無視、一切の援助を与えなかった。 この政策に対して生物部内部から反発の声が上がったが、東藤雅子生物部部長は地道な説得に成功し、分裂しかけた生物部陣営をまとめ上げたのであった。

 東藤雅子生物部部長はこの事件の平和的解決だけではなく、生物部と天文部の和平の為に働き、壱千九百九拾伍年(平成七年)秋、遂に両部の間に暫定友好条約が締結された。
 東藤雅子生物部部長は、この功績を認められ、倶楽部首脳者としては初めて生徒会会長へと就任したのである。
 壱千余年の長きに渡るメタ女の紛争がやっと終わりに近づいたのだといふ、今までささやかれた事すらなかった事を誰もが口に出し始めた。
 「平和」といふ言葉の意味が考えられる時が来たのだと、皆そう思った。

 果たして、府立メタトポロジー大学付属女子高校は真の平和と安定を手に入れることが出来るのであろうか? この問いには、これからの歴史の目撃者である貴方が、見、考え、そして、答えてほしい。

参考文献
 真・風土記 第六拾四ノ巻 ~府内にメタ女といふ学校有り  著:不明
 驚異の伊賀忍者、その名は『芭蕉』  著:長屋の長老磨華左衛門
 京都 恐怖のミステリーゾーンへの招待  著:八百屋順二
 のるかそるか号日誌  著:イワドリッヒ・ヨレヨレ
 最新トポロジー論  編:最新科学研究社
 平安京七不思議  編:上州屋吉野丈
 数学的繰込みとスーパーストリング理論  著:大高槻芳郎
 天文部部史  編:天文部総務部部史編集課
 生物部部史  編:生物部庶務部部史編集班
 聞け! 我の痛みと叫びを!  著:氏部枝横山千姫
 府立メタトポロジー大学付属女子高校おもひであるばむ  編:メタ女教職会