#1 - 2022-9-9 23:29
没得吃
我觉得等汉化出了之后,大家批评的点可能也会是这方面吧(我猜的)
虽然我不太同意他这么严格()


『わたしはあなたの涙になりたい』、今さら感想。  @victor_sugawara
断片的だけど、良かった点。
ラストシーン、涙を生命力の源とする想像力は「お涙頂戴」批判への反=批判として見事に機能し、感動的。
末端から塩になる塩化病を、指先(末端)を生業の道具とするピアニストに、演奏会場面で発症させる劇的さ。
と、優れた点はいくつかあって、総じて「いい作品」と呼んで差し支えないと思う。
ただ、どうしても書き手の技量不足を感じる。端的にいって、私は福島とワルシャワを本作で扱うべきではなかったと私は思う。
そして、福島とワルシャワに「頼らずに」物語を構成できなかったことは、書き手の技量不足に尽きると感じられた。
もちろん、福島とワルシャワを入れることは、「喪失」の問題を歴史的・社会的に大きな事件と結びつけようとする試みだと「好意的」に受け取れなくもないし、その心意気はよいと思うが、残念ながらそれが成功しているとは言いがたい。
実際、福島・ワルシャワを入れ込むことで、明らかに作品の焦点は散らされてしまっている。
焦点を散らしているというのはーーこの作品で主人公は母、親友、ヒロイン、そして想像的にはワルシャワの人々、福島の人々などを「喪失」するわけだが、あまりに多くの事件、事故、人々を詰め込みすぎているために、それぞれの対象への想像力、踏み込みが決定的に浅い。
このような扱い方では、ワルシャワや福島の問題を小説の「材料」として「消費」していると批判されても文句はいえまい。私には、これらの土地の歴史が、主人公の自己愛を飾るのに安易に使われているように、どうしても見えてしまう。
福島に関しては、文中から『想像ラジオ』『風の電話』ほか、福島を題材とした作品を踏まえた痕跡があるのだが、想像力の断片的な借用に過ぎず、とてもそれらを換骨奪胎できているとは言いがたい。
この作品は、人が物語を必要とし、物語を書かざるをえないと思う、いわば「物語の強度」を訴えようと試みているが、その説得力を持つに至っていないのは、以上のような点によるものと思われる。
また、作中で主人公はこの(ヒロインとの)物語を書くことはエゴではないかという「物語の暴力性」を自問していて、実際、ヒロインが物語化(消費者)されることの苦悩を主人公が引き受けるのは、「復興」のための「強さ」でこそあれ、弱さでもエゴでもない、と擁護してもよいだろう。
しかし、その暴力性を自覚しているのであれば、その誠実さをヒロイン以外にも向けるべきである。繰り返しになるが、ワルシャワ、福島を扱う手さばきが拙い。
さらに踏み込んでいうなら、「喪失」について物語る資格を与えるに足る説得力を、主人公に与えることに、この物語は成功しているとも思えない。
主人公は病によっても事故によっても戦争によっても、身体的喪失を何一つ経験していない。もちろん、「身体的喪失」の当事者でなくても、「喪失」を語ってよいのは言うまでもないし、主人公が「喪失」に対して極度の過敏を起こすという設定は、自分自身が身体的喪失を経験していないながらに「喪失」を語る資格を与えるために与えられたものだろう。実際、その設定は確実に機能しているが、それでもなお、あまたの「喪失」が主人公の自己愛の材料に堕している感が否めない。
こういう言い方をすればよいか。
私には「喪失」に過敏に反応する主人公より、「充足」に耐えがたさを感じて片面を潰してしまった父の方が、よほど倫理的に感じられるのだ。ここまで書いておいて弁解めいてしまうが、この作品は冒頭に述べたラストシーンのインパクトだけで、十分に大賞に到達しているとも言える。実際、大賞受賞作に求められるのは、あらゆる批評に耐える徹底的な防御力ではなく、一点で突き抜ける突破力だ。だから、白々しく聞こえるかもしれないが、私は本気でこの作者の二作目が読みたいと思っている。
※毎度毎度、偉そうですみません。文体なのでお許しください。
#2 - 2022-9-9 23:31
内容已被用户删除
#3 - 2022-9-9 23:38
而且也没考虑到四季大雅老师是不是某些事件的经历者或者朋友是经历者(
感觉这一点可以期待下一作()
关系者会把这个烙印带进每一部作品吧,但也有可能是四季老师只是选取一些切合主题材料来创作(